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 静かな庭に甲高い音が響く。派手な音。受け止めた斬撃は更に重い。
 角度を変え刻まれるように振り落とされる太刀を一歩、また一歩と下がりながら弁慶は刃で受け止める。
 薙刀の最大の利は長い間合いだ、けしてそれを侵させるわけにはいかない、確実に受け、払い、けして近づけさせてはならない。
 けれど相手の技量は遥かに高く、綺麗な太刀筋に迷いはない。まるで示された道でも辿っているかのようにまっすぐこちらを追いつめる。じわじわと押され、体制が苦しくなってゆく。それ以上に、一撃ごとに着実に、握る力を削がれてゆくのも苦しい。関節がきしみ、手が汗ばみ、今にも落ちそうな薙刀を必死で握りながらただ、弁慶は相手を……呼吸すら乱さぬ九郎を睨み、見据えた。
 昔はここまで力の差はなかったのに。


「手合わせをしたい」
 と、九郎が言ったのは本当に突然のことだった。
「懐かしいですね」
 彼らがもっと年若かった頃、特に平泉に着いたばかりのあたりなどは、よく刃を合わせていたものだったが、鎌倉へ赴いて以降、弁慶があちこちに出かけていていないものだから、その回数も自然に減り、ここ数年は全くしていなかったような気がする。
「けれど、僕ではもう九郎の相手は無理ですよ」
「仕方ないだろう、皆海に行ってしまって誰もいないんだ」
 九郎はよく打ち稽古や手合わせをしていて、いつもならば、彼の師匠だったり、望美だったり、将臣だったりと誰かしらがいるのだが、そういえば今日は皆、ヒノエに連れられて勝浦の海まで出かけてしまっている。
 京とは違うのだから、剣術に長けた郎党もいない。彼が弁慶を誘うのも無理ないのかもしれない。だから受けてもいいかもしれない、そう弁慶は思ったが、
気がかりがひとつある。
「……では、僕の腕が落ちていると叱らないでくださいね」
「何を言う。お前程の使い手ならば、鍛錬を重ね戦場で生かした方がいいに決まってる」
 ほら、やはり九郎の中では、遠い昔の実力が拮抗していた頃の印象で止まってしまっているのだ。このまま手合わせなどしたら、後から散々の小言が始まるのが目に見えている。それは御免だった。
「あの頃とは違うといつも言っているでしょう?」
「それはただの言い訳だ」
「まあ、そうかもしれませんね」
 とはいえ、確かにここ最近、調合で部屋に篭っていたから体は鈍ってしまったし、今は乾燥待ちだから、特にやるべきこともない。
「……では、折角ですから久しぶりに受けて立ちましょうか」
 と、結局弁慶も自分の武器を手に屋敷の中庭へ降りた。


 危惧したとおり、やはりさぼりがちな弁慶と、剣術にひたむきな九郎の差など開いているばかりだった。手の甲で汗を拭う。正直ここまでとは思わなかった。はじめはゆったりと構えていた薙刀も、どんどん間合いを詰められ、握りが穂先へにじり寄ってゆく。
 これは本当に、薬の調合や書物を読むことにばかり夢中になっていたことを反省すべきかもしれない。仕切り直そうと、弁慶は勢いつけ九郎の剣を払った後、大きく後ろに飛んだ。同時に視界を遮りがちだった黒い衣をばさりと脱ぎ捨て、柄も握り直し、手首を軸に大きくくるりと回してみせると、
「やっとやる気になったか!」
九郎は一度だけ笑ったけれど、すぐに真剣な顔になり、長い髪をひらりとなびかせながら飛び込んでくる。
 振りかぶり、上から切り落とす刃。隙の大きい型だ、見逃す手はない。身をよじり左から大きく水平に薙ぐ。
 けれど九郎は予想より早く足を付けすかさず後ろへ飛んでしまったものだから、今度は弁慶に大きな隙ができてしまう、が、そのまま軸足でくるりと回って、同じ軌道で追撃する。
 けれどそれは読まれていた、九郎は真っ向から受け止めた。彼も力のある方ではないが、弁慶は更に非力で、打ち返される。勢いをつけていた分だけはね返されて、右側に大きくできた隙、そこに来る九郎の連撃。
 まずい、と、とっさに柄を回転させて叩き落としても、それで精一杯。再び突きが飛び込んでくる、それを今度は身をよじってかわし、退く。
 それでも容赦なく九郎は斬りつけてくる、それを薙ぐ。どうしても攻め込むところまではいかない。打ちこまれる、払う。
 一方的な展開、それは実に単調だ。九郎の長い髪は円を描き舞い踊る。重なる鉄の音は楽のようだ。弁慶は敦盛のようにそれを愛することはないが、楽しいような気さえしてくる。
 それに……そう、これを待っていた。
 何度目になるだろう、両の手で太刀をしっかり握った九郎の斬撃。それを薙刀の先で受け止めた弁慶は、けれど払わず薙刀をねじり、剣を一気に巻き込む。
「はああああっ!」
 刀にはできない薙刀特有の戦術だ、絡めた刃もそのままに、一気に突く。
「くっ!」
 並の相手ならばこれで倒せる、少なくとも腕を折ることくらいはできる。しかし九郎は流石で、するりと片手を離し剣を抜いてしまった。
 けれどそれさえ読んでいた。
 一歩踏み込み、九郎の下へ穂先を潜りもませ、躊躇わずに、天へ!
 紙一重だった。その一撃は九郎の白い衣の袖を少し裂いた。けれど、せいぜいその程度で、
揺れる髪の残像さえ鮮やかに、九郎は表情すら変えずにひらりと、まるで全てお見通しだとでもいうようにかわし、
そのまま、あたかも衣を翻すような腕の速さで刀を振るい、勢いよく刃の付け根を狙い打ちあげた。
 手にしびれが走る。
「あ」
 堪えきれなかった。長い長い薙刀は回転しながら飛んでいき、おまけに見事に地面に突き刺さった。
 返す言葉もありはしない。
「やっぱり九郎にはかないませんね」
 仕方なく負けを認めると、九郎はやはり、眉を吊り上げ弁慶をぎろりと睨んできた。
「弁慶、お前いくらなんでも鍛錬が足りなさすぎるぞ!」
「だから叱られると言ったのに」
 拗ねたふりして笑うが、実際、……現実を突きつけられるのは、思っていたより悔しくて、ついむきになりそうになる。
 それでも笑っていられるのは、九郎のせいだ、
「明日もまた手合わせするぞ、弁慶」
彼が弁慶と昔のように戦いたいと思っているせいだ。
「僕は遠慮します」
 地面を貫く薙刀はどこか誇らしげだった。九郎に背を向けながら引き抜く気分は、ひどく悪い。
「今九郎の周りには頼れる人たちがたくさんいるでしょう?」
「そういう問題ではないだろう」
「そういう問題ですよ。僕は軍師で、君は将。役割が全く違います。以前は腕前が拮抗していたかもしれないけれど、今はもう……」
 弁慶は一度息を吐いてから、偽りの笑顔で振り返る。
「もう昔とは違うんですよ、九郎」
 早くそれに気付けばいいのに、思えど、きっとそんな日は最後まで来ない。






 日が沈み、夕餉も済んだあと、鎌倉へ送る文の内容で相談したいことがあり、九郎は弁慶を訪れた。
 長くはんなりと垂れた簾をよけて顔をのぞかせると、彼は足の親指の付け根あたりに何かを塗っていた。
「ああ、九郎」
「怪我をしたのか?」
「怪我、というわけでもないですが、昼間久しぶりに動きましたからね」
 笑う彼が言うには、昼間の手合わせの途中で草鞋が食い込み足の指が裂けたということか。
「……無理をさせてしまっていたのか、すまなかった」
「気にしなくてもいいですよ、望美さんのような可憐なお嬢さんならともかく、僕ならこれくらい傷のうちに入らないでしょう」
「それはそうだが……」
 そんなに自分と弁慶との力量の差はついてしまったのだろうか?
 九郎は全く気がついていなかったし、今でも半信半疑だった。
 確かに、平泉を発つ一年ほど前には、手合わせをしても彼に負けることはほとんどなっていた。剣のことばかり考えている九郎とは違い、弁慶は策を練ったり薬を作ったりしているのだ、だから自分の方が強いのは当然で、そうでなければならないのだけれど、
それでも……それでも、こんなにも、弁慶が傷を負わねばならぬほど、実力が開いていたのだろうか?
「……」
「どうしました、九郎?」
 九郎が暗い心で弁慶を眺めていても、彼はいつもの通りに穏やかに笑んでいるだけだった。
 そんな姿は変わらない。
 そして、裏に隠された彼の本音は、九郎には分からないということも、変わらない。
 何をしているのかも、本当はよく知らない。
「……いや、」
 彼を知りたくないかといえば、嘘になる。だがいちいち追及しても彼が怒るし、挙句、ひどい時には冗談を吹き込まれてることもあるから、重要な時以外は問い詰めることはなくなったし、そういう時は弁慶はきちんと話してくれるから、それでいいと思っていた。
 だから今も彼が何を思っているのかは分からないが……、ただ、彼が本気でいるのかどうかだけは、長い付き合いの上で分かるようになっていた。
 さっきの手合わせは本気だった。
 つまり、弁慶が言うとおり、それだけ時間が流れたという事なのだろう。
「…………痛そうだなと、思って」
 隣に腰を降ろし、彼の肩へ頭を寄せると、いつもするように弁慶も九郎に体を預ける。
 それももう、何年も前からの事で、
「九郎はいつも、怪我人の事を気にかけすぎなんですよ。僕の仕事をとらないでください」
と、九郎の考えている事などお見通しといった顔で、甘やかすような、厳しいような言葉をくれるのも、変わらない。
 視線を合わせれば微笑み、唇を寄せれば瞳を閉じ応じてくれる、こんなところは、何も。
「……そうだな」
 そう、変わっていないのに、けれど何故か、そんないつものやりとりが、昼間の手合わせを、時の経過をより浮き彫りにする。
 傷を負った弁慶にとても大きな違和感を感じる。
 どうしてか、それがたまらなく不安で、九郎はもう一度弁慶を見た。
「なんですか?」
 彼は相変わらずに微笑んでいた。
「……弁慶、何かあったのか?」
「どうしたんですか九郎、君こそ、少しおかしいですよ」
 問いかけても、答えをくれるわけではない。
 どれだけ見つめたところで、九郎には、弁慶の心が透けて見えるわけではない。
 結局、彼の思いは分からない。
 彼が本気かどうか以外の事は、全ての肝心なことは、何も分からない。
「何もないなら、それでいい」
 だから……弁慶の心が、自分ではない何かに真剣になっている、それが分かっても、それだけでしかなく、
それ以上の事など今の九郎には知る術がなかった。


弁慶の心が向かっているのは京の龍脈
(15/11/2008)

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