※デレヒノ注意報発令中
もう何度目だろう、絶対的に白く、それなのにだけどどこか暖かな光に、弁慶はまたもどこかへ導かれる。
不思議な空間だった。何もないのに心地よい。
身を委ねていると、最初にそうだったように、景色が映る前に波の音がした。
そしてやはり、目を開いたら海が見えた。
見覚えがあるようなないような景色が広がっていた。
「熊野?」
かなり伊勢寄りの熊野にこんな場所があったような気がする。
潮風にさらされてもなおも花が咲き、木々の緑も薄い。とりあえず……ここは春に見えた。
思案しつつあたりを見回すと、どこまでも遠くが見える海、波は穏やか、眩しく暖かな太陽は薄雲が淡く覆いまろやかで、白い光の導きに惑ってばかりの弁慶の心とは裏腹に、ここの景色と天気はあまりにも気持ちがいい。揺れる花の香を楽しみながらそこへ寝ころんで本を読んだらきっと至福だろう。
弁慶は、あたりを見回して、どこかに登れそうな岩はないかを探す。
高い所へ行きたくなった。この暖かさを享受したいというのもあったが、……そういえば、兄や彼の息子が褒めてやまない熊野の景色を、弁慶はあまり知らない、彼ら程の情熱もない、けれど……もしかしたら、これが龍神の導きなのではと思ったら、それを目にしたいと思い立ってしまった。
ヒノエだったら木の上にでもいるのだろうか、それは随分とお手軽で、今この時だけは少し羨ましかったが、弁慶は大人しく浜辺を歩く。
さくさくと歩きやすくて心地いい砂浜をそう歩かないうちに、海沿いの絶壁が目に入った。そこならば昇りやすいし、くつろぎやすい。
弁慶はさっそく手をかけた。少し登りにくかったが、大した苦労ではない。
それでも少し息切れはした。でも、それとはまた別の理由で、弁慶は上まで上がった時に本当に息を詰まらせる。
海より先に鮮やかな赤色が目に飛び込んできたのだ。
「ヒノエ?」
まさか先客が、しかも彼がいるとは思っていなかった弁慶は驚いた。けれど振り返ったヒノエの方はもっともっと驚いていた。
「なっ……、なんであんたがここに!」
髪ほどに頬を赤らめて驚いた。
「さあ、なんででしょうね」
弁慶にも分からないのだけれど、という部分は誤魔化しながら、少し躊躇いながらも彼に並んで腰をおろし、ヒノエを眺める。
青の中、彼の赤は眩しい。さっきまでの白い光にも似た程だった。
そしてよく見れば、弁慶の知る八葉としての、別当としての彼より少し年若く見える。
「これは……夢だよな?」
少し小さなヒノエはなにやらひどく動揺しているようだった。浮つく彼に、なんだかこちらまでつられるようだった。
「夢ですよ」
「やっぱり」
だから、言い聞かせるように言った後、弁慶は冷静になるべく、風を浴びる振りをして深呼吸をした。
最初に聞いた『時空を超える』という言葉の意味を、弁慶は実際のところ、はかりかねていた。
過去なのか、記憶の中なのか?
だけれど、ただ、弁慶はこんなにも綺麗な熊野を想像もしたこともなかったから、彼の夢や記憶や妄想でないことだけは、確かだといえた。
そして、何故か目の前のヒノエがそれに喜んでいるのも確かだった。
「本物ではなくて、喜ばれるとは思っていませんでした。僕も嫌われたものだな」
心あたりはあったから言えた口ではないけれど、でもヒノエの返事は予想とちょっと違う。
「いや、あんたがここにいるわけないからね。それに、幻で構わないのさ。こんなにまともな幻がいるんなら、それだけ近くなっているってことだろう? きっと熊野の神の贈り物だね」
「随分俗物的な神ですね」
「そうかい? そんなに気さくな神様だったら嬉しいじゃん?」
ヒノエがさらりという。けれど実際、こんな景色を見せるような優しい力はあの龍神に随分と似合いだ。
「そうですね。そんな神とご一緒できて、僕も嬉しいな」
ヒノエはそれでもこちらを少し警戒しているように、少し観察している。
「でもあんた、俺の知ってる姿と少し違うな」
「君もね」
これはいつのヒノエなのだろう。多分……弁慶が厳島へ行くよりは前だとは思うが断定はできない。
それに、こんなに素直なヒノエは記憶にない。会えばいつも弁慶の黒い外套をはがそうと、変にむきになっていた記憶しかない。よく分からないが、それが彼にとっての弁慶への挑戦なんだと兄は言っていた。
「ずいぶん今日はお行儀がいいですね」
素直に言えば、相手もやはり同じように返す。
「ん? だってあんた、神様だろう?」
「ああ、そういえば、そういう話でした」
返すなり、会話は途絶えて、ただ海から吹きあげる飛沫混じりの風が二人の間を通り抜ける。力強い海の姿と、隣の少し小さいヒノエの姿は対称的。
「神様に何かご用だったんですか?」
問えば、彼は小さく驚いた。呆然とこちらを見上げた後、海を見つめて言葉を紡ぎ始めた。
「……そういう訳じゃないよ、ただ……オレには尊敬していた人がいたんだ。でもその人、あちこち旅してるみたいな人でさ、元々あんまり熊野に寄りつかなかったんだけど、少し前から全然来てくれなくなった。話し方に癖があったからさ、そういうのは覚えてたんだけど、顔は全然思い出せなかった。なのに……こんな随分としっかりした幻で出てきてくれたもんだから、驚きもしたけど、嬉しかったよ」
「……そんなに僕に会いたかったんですか?」
「まあね、でも幻が現れたことより、無意識でちゃんと覚えてた、ってのが嬉しかった。だったら、あんたに少しは近づいてるのかって」
本当にこちらを神だと思っているのだろう、ヒノエは随分と従順だ。そんな風に言われると、少しの罪悪感と少しの郷愁を感じてしまう。
「ヒノエ、年上の人や神様に『あんた』なんて言ったら駄目ですよ」
「……だったら、あなた、でいいのかい?」
ヒノエは、弁慶の知っている彼なら見せないような、少し弱気な瞳で見上げてくる。
ああ、本当にこれは過去なんだな、と、思った。幻にしてはなにもかもが繊細すぎて、実際に過去へ戻ったような錯覚さえする。
この頃に戻れたら……兄を傷つけずに済んだのだろうか? 京を汚さずに済んだのだろうか?
「オレはあなたのような人になりたい」
「君に目指してもらえるような人ではないですよ」
「知ってる。親父から色々聞いた」
なのにヒノエはそれを誇らしげに話すから困りものだ。
「そもそもあんた、オレにちっとも優しくなかったじゃん。だからそんなのはどうでもいいんだ、尊敬してるってのはただ、知識の量さ。知ってるってことは戦略につながるからね、それはまだまだかなわない」
そして、返ってきた答えに、弁慶は目を見張る。
「自信家ですね」
「熊野の男なら誰だってそうさ。あんただってそうだろう?」
勿論そうだったが、自分以外でこんな自信家は平泉の泰衡くらいしか見たことがなかった。
弁慶は声を立てて笑ってしまう。
「口調」
「へ?」
「口調、戻ってますよ」
「ああ、『あなたもそうだろう?』か……慣れないな」
「そうですね」
ヒノエも彼らしく、勝ち気に微笑んだ。
そこで、逆鱗が光って、一気に弁慶は白に呑まれた。
白の向こうで、ヒノエが驚いて手を伸ばしている姿が見えたけれど、勿論届かない。
それはまるで海に落ちたような心地だった。
気がついたら青が見えたものだから、弁慶は本当に海に落ちたのかと思って慌てたが、直ぐにその青は空の青だと気がついた。
熊野の海の青とは全然違う、あんなに深い色ではない、淡い秋の空。
ひらりと紅葉が、目の前を横切って頬の上に降ってきた。
「戻ってきた…のかな?」
そして自分が何故か道端で倒れている事を知った。
起きあがろうとした、けれどその前に、紅葉よりも鮮やかな赤が再び視界に飛び込んでくる。
「……あんた、なにやってんの?」
それはさっきまで隣で海など眺めていた筈の甥だった。
弁慶は呆然とそれを見上げる。が、このヒノエは弁慶がよく知る、いわゆる八葉のヒノエ。やはり戻ってきたようだ。
「ヒノエ」
「まさか、起きあがるのに手を貸して欲しいなんて言わないでくれよ、姫君だったら喜んで腕どころかオレの全てを差し出すところだけど、あんただったら御免だね」
どうみても弁慶の知っているヒノエだった。
「ヒノエ」
「だから何だよ」
「あなた、って言ってみてくれませんか?」
弁慶は聞いてみた。するとヒノエは軽蔑するような目で
「は? はああああ!? おいおいあんた本当にあの弁慶か? ……冗談はよせよ、からかうなら他を当たってほしいね」
と、大いに気味悪がって、弁慶を置いてひょいと青の外へ走り去ってしまった。
起きあがりながら、弁慶は呟く。
「……ああ、よかった」
過去で垣間見た健気なヒノエは確かに可愛かった。
とはいえ、やはりこれくらいの方が叔父としては張り合いがあるし、心強いというものだ。
兄を巻き込み彼を不幸にヒノエをも巻き込んだ弁慶だけど、その中でもしかして、たったひとつだけ熊野にとって良かったことがあったのならば、結果、ヒノエが随分逞しくなってこんな口をきいてもらえるようになったことかもしれなかった。
遊んでくださってありがとうございました
ED type「A」 おまけ小話のためのパスワードは「T」です
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