しばらくぶりに、弁慶の懐がゆっくりと光りはじめた。
圧倒的な白だ、なすすべもなくそれに身を委ね、収まった頃に再び目を開くと、今度は随分と薄暗く静かな所にいた。
酷く寒いと思ったら、目の前をちらちらと雪が落ちていた。
けれど弁慶には積もらない。そこはどこかの屋敷の中で、弁慶の上にも雪を遮る屋根があったからだ。
しかも多分、建物はかなり大きくて、今いるあたりもかなり奥まったところに思える。庭で煌々と揺れる松明の炎の大きさがそう思わせた。
弁慶は息を殺してあたりを伺う。すると、遠くから微かにうめき声が聞こえてきたから、とりあえずそちらを目指してみることにした。
夜の屋敷は静まり返っている。けれどたくさんの人が住んでいるようで、あちこちに人の気配がして、騒がしい。隠れるように、弁慶は黒衣を引き寄せ顔を隠すように歩く。
足音を忍ばせて渡殿を辿る。が、そうしているうちに、弁慶はどうにも既知感に襲われて仕方がなくなってきた。……ここは京にあった平家の屋敷ではないのか?
うめく声は少しずつ近づいてくる。幸せか不幸か、誰にも会う事はなかった。
呼ぶような声はあまりにも苦しそうで、ものさびしい。声は若い、少年のものだろうか。誰か彼を救ってあげる人はいないのだろうか、それとも、それすらも手遅れなのか……?
廊をめぐり、角を曲がり奥へ奥へ進む。
つきあたりに小さな離れがあった。
寝殿から少し離れたところにあるそれは寂しげで然るべきだ、なのにどうしてか、目に見えぬ絹で幾重にも囲まれ大事にされているかのような風貌があった。
そこは薬師になりすまし潜入していた頃にも見たことはあるが、中までは立ち入らなかった建物。
ひどく、嫌な予感がした。
気配を殺したまま更に近づくと、声はどんどんと大きくなった。
これは……この声も、やはり弁慶は知っている。
これは、敦盛のものではないだろうか?
ならば、と躊躇いを捨て、弁慶は離れのきっちりと締められた戸をがらがらと引く。中は微かに赤で染まっている。衝立の向こうにある炎の色だろう、ぱちぱちと音が聞こえてきた。
「失礼します」
守るように四方に置かれた衝立を少しずらし、中へ身を滑らせると、やはりそこには苦しそうな敦盛がひとり、横たわっていた。
「あなたは……」
「苦しそうですね」
弁慶は彼の横に座り、あらかじめ置いてあった手拭いで、額をじっとりと濡らす汗をぬぐってやる。
「……私に触れないでくれ」
「僕は薬師ですから」
そして手桶で手拭いを冷やした後、彼の額に乗せると、苦しそうなが中に、かすかに不思議そうな色を混ぜて敦盛はこちらを見上げていた。
そんな瞳は弁慶が知る八葉としての彼とあまり変わらないけれど、姿形は八葉である彼よりも随分と幼い。
「僕を覚えてはいませんか?」
ああ、これは過去なのだろう。
「あなたは……ヒノエに似ている」
「ええ。僕は彼の叔父ですから」
「……弁慶殿」
言うと、敦盛の顔が切なく歪んだ。
しかも丁度、弁慶が素性を隠して、さすらいの薬師として平家に潜入していた頃だ。
弁慶と敦盛に面識は実は、あまりない。丁度敦盛が熊野にいた頃は、弁慶は主に平泉にいたものだから、何回か見かけた程度でしかないし、薬師として平家を探っていた時も、どうしてか敦盛には会う事はなかった。
ヒノエの友人であった彼の事を気にかけてはいたのだが……会わなかった事情を知ったのは結局、八葉として再会した後だった。
その彼と、今ここで巡り合うことは、白龍の言うところの、引き合う運命というものなのだろうか、それとも清盛との因縁なのか……。
少し悩んだあと、弁慶は、懐からいくつかの丸薬を取り出し、
「……これを」
と、どこか虚ろな敦盛の口に含ませ、水を飲ませた。
彼は、突然こちらが薬を取り出したことに幾許か驚いていたけれど、身元を知ったせいか素直にそれを飲んでくれた。
「これで少し、体が楽になると思いますよ」
そういえば、と、思いだしたのだ。
清盛とはじめて対峙する半年ほど前からだろうか、事情は言えないが、気を落ち着ける、陰の力を持つ薬を処方してくれないかと、敦盛の兄に当たる人に何度か頼まれたことがあった。
弁慶としては患者を見たいと主張したのだけれど、どうしてか許されずに結局彼を通して薬を渡すことしかできなかったが……多分、それは弟のためだったのだと、今ならば思う。
「苦しかったでしょう」
けれど、その薬では駄目だったのだ。敦盛を……怨霊となってしまった彼を癒すためならば、陰ではなく陽の気が必要なのに。仕方はないとはいえ、きっと弁慶の薬は彼を苦しめただろう。
けれど今なら違う。あの頃は彼の容体も知らなかったが、怨霊というものもあまり知らなかった。
だが、四年の間にあまりにも…あまりにもいろいろとあって、今なら彼の為に、怨霊としての力を沈める薬を作ることができるのだ……敦盛は今でも表だって彼の身の上を語らないけれど。
「どうして」
「僕も熊野の出身ですから、色々察しをつけるのは得意なんですよ。……でもヒノエや、ヒノエの父親とは無関係ですから、安心してください。敦盛くんも、僕が今ここに来た事は内緒にしておいてくださいね」
彼ならば、すぐに頷いてくれると思って弁慶は微笑んだ。
けれど、敦盛は大きな目でしばし弁慶を見上げた後、一度二度と瞬きをしてから、
「もしかして、あなたはこの屋敷に来ている薬師殿では?」
と、弁慶に問いかけた。
「今、随分若い薬師殿が屋敷に訪れていると、伯父上や兄上が話をしていた。それは、あなたなのではないか?」
……過去に出会ったことがなかったから、敦盛ならば大丈夫だろうかと思っていたのだが、今まで散々不思議な空間にいた事で、少し油断したようだ。
だけど今ここで、平家の人間に、出入りしている薬師が弁慶だとばれるのは、よくない。弁慶は試しに微笑んでみる。
「だとしたら、どうしますか?」
「……感謝したいと思っている。その薬師の方に、私の苦しみは大分和らいだ」
なのに……まだこの時点で弁慶は何もしていないから当然とはいえ、敦盛は不用心に微笑む。
本当にこういうところは変わっていなくて、今と昔とで記憶が交錯する。
「そうでしたか。でも残念ながら、違いますよ」
弁慶は嘘をついた。けれど敦盛は首を振る。
「……届けられる薬には、よく花がついていた。あれは、まるきりヒノエと同じやり方だ。ヒノエも昔、熊野で私が寝込んでしまった時には花をくれた。私はそれにいつも外を想って嬉しくなっていた」
「熊野出身の人なのかもしれないですね」
「……どうか、嘘をつかないでほしい」
敦盛は真剣だった。さっきまでの喘ぎはとまり、汗も引いている。薬の効き目はまだ先だ。
「あなたがそうして言葉を偽れば、まるで、……その花を見ていた私の記憶も夢や幻となって消えてしまう」
「消えてしまったほうがいい思い出もありますよ」
見上げる彼の視線はまるで鈴の音のように、静かにゆっくりと弁慶の心へと広がってゆく。
綺麗な瞳に、最初に名乗ったことを油断だったと後悔した。自分と出会ってしまった事実は……きっと彼を苦しめる。
「僕はこれから先に、きっと君の大切な人に酷い事をしますから」
「それでも、私の傷をいやしてくれたことに変わりはない」
だからなおそう言うけれど、敦盛はきっぱりと言うのだ。
その彼は病床の貴族ではなくて今の八葉としての彼そのものに見えた。怨霊であり平家であることを気にかけて九郎と行き違う彼。それでもけして卑屈にはならずにただひたすらに一門を案じていた彼。
弁慶は少し、彼と見つめ合った後、複雑に微笑んでさっきの丸薬の残りを彼の枕元に置いた。そして、
「紙と筆はありますか?」
「あちらに」
敦盛に指された小さな卓の上で、さらさらと書き、渡す。
「これを今度、誰かに頼んで薬を持ってくる人に渡してください」
「……薬の作り方……では、やはり今出入りしている薬師殿は、あなたではないのですか」
「残念ながら」
少なくとも、当時の弁慶はこの知識を持ち合わせていない、敦盛の言う事は半分は正しかった。
微笑むと、敦盛はとても寂しそうにした。
「あなたであったならよかったのに」
幾度も会ったことのない彼にそこまで慕われていたのは、正直に意外で、まっすぐな彼の言葉は、弁慶の心を少し揺らす。
「どうして?」
「ヒノエと似ているからだろうか……もう少し話してみたいと思ったのだ」
けれど告げられた彼らしい優しい理由に、弁慶は微笑んだ。
「だったら、大丈夫ですよ」
「?」
「僕と君とは、またいつか再会しますよ」
そう言ったところで再び視界が真っ白に光った。
景色が映ったとき、そこは景時の京屋敷で、何故か弁慶は、まるで病人のように寝かしつけられていた。
隣には栗や柿のたくさん入った籠がある。そういえば……あの変な世界に行く前に、これを抱えていた。
ということは、帰ってきたのだろうか?
なんだかひどく不思議な世界だった。本当に夢だったのか、それとも実際の過去だったのか、今の弁慶には分からない。
横になっているから、もしかしたら眠っていたのかもしれない。
すると、誰かが近づいてくる足音がした。
見れば、意外な人影が覗いていた。
「敦盛くんですか?」
「すまない、朔殿もヒノエも神子もいなくて……」
彼の手には、桶と手拭いがある。
「僕は一体、どうしたんですか?」
「ついさっき、門のあたりに倒れているのを見つけて……」
外を見た。景色が赤くにじんでいる。時間が経過している。
「羊の刻の頃にヒノエたちが出かけたときにはいなかったようだから、倒れてからそんなに時間はたっていないのかもしれない」
「そうですか…ありがとうございます、敦盛くん」
彼は桶を置きながら、弁慶の隣に腰を下ろす。
ふと、手桶の中に花が浮かんでいるのが見えた。
「それは?」
「ああ……これは、昔、ヒノエがやっていたのと、あと、京にいたころにいい薬を出してくださった方が、薬とともに花を届けてくれていたんだ」
今度は弁慶が驚く番だった。
「それが私は、とても楽しみだった。だから、私も何かの折にはそれをまねしようと、ずっと思っていた」
そう、いつものように淡く、けれど十分気持ちのこもった微笑むを向ける敦盛に、
「そうですか」
弁慶も微笑みを返した。
遊んでくださってありがとうございました
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