096:罪
097「走る」の続きです。
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雨が強い。
木々の木の葉からひっきりなしに雫が垂れ、雨と一緒になる。
空はどんよりと暗く、森の木々は、雲の向こうの僅かな光さえ遮って、
今がもう、昼なのか夜なのか朝なのか、見当がつかない。
敵であるピカチュウに、よくわからない理由で助けられたマルスは、
自分が逃がしたロイが走った方向へ、ひたすら走っていた。
使い慣れた剣は、もうそれほど重さは感じないが、
この雨でぬかるんだ地面が、足を捕らえ、何度もつまづく。転びそうになる。
「………っ」
地面から出っ張った木の根につまづき、それでもなんとか体勢を立て直す。
ロイを信用していないわけではないが、
それでもやはり、心配だ。
彼は、雨が嫌いだから。
…精神的に、相当参っているはずだから、だから自分がついていてやらなければ。
雨の音が強い。
風に森がざわめき、視覚も聴覚も、混乱しそうになる。
どこからか、足音はしないだろうか?
マルスは立ち止まり、耳を澄ました。目を閉じる。
キン、と、剣のぶつかり合う、独特の金属音。
「……!」
聞こえた方に顔を向け、マルスはそのまま、身体の方向も変えた。
立ち止まっていたのは、ほんの一瞬。
左腰の剣を確認して、木々の間を走り抜ける。泥がはねた。
早く、一秒だって早く、合流したい。
顔を見て、安心したい。
走るにつれて、段々と、辺りが明るくなっていく。
おそらく、その一部分だけぽっかりと、木の無い、広い部分があるのだろう。
広くて、視界がはっきりしていて、戦いやすい場所。
ロイは、そこにいるはずだ。そして敵も。
その証拠に、マルスの耳は先ほどから、何度も金属音を捉えていた。
「……っ、くそっ…!!」
「………!」
視界が、ぼんやりと明るくなる。
聞きなれた声が聞こえる。
少し前まで自分が戦っていたのと、同じ装甲の、何人もの戦士達。
そして、赤い髪。
ロイだ!!
「……ロイ!!」
「っ! マルスッ…」
「バカ!! 気を抜くんじゃない!!」
「!」
マルスが木々を抜け、その空間に飛び出した時、
ロイは身に余る大きな剣で、三人の戦士を相手にしていた。
こっちに、完全に気を取られたロイを一喝すると、周囲をざっと見渡す。
十数人の戦士達が、致命傷にはならない、かなり深手の怪我を負い、倒れていた。
ロイの援護をしようと、足を一歩踏み出した瞬間、
マルスの泥で汚れた足首を、ブーツごと誰かがぐっと掴む。
驚いて下を向くと、ロイが気絶させ損ねた戦士が一人、
睨むようにマルスを見ていた。
「邪魔だっ…!!」
剣で、相手の顔すれすれを狙う。思惑通り驚いた男は、手を離した。
マルスは、背中から斜め後ろに跳んで倒れる。
上半身は起こしたまま、男の背中に、全体重をかけて踵を落とし入れた。
男がうめき、今度こそ気絶する。
受身を取り、マルスは今度こそ、ロイの援護に向かった。
背中から迷いも無く斬りかかり、一瞬で一人を倒す。
真横で仲間が倒されたのを見て、二人の戦士は思わず、身体を硬直させた。
あからさまな隙を、ロイが逃すわけもない。
「…はああぁッッ!!」
二人の腹にほぼ同時に剣を入れ、そしてマルスが、腕を斬りつけた。
最後の二人が倒れ、
…辺りは途端に、静かになる。
「……っ…、」
「………ロイ、…怪我は?」
剣の血を拭い、鞘におさめると、マルスはロイに尋ねた。
「いや、特に、深いやつは…。…あんたは?」
「……。…大丈夫」
ロイも同じように剣の血を拭い、鞘におさめる。
周囲をゆっくりと見回した後で、ふぅ、と深く息を吐いた。
マルスに、にこりと笑いかける。
「…ありがとう。助かった」
「いいよ、…同じ勢力にいるなら、助けるのは当然だから」
「そうなんだけどさ…。
…そういえばマルス、さっき、あそこの奴に足掴まれただろ」
「? …ああ」
濡れた前髪を払うマルスの肩を、ロイはぱんぱんと叩いた。
まるで、埃でも払うかのように。
ロイの行動の意図を呑めずにいると、ロイが神妙に呟く。
「…ったく、…マルスにセクハラしよーなんざ、いい度胸だよな」
「………は?」
「なんともなくて良かったけど。今度やったらぶっ飛ばしてやる」
本人は至って真面目だ。
…言っていることの意味はよくわからないにしろ、
こんな時でも、そういうところがロイらしく、マルスは思わず、声に出して笑った。
全然笑いどころじゃねーぞ、と、ロイが怒る。
ひとしきり笑った後で、マルスは一息ついた。
表情をいつもの、無表情に近いものに戻して、周囲を見る。
「…どうしようか。これから」
「…そうだな、追っ手は流石に、これで全部だろうし」
二人が始めた会話は、この状況では至って自然な会話だ。
腰に手を当て伸ばしながら、ロイは言う。
「…一度、拠点に戻ろう。
色々情報も掴めたしな。報告した方がいいだろ」
「そうだな。
…じゃあ……、」
一度踵を返したマルスが、ぴくん、と立ち止まる。
「? マルス?」
そして、
「 ……伏せろ、ロイッッ!!!」
彼らしくもない大声で、叫んだ。
直後、二人の身体の間を、矢が恐ろしい勢いで駆け抜けた。
「っ…!?」
「まだ、追っ手が…!!」
二人の身体に当たらなかった矢は、後ろの木に刺さった。たんっ! と音がした。
二人は剣を同時に引き抜き、背中合わせに身構える。
息を潜(ひそ)める。
雨の音が強い。
聞こえる呼吸の数は三つ。 敵は、一人だ。
風が強く吹き、雨の向きが変わった。
瞬間、
「………っ!」
ざあっ、と音がして、ロイの頭上から、刃が降ってきた。
ロイがそれを、剣で受け止める。
ばしゃん、と、水の跳ねる音がした。剣の持ち主が、着地する水音。
背中から激しい金属音が聞こえて、マルスはロイから跳んで離れ、振り返った。
「………!!」
「…お前…!!」
降ってきた剣の持ち主を見て、
ロイとマルスは同時に、険しい顔をする。
「……悪いな。行かせるわけにはいかないんだ」
穏やかな声が、そう告げる。
「 リンク!!」
言葉を失ったマルスの代わりに、ロイが叫んだ。
剣を握る腕に力を込め、リンクは剣を前へ押しやった。
強すぎる力が拮抗して、二つの剣が同時に弾かれる。
ロイが体勢を崩した一瞬を狙って、リンクは空気を薙(な)いだ。
大きくバランスを崩され、ロイは地面に片膝をつく。
「ロイ!」
その一瞬の時を傍観するしかなかったマルスが、はっと我に返り、動こうとした。
が …、
「人の心配を、してる場合じゃないだろ?」
「………!!」
その動きを止めるかのように、リンクはもう、動いていた。
マルスの目の前に低く立ち、覗き込むような体勢で顔をふっと近づける。
動く場所を無くしたマルスの側頭部を、リンクは剣の柄で強打した。
マルスが泥の中に倒れる。
「マルス!! ……お前っ…!!」
体勢を立て直したロイが、後ろから斬りかかる。
が、リンクはその太刀筋をいとも簡単に見破った。
振り返りざまにその一太刀を払って、すぐにロイの左肩、少し下を斬った。
肩の鎧を上手く裂け、リンクの剣の先は、ロイの服の袖と、その奥の血管を裂いた。
そしてその後、左足をも、深く。
「ぐ、ぁっ…!!」
「………」
ロイが剣を落とし、そして地面に、再び片膝をつく。
うずくまるように、斬られた左腕を押さえた。
指の間から、真っ赤な血が、遠慮なく溢れる。熱い。
瞬く間に二人を倒したリンクは、終始、どこまでも無表情だった。
泥の中に倒れたマルスを、リンクは片腕で引き上げた。
苦しく咳き込むマルスの、切なそうな顔を少しだけ見た後で、
腹を、とん、と突く。
「っ、はっ…、」
短い声をあげて、マルスはリンクの腕の中にもたれた。
「 マルス!!」
リンクはマルスの、軽い細腰を抱き、右腕で抱え上げる。
両腕は首に巻きつけるようなかたちになり、落とさないように。
ロイが、リンクを睨む。
「…くっ…、そ…!!」
「………こいつを、もらっていく」
「…マルスを…、その人を、どうする気だ!!」
焼けるような痛みに顔をしかめながら、それでもロイはリンクに叫んだ。
リンクはそんなロイを、少し悲しそうに見つめた後で、
ふ、と目を閉じる。
「…どうもこうも。オレが決めたことじゃないしな。
ただこいつは、そっちの勢力にとって、重要な戦力だ。
オレは、だからだと思ってる 他はどうだか知らないけどな」
「………ッ」
「こんなに綺麗な人なら、男でも、何かしてやりたくもなるかもな。
例えば、精神的にぼろぼろにしてやって、二度と戦力にならないようにするとか?」
こんな時に、くすくすと笑い、リンクはロイの神経を逆撫でするようなことを言う。
オレにそういう趣味は無いし、下世話かもしれないけどな、と付け加えて。
ロイが、傷を、強く掴んだ。
ぎり、と奥歯を噛み締める。
「……そんなわけだから。じゃあな」
「………マルスを、…返せっ…!!」
傷の痛みを堪えながら、ロイはゆっくりと立ち上がった。
斬られた左足から、左腕から、真っ赤な血が溢れ、そして地面を汚していく。
震える右手で剣を拾い上げた。
リンクが、また少し悲しそうな顔をする。
「…マルスを、返せ!!」
「……。…できない」
「……っ…!!」
怒りをこれでもか、と表情に滲み出させたロイは、リンクに向かって走った。
勝ち目が無いのは、わかってるはずだ。
この勇者は、味方であれば途方も無く頼りになるだろうが、
敵に回すと、どうしようもない、絶望に近い。
わかってるはずなのに。
「………」
リンクが、剣を抜く。
マルスを抱えたままで、ロイの攻撃を避け、脇腹を深く抉った。
立っていられなくなったロイが、前に倒れこむ。両膝をついた。
「ピカチュウ!」
リンクが上を見、ロイも、マルスもよく知っている名前を呼ぶ。
その小さな親友は、どこかの木からひらりと跳び下りると、
ロイの身体に、微量の電流を走らせた。
「うあああぁっ!!」
「…これで、しばらくは、動けないだろ」
ぽつり、と言ったリンクの足元に、ピカチュウはたたたっと駆け寄る。
抱き上げられたマルスの、両腕の間…リンクの右肩の上に乗ると、
ちら、とロイを一瞥した。
雨の中、戦士達が気絶している中で、ロイは肩で息をし、うずくまっている。
「………」
何も言わず、リンクは、ロイの前から消えていった。
「………っ…、」
左腕を押さえた手が、もう真っ赤だ。
それなのにいつまでも、血は止まる気配を見せない。
身体にはまだ痺れが残っていて、動くこともままならない。
「…っく、しょうっ…」
目をぎゅっと瞑り、ロイは呻く。
「……ちく…しょうっ…!!」
どうして、何で、守りたいものを、守れる力さえ無い。
どうして、自分はこんなに弱い。
どうして …。
雨は強く、そして一向に、止む気配は無い。
世界は暗く、どんよりと曇っている。向こう側の僅かな光さえ遮って。
ロイの頬を、一滴、何かが伝った。
「……マルスを助けたの、…お前だろ」
「………」
暗い世界を、一人と一匹は、歩いていく。
ピカチュウはリンクを見て、俯いた。
別に怒ってるわけじゃない、と、リンクはピカチュウに微笑みかける。
「…ねえ、リンク」
「ん? 何だ?」
俯いたまま、訊いた。
「…殺さなくて、よかった?」
「………。
…殺せない、だろ…?」
一切の表情が、消える。
世界は、静かだ。
「……あいつが死んだら、こいつは絶対、笑わなくなる。
笑っても、それは多分、つくりものだ。
…それは、嫌なんだ……わかってるだろ?」
「………」
そこで声は、ぷつりと途切れる。
必要も、どこにも無い。
「……ねえ」
「ん?」
「……守りたい人と、守るべき人が違うっていうのは、
……大変なんだね……。」
「………」
返事をしない。
それで良かった。
例えば、大切なものが同じ、ひとつだった場合は、
奪うのも、
手に入れるのも、
それを奪い返すのも、
全てが、誰かの心を傷つける。
傷つけることが罪ならば、
それは、どんな、誰の、誰が為の罪。
空は、僅かな光を遮り、激しい音をたてて、世界を壊していく。
雨が強い。
戦闘シーンが書きたくって…。
場の雰囲気、全体の雰囲気が、伝われば嬉しいのですが…。