例えば目の前に、か細い糸がある。
それを指で追い、手繰り寄せたら、糸の先には何があるのだろうか。
例えば後ろ側に、か細い糸がある。
振り返って歩き、追って行ったら、糸の始まりが見えるのだろうか。
例えばこの指に、か細い糸がある。
道を伝うように、跡をたどったら、糸の終わりに指があるだろうか。
例えば僕の心に、か細い糸がある。
冬と春の前には、片端の向こうに、僕の誰が笑っていたのだろうか。
糸の片端
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「恋人同士の指の間には、真っ赤な糸があると伝えられています」
フルーツタルトに、甘い香りのお茶。週に一回、昼の三時、恒例のお茶会だ。
だけど今日は、席が一つ空いている。
「それは運命の相手、恋人同士という証です。
真っ赤な糸で結ばれたもの同士は、どんな困難にも障害にも負けません」
クリームたっぷりのフルーツタルトをじっくり味わっている、ロイの隣。
一つ空いた席には今日は、ピカチュウが、本と一緒に座っていた。
それは人間用の椅子なので、ピカチュウの姿は見えない。声が聞こえるだけ。
その向かい側に、リンクがいる。お茶だけを、口に運びながら。
「二人の愛の力で、乗り越えることができるのです。
なんという素適なことなのでしょう〜」
「……ピカチュウ。……何、読んでるんだ?」
カップをソーサーに置いて、リンクは呆れたように尋ねた。
姿は見えないので、声だけで。
ぱたん、という本が閉じられた音と共に、返事が聞こえた。
「赤い糸伝説。図書館で見つけて、ちょっと気になって」
「……。……くっだらねー……」
「あっ。ひどいわね、くだらなくなんかないわよ、夢が無いわねえ」
思わず口にしてしまってから、はっ、とリンクは気づく。
これはお茶会だ。ここにいるのは、男ばかりではないのだ。
夢見る少女が三人と一匹。
恐る恐るそちらに目を向けると、ピーチとプリンがこちらを睨んでいた。
ゼルダとナナは、ちょっと控えめに、だけどやっぱりリンクを見ている。
「いいじゃない、ロマンチックで! まったく、男ってこれだから」
「ひどいでしゅリンクしゃん! おんなのこを馬鹿にしたでしゅっ」
「リンク。確かに現実には無いかもしれませんが、素適なことではありませんか」
「そうだね。ちょっとね、あんまりきっぱり否定されるとな……うーん……」
反撃する間も言い訳する間も与えず、ひたすら責められる青年一人。
……針のムシロ状態である。
「…………あの、……す、すみませ」
「すみませんじゃないわよ、大体ねえー……」
真っ青な顔で謝ったリンクに、追い討ちを与え始める少女達。
結束した女の子の同盟には、説得力は無いが、迫力があるものだ。
助け舟は出さず、我関せずと言った顔で、
ロイはそんなリンクをじーっと見て、そして一言。
「……くっだらねー……」
「芸が無いよ。ロイさん」
ぼそっと呟いたロイに、すっぱりとピカチュウは突っ込んだ。
「芸が無い、って。別に必要無いだろ芸なんか」
「そんなことないよ。それにしても、そんなにくだらない?」
二つ目のフルーツタルトを口に運ぶロイを見上げて、ピカチュウは尋ねる。
ロイは視線を、ちら、とピカチュウに向けると、すぐに窓の外に移した。
青空。ここ何日かで、青い色が大嫌いになった。
青い色を見ると、あの人を思い出す。大嫌いと叫ばれ、あんなにつらそうにして。
溜息をついて、ロイはピカチュウに、言う。
「くだらねーよ。
糸が繋がってるだけで恋人同士決定、なんて、馬鹿みてーじゃねーか。
現実問題、好きな人を手に入れるのに、どれだけ苦労すると思ってんだよ」
ロイの言葉は、ピカチュウの予想とは少し違っていた。
これがリンクならばきっと、糸で繋がってるなんて、非現実、と言うだろうから。
運命の相手なんて、馬鹿げている、とも。
糸で繋がっているくらいで手に入るなら、世の中楽すぎるとロイは言う。
手に入れるまでが、大変なのだと。
それはとても、まるで体験したことがあるかのような物言いだった。
だけど、
「ロイさん、恋人さん、いるの?」
「…………え?」
さらり、と口にされた問いかけ。ロイは目を見開く。
「…………」
「ロイさんは、自分の欲しいものを、自分の力で奪い取れるんだね。
そうやって、つらいことを、乗り越えていくんだ。
いいことだよ。
それ、少しくらい、あの人にもわけてあげたい。……ずるいよな」
言葉を無くしたロイに、独り言のように呟き、ピカチュウは椅子から飛び降りた。
読んでいた本は、椅子の上に置き去りにして。
耳をはねさせ、しっぽを揺らして、ピカチュウはとことこ歩いていく。
「ピカチュウ?」
「何でもなーい。 それじゃあね、ロイさん」
リンクのこと、適当になぐさめておいてと言って、ピカチュウは走った。
リビングの扉の向こう、見えないところに消えていく、小さな背中。
ロイは、考える。
恋人。恋人って、誰だろう。恋人とは、何だろう?
聞くまでも無い、大切なものの名前だ。
忘れるようなことでもない。
忘れたものは、たった一人の名前だけのはずだ。
思い当たらないということは、自分には、いないのだ。
そんなふうに思える、大切な人が。
だけど、だけど。
ピカチュウの言葉が、頭の中をくるくるまわる。
欲しいものを、奪い取った。
いつ、どんなふうに?
「……あ、リンク。お疲れ。口は災いの元だな」
「……助けてくれてもいいだろ……。」
女の子の同盟からようやく脱出してきたリンクに、さらりと声をかける。
これで、ピカチュウとの約束は終わりだ。
恒例のお茶会の、たった一人の欠席者。
それの名前を、忘れている。
***
「もしもーし。いますかー。いるよね? 入るよ〜」
こんこんこん、と三回叩いて、ピカチュウはその扉を押し開けた。
その人は、開けた窓の縁に腰掛けて、ぼんやりと外を見ていた。
窓の外に柵は無いので、実際のところかなり危ないのだが、
彼は落ちるような失敗をする人では無い。
もっとも最近の状態を見れば、それも危ういと言えるけど。
「……ピカチュウ。どうしたんだ?」
「んー、ちょっとね。お話に」
青い髪を揺らせながら、彼はピカチュウの方に視線を向け、微笑んだ。
それはもう、ピカチュウの知っている、いつもの冷徹な顔。
他人に心の領域を踏ませない、防衛手段。
「お茶会、出ないの? ピーチさん、残念がってたよ」
「……うん。……今日は……、あまり気分が、乗らなくて」
後で謝っておくから、と言う彼は、冷静そのものだ。
おかしいのではないかと思えるくらいに。
ふとそう思って、ピカチュウは考える。
おかしいと言っても、そもそも目の前のこの人は、冷静なのが普通ではなかったか、と。
「気分が、乗らない? 大丈夫?」
「……うん。平気。……大丈夫……」
一昨日のことだっただろうか。
ピカチュウは、思い出す。
泣くことを知らないと思っていた彼が、
あんなにも弱い姿を見せた。
「……本当に?」
「……うん……、」
何日も連続で寝坊をしたり、
大嫌いと叫んで罵ったり、
ましてや、誰かの前で涙をこぼす、
なんて。
「……嘘つき。」
「…………」
どう考えても、普通ではない。
大丈夫という言葉なんか、嘘だ。
「……ねえ。あなたは、いつもそうだよね。ずっと思ってたんだ。
……悲しいことがあると、すぐに黙り込んで。
……平気な顔をして、何もなかったふりをする」
「…………」
「誰かが、大丈夫? って言ってくれるのを、待っている。
誰かって、ロイさんが。
ロイさんなら、あなたを助けてくれると、あなたは思っているから」
「…………」
だから。
だから、あの真っ赤な少年が、今はいないから。
こんなことになってしまったのだ。
ぽつり、と呟く。
正直な、心の中を。
「……あなたは、ずるいよ。
そうやって助けを求めれば、いつでも誰かが助けてくれると思っているの?」
「…………」
ピカチュウの目は、まっすぐに彼を射抜く。
真っ黒な瞳。
大切なものを守ろうとする、濁りの無い色だ。
何かを守ろうとすれば、誰かが傷つくことも、わかっている。
「……僕、は」
「それも、素適なことだよ。信頼する誰かがいる、ってことだから。
でも……、それに頼りすぎて、自分でなんにもできないのなら」
傷つくことだって必要なはずだ。
終わりにしたくないのなら。
思い出す。
ピカチュウは。
大丈夫なはずがない。
目の前で泣いてしまった、大切なひと。
抱きしめることが、どんな意味を持っていたのか。
本当は自分の役目ではない腕で、違う腕で大切なひとを抱きしめた。
片恋を抱く、一人の青年にとって。
「それで、リンクまで傷つけるなら、僕はあなたを許さない」
「…………っ……。」
きっぱりと言った。
ピカチュウの、瞳に。
嘘や打算は、ひとつもない。
「…………」
「…………」
柵の無い窓の縁に腰掛けたまま、彼はうつむいて。
膝の上で、手を握り締める。
嘘も打算も無い黒い瞳で、ピカチュウはそれを見ている。
彼の決断を、見守るため。
守るために。
「……だからって、……どう、すれば、いい?」
「…………」
ふいに、彼がぽつりと言った。
押し殺したような、低い、小さい声だった。
耳を澄まして、けっして一言だって聞き逃さないように。
ピカチュウはまっすぐに、彼を見つめている。
「……あいつは……。……僕のことを、覚えてないんだ。
……知らないって言った。……僕は、他人だって」
「……うん」
「……いつも、ずっと……。人に纏わりついてきたのは、自分のくせに。
……僕が言っても、拒絶したって、強引に近くにいたくせに……っ」
「……うん」
彼が、王子様、といういきものだと、知っている。
普通の人では持ち得ない全てを持つかわりに、
普通の人が持っている何かを持つことのできない、彼は。
自分本位で考えるということを、完全に忘れている。いつも。
「……ねえ、あなたは」
だから普段は、けっして泣かない。
泣いたら自分の中の、隠しているものが壊れてしまうから。
だから普段は、けっして心の領域に踏み込ませない。
心が知られてしまえば、隠していたものがわかってしまうから。
彼は、顔を上げた。
藍色の瞳は渇いていたけれど。
「あなたは、どうしたいの。
誰が好きなの?
誰の傍に、いたいの?」
「…………」
ピカチュウには、まるで。
泣いているように見えた。
「……傍、に」
「うん」
静かな、とても綺麗な声。
いつも誰かを拒絶して、自分を守り続けている。
「……傍にいたい……、……僕は、……あいつの……」
「うん」
握り締めた手に爪が喰い込んで痛いけれど、そんなことは気にならなかった。
「……ロイの、傍にいたい。
……好き、なんだ……」
彼は、真っ直ぐにピカチュウを見る。
ピカチュウが笑って、こっちを見ていた。
「うん。……何だ、ちゃんと、言えるんじゃないか」
「……ピカチュウ……」
「言えれば、自分で動けるよ。どうするかは、あなた次第。
あなたが自分で決めるなら、手助けだけは、できるから」
このままは嫌でしょう? と言って、笑うピカチュウは、とても可愛らしい。
握り締めた手から、力を少しずつ抜いていく。
彼ははにかむように微笑む。花のようにやわらかな空気を持って。
それを見てピカチュウは、もっと嬉しそうに笑った。
「ね。
ロイさんを、ちゃんと、叩きなおしに行こう」
「……うん。……ピカチュウ、」
それは、
凍っていた川が流れ出すような、
つぼみが少しずつほころぶような。
火種が暖炉に広がるような、
芽吹いた若葉が木になるような。
「……甘えてて、ごめん。……弱くて、ごめんなさい。
だけど、助けてくれて、」
糸のかたまりが、片端からほどけていくような、
「ありがとう…… 」
そんな予感がした。
止まっていた時計が動き出すような、そんな気配。
窓の外には、青空が広がっている。
綺麗な青が、空いっぱいを抱きしめているような。
ピカチュウには、そう見えた。
散歩に行ってくる、と、部屋から出て、空の下を歩き出した、
彼の背中に。
閉じこもっていた殻は、少しも無かった。
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うちの王子はどうしても自分から動けない甘えっこで、
とにかくそれを誰かに叱ってほしかった。
この話は王子の成長のお話なんです。自分的には。
後もう少しだけお付き合い下さい。
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