屋敷増築計画表、なんていう、ふざけた手紙が来たのは、もうずっと前。
それからしばらく時間が経って、世界はまた少し変わっていった。
それを実感したのは、あの日。
その日もオレは、頭の上に、小さな親友を乗せていた。

「うわっ、ちょっ、危なーーーい!!」
「えっ、」
「リンク、上!」

屋敷への道を歩いていたら、いきなり声が降ってきて。
上を見るよりまず避けたが、体勢を崩さずにはいられなかった。
結局空から降ってきた何かにぶつかられて、思いっきり後ろに転んだけれど、
あの子はオレの頭にしがみついたままで、大丈夫? などと言っていた。

「いっ……てぇ……何なんだよ、今の……」
「っつ……、あーやっぱ、久しぶりじゃうまくは飛べないか……、」
「…………。」

心持ち体勢を直しながら顔を上げた。
そこにいたのは、翼。……人間のかたちに、鳥のような翼がはえていた。
真っ白に色が混ざった翼は、何だかとても奇妙に思えたけれど、
あの子はオレの頭の上で、何も言わず、沈黙を保っていた。

「……何、……だ?」
「え? あっ、ごめん悪い、許してくれ! わざとじゃないんだ!」
「……い、いや、別に……」
「……ん? うわっ、なあお前、何なんだ? それ!」
「……は?」

誰かと似ている強引さと人懐っこさで、そいつはオレに謝ると。
オレの頭の上を指差して、光のようなあかるい笑顔でそう言った。

「何なんだこいつー。可愛いなー! 初めて見た、こんなの!」
「あ、ちょ……。」

そいつはいきなり腕を伸ばして、オレの頭の上にいたその子を、
ほとんど無遠慮そのものの動作で、ひょい、と両手で抱え上げた。
駄目だ、その子は、知らない人間には人見知りをするからと、
そう言おうと思ったけれど。

「うーわー何なんだよこいつー。よしよし、うわーすっげー可愛い。
 ふかふかー」

胡坐を掻いた足の上にその子を乗せて、そいつは頭を撫でてやっていた。
可愛い可愛いとしきりに連呼する、まあその気持ちはちょっとくらいはわかるけど。
誰かによく似た体格で、表情は子供そのものだった。
そして。

いつもだったら、怖がっていたはずのその子。
びくっとして、這い出してきて、オレの後ろに隠れていた。
そう、だから、喜ぶべきことだったのかもしれない。
本当は。

無遠慮に頭を撫でられて、それでも。
その子はあの時に限って、こう言ったのだ。

「……ねえ。あなたはだれ?」
「え? 俺?」

子供のように目を輝かせる、そいつとその子は目だけがよく似ていた。
色もかたちも違うけど、その目に宿った表情だけが。
そんなその子は初めて見た。
そして、こんな気持ちも初めてだった。

「俺、ピット、っていうんだ。
 わかった、お前たち、北のでっかいお屋敷に住んでるんだろ?
 俺も、今日からそうなんだ。よろしくな!」

喜ぶべきことのはずだったんだ。
だけど。

その日からどうしても、気持ちがいつまでも晴れなかった。
こんな気持ちになるのは不条理で、とても理不尽と、わかっていたけれど   



○ さよならの会話 ○
前編




「あ、こんにちは。ピットさん」
「あ、ピカチュウだ。お前、今日も可愛いなー。ふかふかだし」

小さな生き物はとてとてと少年の足元に寄り添っていって、
そして少年はその愛らしい生き物の頭を撫でる。
ここ何日かで急速に仲良くなった一人と一匹は、既にこの大きな屋敷の名物だった。
翼のはえた少年と、それに寄り添う一匹のいきもの。

「なあ、ピカチュウ。散歩行こうぜ、またどこか、案内してくれよ」
「うん、いいよ。……あ、リンク!」

リビングの入り口で聞こえたそんな会話は、
リビングの中、窓際に椅子を持ってきて、ぼんやりしている青年に飛んできた。

「ピカチュウ」
「リンク。僕、ピットさんと、出掛けてくるね」

リンクが視線をそちらに寄越すと、ピカチュウはいつもの、淡々とした口調でそう言った。
その後ろには、ピットがいる。真っ白い、見たことの無かった翼。
あの日、綺麗な瞳だと言って、ピットが近づいていったマルスは、
彼の翼を見て一言、「天馬(ペガサス)みたいだ」と言い切った。
天界人だから似たようなものだと、彼は笑って答えていた。

にっこりと、いつものように笑って、リンクはピカチュウに返事をする。

「ああ、わかった。また、夕飯のときにな」
「うん。……お待たせピットさん。行こう」
「もういいのか? うん、じゃあ、行こう! じゃあな、勇者さん」
「ああ。行ってこい」

無邪気に、パワフルに振られた腕に、リンクは片手を上げて苦笑する。
くるりと向けた背中には、やっぱり、人間のものではない翼がある。

ピットがピカチュウを両手で抱き上げて、左肩に乗せているのが見えて。
その瞬間、わずかに胸の奥が痛んだ。ような気がした。
椅子に腰掛けたままの姿勢、窓の外を見て、そして顔を俯かせる。

「…………」
「……あ、いたいた。おーいリンク。探してたんだぞ」

ふいに呼ばれた声。リンクは、俯かせていた顔を上げる。
上げる、が。

「……何だ、ロイか……」
「おいこら。何だとは何だ、何だとは。ぶっとばすぞ」

はねた赤い髪がちらついた瞬間、リンクはあからさまな落胆と共に溜息をついて、
ずるずると窓ガラスにもたれかかった。
リンクの目の前で、ロイが大振りの剣を肩に担ぎ、不機嫌そうに文句を言っている。
不機嫌そうと言っても、何だかどこかふざけた感は否めなかったが。

「はー。ひどいよな、戦友で、親友のリンクに、何だ、なんて。
 ああ俺ってばかわいそうっ、マルス、俺をなぐさめてくれ!」
「……あー、はいはいはい。悪かったよ、ごめん」
「ああっ、何だよその投げやりな態度は! リンクらしくない!」
「…………いいからさっさと、マルスになぐさめてもらいに行けよ……。」

ひらひらと両手で追い払うような手振りをすると、
ロイはいよいよさめざめとした演技をし始めた。
外道、だの鬼、だの苦労性、だのお人好し、だのと言いながら。
鬼畜、と聞こえた瞬間、さすがにリンクはそれはお前のことだろうと反論したが、
直後に聞こえた料理下手、という声には反論できず黙り込んだ。

「まあ、そんなことはともかく」
「…………えらく長い前振りだったな……」

いきなり話題を切り替えたロイに、リンクは疲れた顔でつっこみを入れる。
別につっこみは入れなくてはならないものではないのだが、
なんとなく身体に、つっこみとしての性が染みついてきているらしい。
今更だが。

「お前、暇か?」
「うん? ……ああ」
「ふーん。最近寂しいなー。じゃ、手合い付き合ってくれよ」
「手合い? ああ、別に良いけど…… ……寂しい?」

立ち上がり、椅子を元の位置に戻して、リンクは不思議そうに尋ねる。
ロイは剣を肩に担いだまま、

「だって、ピカチュウ最近、リンクと一緒にいないよな。
 ずっとアイツと一緒だろ? 何だっけ、ピット?」
「…………」

さらりと言った。
リンクが、ほんの一瞬だけ、その表情を僅かに曇らせる。

「…………別に、」
「?」
「いいこと、なんじゃないのか?」
「いいこと?」

いいこと、と聞いて、今度はロイが不思議そうな顔をした。
リンクの表情は、もういつもの、少し困ったような苦笑に戻っている。
窓の外、青い空にぼんやりと目を向けて、
リンクは静かに言った。

「人見知りが、治ったってことだろ」
「……そんなもんか?」
「そんなもんだよ。
 ……別に、オレとピカチュウは、一緒にいなくちゃいけないわけじゃないしな」
「……ふーん……。」

納得はしたが、それでもどこか釈然としないような顔で、ロイはまあいいかと頷いた。

「じゃ、手合いだ手合い! マルスも後から来るってよ」
「ああ、わかった。庭でいいんだよな」
「ああ!」

うきうきとした空気を纏って、ロイは剣をかついだまま庭まで駆けていく。
リンクはテーブルの上に置いた、鞘におさめられた剣を剣帯ごと取ると、
ロイの後を追いかけて、庭までゆっくり歩いていった。

一回だけ、後ろを振り向く。
どこにも見えない、姿。

どれだけ言い聞かせても、これが当たり前なんだと思っても、
胸の中の、もやもやとした気分が晴れることは無かった。



   ***



「なあ、ごめんな。大丈夫か? 平気か?」
「うん、大丈夫。へいき。ありがとう」

ピカチュウの部屋を訪ねようと思って、ドアの前まで来たところで、
リンクはふとこんな会話を耳にした。声は中から聞こえてくる。
一つはピカチュウで、……もう一つは、ピット。

「…………」

声の持ち主がわかった瞬間、とても不機嫌そうに顔をしかめたリンクは、
すぐにぶんぶんと首を横に振った。何を馬鹿なことを、と考えながら。
別におかしいことはない。
それはそう、ロイとマルスとか、ポポとナナとか、カービィとネスのような。
仲の良い者の部屋を訪れるのに、おかしいことは何も無い。
現に今自分はこうして、この部屋の前にいるのだから。

「……ピカチュウ、いるか?」

こんこんこん、とドアを叩いて、わざとらしく尋ねてみて。

「リンク? うん、いるよ。入っていいよ」

聞こえてきたいつもの可愛らしい声に安堵して、
リンクはゆっくりとドアを引いて開けた。

……そこには。

「…………」
「あ、よお勇者さん。ちょーど良かった、訊きたいことあんだけど」
「……。
 ……何、やってんだ?」
「見てわからない? 怪我の手当て」

包帯を片手に困った顔をしているピットの姿と、
その包帯でぐるぐる巻きの、半分ミイラ男と化しているピカチュウの姿があった。
ピカチュウはねずみなので、ミイラ男ではなくミイラねずみだろうか。
などということはともかく。

「怪我……?」
「あ、違うよ、僕が悪いんだよ。木から落ちちゃって」

怪訝そうな顔をしたリンクに、ピカチュウはすかさず言う。
別に誰を責めたというわけでもないのだが。

胡坐を掻いた格好で、ピットはリンクを見上げている。
心底困った様子で。
部屋の床には真っ白い羽が散らかっているが、気づかないふりをしながら。

「俺、あんまりこーいうのやったことなくってさ。
 どう使うんだ? コレ」
「……だからって、こんなにぐるぐる巻きにすることないだろ。ったく」

貸してみろ、と言いながら、リンクは笑ってピットに言った。
それはとてもいつものリンクらしい、面倒見の良い姿。
頼んだ、といって素直に包帯を寄越すピットは、誰かに似ているとリンクは思った。
その素直さ、快活さが、とても。
自分に近い誰かに似ている。

「で、ピカチュウ。怪我って?」
「耳の擦り傷」
「………………。」

ピカチュウは、あっさりと答える。
まるで、こうなることを見越していたかのように。

「…………ピット」
「うん?」
「…………包帯は、とりあえず元に戻しておけ。な?」
「え。いいのか?」
「擦り傷だったらとりあえず、傷口洗って消毒液。
 それで二日か……少なくとも三日もすれば、治るよ」

人間ならもう少しかかるかもしれないが、
ポケモンという種族はどうやら、人間よりも治りが早いらしい。
ピカチュウと会ってから、もう数年。
そんな時間の中で培った知識を頭の中に思い浮かべながら、
リンクはいたわるようにピカチュウの頭を撫でた。首を傾けて、大きな手になつくピカチュウ。
ピットがその様子を見ながら、心底感心したように言う。

「ふーん。人間とか、ピカチュウみたいなのとかって、
 怪我が治るのにそんなに時間がかかるのか。めんどくせぇな」
「……? そんなに、って……。ピットは違うのか?」
「ピットさんはねえ、リンク」

不思議そうに首を傾げたリンクに、ピカチュウが当たり前のように答えた。
答えるのは当たり前でも。
答えられるその内容が、何に関するものなのかが、いつもと違う。

「ふしぎなんだよ。ちょっと怪我しても、すぐ治るの。
 すごいよねえ」
「まーな。俺、天界人だしな。どうだすごいだろ」
「うん。すごいすごいー」

へらっと笑うピカチュウは、リンクのよく知っている顔だ。
そんな笑顔はいつでもリンクの心を満たしていたし、幸せな気持ちにもなった。
だけど。

「……じゃあ、ピット。
 ピカチュウの怪我のことは、まかせるぞ?」
「え? ああ、うん。ありがとな。助かった」
「リンク、行くの?」

くるりと背を向けて部屋を出ようとしたリンクを、ピカチュウが呼び止める。
振り向いたリンクは、いつものリンクの顔をしている。
少し困ったように笑う、どこか情けない、でもとても優しい笑顔。

「ああ。今度は、気をつけろよ。木から落ちたりするなよ。
 街の案内、まだ終わってないんだろ? ピットが心配するぞ」
「うん……」
「じゃあな」

軽く手を振って、リンクはピカチュウの部屋から出て行った。
ぱたん、とドアを閉めて。


「…………」

リンクはしばらく、その場に佇(たたず)む。
静かな廊下。
背中を押しつけたドアの向こうからは、楽しそうな話し声。

「……別に……。」

おかしいことは無い。
これが普通だ。
自分とあの子は、一緒にいなくちゃいけないわけじゃない。
一緒にいなくちゃいけない理由も無い。

「…………。……馬鹿か、オレは」

大げさに溜息をついて、リンクはその場からふらっと離れた。
廊下を歩いて、歩き続けて、歩き続けながら考える。
最近の自分は、少しおかしい。
一体いつから   あの真っ白い翼が、あらわれた時からだ。

「…………」

ピカチュウは、人間が嫌いだった。
そのピカチュウが、自分から彼に近づいていった。
それはつまり、嫌いが治ったということだ。
良いことじゃないか。嫌いなものを好きになれるのは、いいことだ。
世界が広がるし、楽しいことが多くなる。
だから。

階段を下りて、下りながら。
何度も何度も、言い聞かせても。

喉の奥。胸の中。
何かどろどろしたものが詰まっているような。
閉塞感から、抜け出せない。



   ******



「っ! うわっ……!!」
「!! あ、ご、ごめっ……!!」

ギィン! と大きな金属音の後、マルスの手から、剣が弾き飛ばされた。
その勢いで中庭の芝生に倒れた彼が、強かに背中を打ちつけるのが見えて、
リンクはようやく我に返った。
正気に返った、と言ってもいい。

真剣を使う手合い。
考え事をしていた、なんて。
剣士として、とても正気とは言えないからだ。

「マルス!」
「っ……つ……、い、たた……」
「ご、ごめ……ん……。……だ、大丈夫……か?」
「あ、ああ……」

自分の剣を鞘にしまい、リンクは慌ててマルスの傍に駆け寄った。
髪をおさえながらよろよろと上半身を起こすマルスの顔は、痛みにしかめられていて。
リンクはその細い肩に手をかけて、おろおろとした様子で声をかけるが、
答えるマルスの声は弱弱しい。

「マルス! マルス、大丈夫か!?」

後ろを見ると、二人の手合いを遠くで見ていたロイが、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。
ほとんど叫ぶように、マルスの名前を呼びながら。

「マルスッ、」
「つっ……。……だい、じょうぶ。
 ……あまり大声を出すな、大したこと、ないんだから」

マルスの背中に腕を回し支えてやりながら呼びかけるロイは、
かなり不安そうな顔をしている。
そんな顔を見ながら、マルスは微笑んで、はねた前髪をくしゃ、と撫でてやった。
大きな声が聞こえると、子供達が驚くよ、と言って。

「ごめん、リンク。心配かけた……よな」
「あ……。……いや……、だって、オレが……」
「いいんだよ。本当は僕が、リンクの剣を受けて無事でいられるくらい、
 強ければ良かった、っていう話だから」
「…………。」

マルスはフォローのつもりで言ったのだろうが、
リンク的には何のフォローにもなっていない。

「……ごめん、な。」

もう一度しっかり謝って、リンクはマルスが立ち上がるのに手を貸した。
ロイはマルスを心底いたわりながら、まだ背中を腕で支えてやっている。

「……それにしても、リンクは、」

ありがとう、と二人に微笑みながらお礼を述べたマルスは、
リンクの瞳を覗きながら、言う。

「最近、また強くなったな。何か、あったのか?」
「……え?」
「強くなったって言うか、マルス。これってさー」

リンクの剣の腕は、ロイやマルスとは比較にならない程、強い。
だから普段リンクは、良い意味で手を抜いているのだ。
二人の鍛錬になるように。
そして、平和な世界には必要の無い力を、いつだって制御できるように。

怪訝そうな顔をしながら、ロイは言う。

「リンク、最近、全然手加減しないだろ」
「…………」
「リンクが手加減しなくなったら、こんなふうに負けても仕方無いんだけどさ。
 仕方無い、ってのも腹立つけど。
 ……お前、大丈夫か?」

手加減しない理由が、ただ、鍛錬を厳しくする為なのだったら、構わない。
だけど今日は、マルスが背中を強く打ちつけた。
マルスは平気そうな顔をしているけれど、きっと背中は赤くなっていることだろう。
今日は、それで済んだけれど。
明日は、本当に剣で怪我をさせてしまうかもしれない。

そこがおかしい。
リンクは誰かに、怪我をさせるようなことは、絶対にしないから。

「最近、何か考えてるみたいだからさ」
「…………」
「……リンク。……うまく、言えないんだけど」

言葉を無くしてしまったリンクに、マルスは微笑みかける。
花が咲いているみたいだと思った。

「リンクの信じているものは……。……簡単に、失くなるものではないと、僕は思う。
 リンクは自分で、信じるという自覚を持たないみたいだから」
「……マルス……、」

マルスには。
リンクが何を思っているのか、わかっているのかもしれない。
リンクは本当のことを教えないのが得意だから、
わかっていないかもしれない、けれど。

「わ、」

大きな手が、マルスの髪を撫でた。
それは、とても微笑ましい気持ちで、誰かを思うような……。

「……ありがとう。……オレは、大丈夫」
「……うん」

リンクがようやく微笑むのを見て、マルスは胸を撫で下ろした。
マルスの気持ちがやわらかくなったのがわかったらしい、
ロイは隣で、一人満足げな顔をしている。


そう、こんなふうに。
元気がなくなったら、誰かが支えてくれる。
そんな日常は、変わらない。
わかっている、わかっている。
誰よりいちばんわかっているけど。

「…………」

それでも、消えない。
それは例えば、雨降る森の中の湖に浮かぶ、いつまでも消えない波紋のような。
花が咲いて、寿命を終えて枯れた花びらが、いつまでも地面に残っているような。
炎がいつまでも残るような、闇がいつまでも濃いような。
言い知れない不安だ。
何でこんなに不安になるのか。
原因はわかっても、理由がわからない。


その日の夜。
風呂が一緒になって気づいたが、やはりマルスの背中は赤かった。
大したこと無いから、と、彼は笑っていたけれど。


覗いた窓の外には、ぽっかりと三日月が浮かんでいた。
誰かが笑っているみたいで、ざわざわと落ち着かなかった。



   ******



いらいらして、落ち着かない。
こんな気分が不条理で、とても理不尽だとわかっていても。
止める術を持たなかった。


そんな状態が続いて、もう、半月(はんつき)。

「ねえ、リンク」

相変わらず晴れない気分を抱えたまま、リンクは庭のベンチでぼんやりしていた。
隣には、ピカチュウがいる。
真っ赤なりんごを、嬉しそうに抱えて。

りんごにぺったりとくっついて、にこにこと笑うピカチュウを微笑ましく思いながら、
リンクはピカチュウの声に返した。

「? 何だ?」
「うん……。……うーん。……あー……。」
「……?」

自分から話しかけておきながら、ピカチュウはとても言いにくそうに、口を噤んだ。
いつもわりときっぱりものを言う彼にしては珍しい。
不思議そうに首をかしげて、リンクは尋ねる。

「……どう、したんだ?」
「……うーん。やっぱり、何でもなーい」
「……??」

何でもない、というピカチュウは、何でもないようには見えないが。
リンクはそうは言わず、まあいいかと許容した。
空を見上げれば、そこにはまぶしいほどの青が広がって。
いい天気だ。
胸の中のいろいろな思いも、晴れていくような気がした。

しかし。

「あ。あのね、リンク」
「?」
「あのね、ピットさんがね」

いつものかわいらしい声が、その名前を呼んだ瞬間。
自分ではっきり自覚できるほどに、心が曇るのがわかった。
リンクは。

「あいつが、どうかしたのか?」

ピカチュウに、絶対にそうだとは悟らせないように。
いつもの無意識で、笑顔をつくる。
誰が見ても優しくて、ちょっと情けないけど頼りになる、穏やかな微笑みを。

気づいているのか、まったく気づいていないのか。
ピカチュウは続ける。

「リンクと、お話がしたいなーって」
「? オレと?」
「うん。何か、興味あるとか言ってた。天界人には絶対いないタイプだって」
「……この世界ではわりと標準だと思うんだけどな、オレみたいなのって」
「僕もそう思うんだけど。
 なんかね、ロイさんみたいなのか、マルスさんみたいなのが多いんだって」

何だその集団。
一体ロイとマルスのどの部分を取って「多い」のか知らないが、
ぶっちゃけ怖い。関わりたくない。

と、思ったがそうは言わず、リンクは別の言葉で続ける。

「……別に、話くらい、いつしてもいいけど」
「うん。……うん、それなら、いいんだ」

一瞬、引っ掛かった言葉。
ピカチュウは、一体何を伝えたいのだろうか。

相手のことがわからないなんて、いつものことだけれど。
わからない。

「……あいつと一緒にいるの、楽しいか?」
「あいつ? ピットさん?」
「……ああ」
「うん。楽しい」

即答。
きっぱりと、あっさりと答える、そんな様子は。
とても、いつものピカチュウらしい。

「……そういえば……、」
「? なあに?」
「どうしたんだ、それ」
「それ?」
「その、りんご」

真っ赤なりんごにぺったりとくっついて。
真っ青な、そらの下。
ご機嫌そうなピカチュウは。

「ピットさんが、くれた」

かわいらしい笑顔で、そう言った。
その時の、気持ちの名前を。
一体どんなふうに表せば、すべてを伝えきれるのだろう。

こんな気持ちは理不尽で、とても不条理とわかっている。
わかっているし、本当のところは、自分でもよくわかっていない。
わかっていても、わかりたくないだけかもしれない。
だけど、だけど。

手を伸ばして。
ふわりと、小さな頭を撫でる。

「そうか。良かったな」
「うん」

頭を撫でる大きな手に、嬉しそうになついてくる、愛らしいしぐさは。
本当に、いつもと変わらなかった。

リンクは、少し困ったように、笑う。

「……さて、と」
「リンク?」
「ちょっと、用事あってさ。オレ、行くな」

ベンチから立ち上がり、リンクはピカチュウにそう言った。
きょとん、としているピカチュウに笑いかけて、踵を返し、背中を向ける。
ゆっくりと歩き出すと、ふいに後ろで、ピカチュウが動く気配があった。
おそらく、りんごを跳ね上げて、ベンチから飛び降りて。
落ちてきたりんごを受け止めて、抱きかかえて、リンクの背中を追っている。

「リンク、あのね」
「? 何だ?」

振り向かずに、たずねる。
いつもの声で。

「あのね、こんど、僕、出かけたい……んだけど。
 リンクも、一緒に……」
「ピットと、行けよ」


きっぱりと。
それは。


言葉を失うほどの、冷たい声だった。


「…………」
「……ずいぶん、仲良くなったじゃないか。良かったな」

リンクはくるんと振り向いて、ピカチュウを見下ろした。
真っ赤なりんごを短い腕に抱えて、目をまるくして見上げる、その視線。
片膝をついて、リンクはしゃがみこむ。
大きな、あたたかい手で。
いつもと変わらない、優しい微笑みで、リンクはピカチュウの頭をぽんと撫でた。


「だから、もう」
「…………」
「オレがいなくても、平気だろ?」
「…………」


ピカチュウは、人間が嫌いだった。
それは、人見知りが治ったということだ。
助けはいらない。
自分じゃなくても、もう。


「…………うん」


こくん、と、小さく。
リンクの目も見ずに、ピカチュウは頷く。

立ち上がり、リンクは再びピカチュウに背中を向けた。
追いかけてくる気配は無い。
立ち止まらない。
いつもの重みが無い、肩が軽い。


空は。


「……じゃあ、な」
「……うん」


ゆっくりと歩いて、庭から離れて。
リンクは、屋敷の玄関へ向かう。
いやに、世界が静かだった。
何か言おうにも、そこにいつもの小さな子どもはいない。


追いかけてこない。
声が聞こえない。
何も聞こえない。
青い、空。





「……」
「……あ……、」

玄関の、重い扉を開けた。
そこに、ダークリンクが立っていた。
銀色の髪、真っ赤な瞳。
リンクを、見つめている。

「……」
「……何を、している? ……そんな、顔で」

ダークリンクはブーツを履いて、
扉を開けたところに立ち尽くしている、リンクの横を通り過ぎる。
お互いに、目を見ない。同じ横顔。
その、瞬間。



「……最低だ。馬鹿」



「……っ、」



はっきりと、リンクに届く声で。
ダークリンクは、言った。


最低だ。
馬鹿。
それは一体、誰の気持ちなのだろう。
誰の、
誰に対しての、
どんな?


「…………」


ダークリンクはそのままするりと通り過ぎて、外に出て行った。
散歩でも、するのだろうか。
この状態で、そんな冷静なことを考えて。
リンクは、顔を俯かせた。


「……最低だ……」


ずるずると、その場に座り込む。
……最低。



「……本当……。……最低だ、……馬鹿……。」



呟いた、声は。
誰にも届かず、自分の耳に還った。

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