そこでは、世界は闇から生まれるものである、と信じられていた。
だから世界には、闇ばかりが色濃く残るのだ、と。

「…………」

悲しみ、苦しみ、怒り、恨み、妬み、そしてなにものにも勝る痛み。

世界が闇から生まれるから、そんなものばかりが目立ち、いきものは戦わずにはいられない。
そこでは、そう信じられていた。
闇が世界を覆い尽くしたとき、その世界は滅びて、闇から新たな世界が生まれる。
闇の世界は、いつまでも。
そう信じられていた。

「…………」

神様が語ったそんな話を、かつて神様に一番近かった彼は、しかし信じていなかった。
神様が愛してやまない世界が、命が、闇そのものであると、彼は信じなかったからだ。
ここは天空界であり、天空界には神様の言う命はいない。
そんな簡単なことに気づいた後、神様のもとをはなれた後にも、
彼は、そんなことは、けっして信じていなかった。

「…………」

なぜだか急に帰ってきた岩の牢獄から、彼は今、下に広がる“世界”を見ていた。
吹き荒れる風が法衣をばたつかせ、翼を撫で、髪を舞い上げる。
いつもよりも雲は薄く、そして、こんなときでも、空はただ、青かった。
今、そこで起こっている出来事も、なにもかもを嘘だと思い込みそうになるくらいには。

「…………嘘だろ?」

深海色の瞳を大きく開いて、彼は見ていた。
街の真ん中に闇が生まれて、逃げる隙も与えず、広がっていくのを。
闇はやがて、彼の知る者が集まる大きな屋敷をも飲み込んで。
そして、大地を埋め尽くした。

闇の中には、違う世界があった。
退屈で、当たり前の平穏だけがあったのに。その“世界”は、見るからに違っていた。
そこは、戦場だった。戦わずにはいられない、闘わなければならない。
彼は、手の中の弓を握りしめる。

「…………」

その時、背中に気配を感じた。
よく知っている、いちばん愛している、そして、いちばん憎んでいる気配。
普段の勝気も取り払われて、彼は、彼に似合わない苦笑を浮かべた。
ここに誰もいなくて、良かったと思った。

ほんの一瞬、息をとめる。

「…………どうか、お赦しを」

なにを。とも、どんなふうに。とも言わずとも、彼女はすべてを理解した。
きっと、すべてわかっているのだ。
そして、きっと、何もしないのだ。
いつものように。永遠に。

それでいい。
彼は泣きそうになる心を抑えつけて、岩牢の外へ踏み出す。


そして、彼は。



ほんとうのすがたを取り戻した、闇の世界へ飛び込んだ。











そのころ。
姿を変えた世界の片隅で、誰かと誰かが話していた。

「…………」

誰かは誰かに手を差し伸べる。誰かは誰かの手を取る。
誰かは愛おしそうに誰かを見つめ、誰かは静かに目をふせる。
それは、深い慈悲に良く似ていた。

誰かは誰かを抱きしめる。
離れ離れになっていたこころが、ひとつに混ざりとけていく。

そして。

「……これでいいんだろ?」
「ああ。無理を言って悪いな。感謝してやるよ」
「……これから……どうするんだ?」
「お前の理解者に、このことを伝えに行く。
 なんとかなるだろう。
 それが終わったら、俺は姿を隠す。絶対に、見つからないように」

くすくすと笑うそのひとは、とても楽しそうだ。
彼は小さく溜息を吐いて、じ、と睨みつけた。

「……何もしないつもり、か……」
「そっちの方がいいんだよ。わかるだろう?」
「……まあな。じゃなきゃ、こんなこと頼まないよな……」
「そういうことだ」

彼は辺りを見渡し、もう一度小さな溜息を吐いた。
からっぽの背中で、そこからようやく歩き出した。
遠ざかる後姿に、そのひとは声をかける。静かに、しかしはっきりと。

「礼だ。いいことを教えてやろう」
「……?」
「皆、生きている。安心しろ」
「……!」

瞬間。
彼は息を呑み、勢い良く振り向いた。
しかし、
そこにはもう、誰もいない。

「…………」

ここは、深い森の中。辺りは、急に静かになった。
胸を押さえて、彼はぽつりと言う。

「……ずっと一緒だ。……久しぶりだな……。
 …………、」

彼は立ち止まり、その場で顔を上げた。
見上げても、空は見えない。
仮に見えたとしても、きっと、青空なんか見えないに違いない。
木洩れ日がちらつく地面を目の当たりにしても。
なんとなく、そんな予感がした。

「……行こう」

歩き出す。
なぜ、世界は、急に姿を変えたのだろう。
わからないから、彼は、
行かなければならなかった。




step01:変貌




世界の理を覆すような、彼らの長い戦いは、ここから始まる。



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