そのとき、目の前がさっきまで何度か繰り返されてきたように白に染まる。
晴れの日に雪が輝くその白よりも尚白く、まるでそこに溶けそうな程だったけれど、そんなことはなく……やはり、今度も気付いたら別の場所に弁慶は立っていた。
まっさきに感じたのは、日差しの強さだった。
暑い。目に飛び込むは鮮やかな緑、そして、空を見ればもくもくとした白い雲、蝉の鳴く声が、鳥が羽ばたく音がする。
活気ある季節、全てが巡る、夏。
やはりまた時間さえも超えてしまったのだろうか。
景色を見渡す。
見晴らしのいい丘……というよりは、山の中腹。この景色を弁慶はかすかに覚えている。
眼下には多分、京の町。比叡からの眺めではないけれど、それに随分と似た風景を見ることができるここは、どこだっただろう?
弁慶は注意深くあたりを探る。何かあったらこの白い光が守ってくれるとも限らない、ひとりでは怨霊とも戦えない。
黒い衣を引き寄せながら、するすると歩くと、林の向こうで子供の声が聞こえた。
「ななじゅういち、ななじゅに、ななじゅうさん!」
数を数えている声はどこか苦しげで、いったい何事かと木陰から覗くと、そこでは少年が必死に剣を振っている。
それを目の当たりにするなり、呼吸が止まる。
弁慶は彼を知っている。
まっすぐな目、くるくると癖のついた髪。見間違える筈がない、あれは、
と、名を呼ぼうとしたときに、いきなり弁慶の肩が叩かれて、驚いのあまり、弁慶は再び息を呑む。
かろうじてむせたりはしなかったが、身をすくめ、ゆっくりと背後を確認しようとしたところで、声をかけられた。
「彼に関わってはいけない」
敵だったら確実に死んでいただろう。全く気付いていなかった。
けれど、景色同様その声も弁慶は知っている。
ゆっくりと仰ぎ見ると、そこには、
「……リズ先生?」
弁慶の知る、八葉としての彼となんら変わらぬ姿のリズヴァーンがいた。
「そうだ」
……もしかしたらそれはとても当たり前の事なのかもしれない。けれど弁慶は戸惑い、再び剣を振る少年を見た。
一心不乱に、まるでまだ見ぬ仇敵でも討つかのように真剣な彼は九郎以外の何物にも見えなかった。
けれど彼は弁慶やリズヴァーンとは違い、幼い子供の姿でそこにいる。
九郎がそんな姿でいることに、弁慶はもはや疑問はない。それを言ったら散々繰り返されてきたこの白い鱗での移動全てがおかしなことになるのだから、それは構わない。
不思議なのはリズヴァーンだ。
九郎から推測するに、ここは十年程度は過去の鞍馬の筈なのに、どうしてリズヴァーンは弁慶と同じで未来の姿でここにいる?
まさか鬼というのはこんなにも人と違うものなのだろうか?
それとも、そもそも弁慶の懐にある白い鱗は時間を超え過去へもゆけるものだという、弁慶の確信の方が間違っていたのだろうか?
すっかりと言葉を失ってしまい、ただ困惑しながらリズヴァーンを見あげていると、彼は全くいつもと同じように、諭す声音で弁慶に言った。
「私もお前と同じだ」
「……?」
「時空を超えてきたのだろう?」
短い言葉だったが、けれどそれで理解した。
そして同時に、以前から疑問に思っていたことも得心した。
「リズ先生は、こうして九郎に剣を教えていたんですね」
「そうだ」
疑問が氷解して、弁慶の心はこの空のように晴れわたる。
とはいえ、この光景は彼にしたら少し複雑で……再び顔を苦々しく曇らせてしまう。
「……こんな風に、先生は九郎を見守っていたんですね」
「神子のためだ」
言葉は端的、短いが、それからは暖かさしか感じられない。
弁慶はリズヴァーンを頼るように見上げ、
「ああ、だから九郎はあんなにも」
言いかけたけれど言葉は飲み込み、かわりに一度、ゆっくりと目を伏せる。
そのあとに、こちらに気づきもせずひとり懸命に剣を振るう九郎を見た。
彼は本当に愛らしくて、呼びよせて頭を撫でてやりたい程だった。
でもそうすることはなく、弁慶は懐から白いものを取り出した。
「行くのか」
「ええ」
そして頷いた。
「どうして僕がここへ来たのかは分かりませんが、これは九郎の大切な思い出でしょうから、踏みにじりたくないんです」
「そうか」
「いいや……違うな」
弁慶は、もう一度、遠い九郎を見て目を細める。
「きっと、九郎は今僕が現れたら、びっくりして先生を呼ぶでしょう? それは少し、悔しいじゃないですか」
それこそ、こんなことを素直にリズヴァーンに喋ってしまうのも悔しいような気はしたが、それは、この不思議な旅路がそうさせたのかもしれない。
外套をきちんとかぶり直して弁慶はリズヴァーンを見、今度こそ微笑んだ。
「では、またどこかで」
「ああ。気をつけて行きなさい」
念じれば、世界は白に再び染まる。
そして目を開けたら、弁慶はどこかで横になっていて、目の前には源氏の大将である九郎がいた。
「気づいたか!」
「九郎…?」
馴染みある、薬草の匂いに包まれた部屋。枕に頭を乗せたまま横を見ると、薬の材料や本がたくさん置いてある。
どうやら六条堀川の弁慶の寝所のようだった。
「お、お前が景時の屋敷の目の前で倒れたと聞いて、驚いたんだぞ!」
「景時の」
懐を探るが、さっきの白いものは尚も手元に残っていた。それでもどうやらここは元の世界らしい。
「いったい何があったんだ!?」
「九郎がここまで運んでくれたんですか?」
「いや、運んできたのは将臣と譲だ。あの二人は心配するなと言っていたが、本当に平気なのか?」
「ええ、僕は至って元気ですよ」
九郎は心配そうに弁慶に問い詰めるが、……今のところ、弁慶はそんなこと、少しどうでもよかった。
それより、気がつけば覗きこんでいた彼に手を伸ばしていた。
「弁慶?」
九郎は首をかしげながら、その手を握る。
弁慶は何も言わずに微笑み返した。
だって、君の昔を見てきたから少し感傷的になってるんですよ、なんて言えるはずもなかった。そんな事を言ったらどうせ、九郎は混乱するだろう。
弁慶は彼に支えられつつ、体を起こしながら代わりに言った。
「九郎、明日の朝、一緒に稽古しませんか」
「……どうした? 珍しいな」
「そんな気分になりました」
九郎はとても不思議そうに弁慶を見下ろしていた。
「別に罠とかないですよ」
「そんなことを疑ってはいない! ……だけど、断る」
意外な答えに、今度は弁慶が首をかしげる。
「お前と稽古をするといつのまにか変な勝負になってしまう」
「ああ、確かに」
そういえば平泉ではよく並んで素振りなどやっていたが、必ず回数の勝負が始まり、早さの勝負が始まり、最後には刃を交えていた。
「でも九郎も好きじゃないですか」
「勝負事は確かに好きだ、でも、お前は勝つまで負けを認めないから嫌だ……なんでそんなにお前は負けず嫌いなんだ」
「……どうしてですかね?」
心底呆れた顔で九郎は言っていたけれど、さっきもついリズヴァーンに張り合って帰ってしまった弁慶には、そんな質問はとても今更のように思えてしまう。
だからどれだけ九郎が憮然とした顔を向けた所で、弁慶にはそれ以上に返す言葉はなかった。
遊んでくださってありがとうございました
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