儚い

 それは、予感だった。
 ある日、目が覚めると、隣で眠っていたはずのその人は、自分が起きるのを待たずにどこかへ行っていて。
 直感に従うままに下りた玄関先に、その人を見つけると、その人は。
 帰らなくちゃ。と、言ったんだ。

 曰くその人は、朝早くに、何か、とてつもない何かを感じて目が覚めたらしい。それを追うように、その人の手元へ届けられた手紙。手紙の内容はその人の“世界”に関することで、そしてそれは、その人にとって、何よりも重要なことだった。
 手紙の内容は、詳しくは聞かなかった。だけど、なんとなく理解出来た。世界には人がいる。人がいれば、人は争う。きっとその人の“世界”には、戦があったのだ。そしてその人は、一国の王子で、世界の王で。彼を慕う人、彼を憎む人、彼のことなどどうでもいい人。戦争があれば、その人は、帰らなくてはならないのだ。
 朝日を弾いてきらめく青い髪。世界の姿を映して揺れる、藍色の瞳。帰らなくちゃ、と言ったその人は、そんなときでもとても美しく立っていた。背筋を伸ばして、どんなものにも呑み込まれない気高さを、剣と共に携えて。見た目の華奢さからは想像もつかない揺ぎ無い意志を、間違いなく自分のものにして。

 その人は、本当は、戦うのも、争うのも、まったく得意とはしていない。頭は良いのに色恋沙汰には鈍感で、だけど他のことには鋭くて、腕は立つのに不器用で、なのに恐ろしく気丈で。自分の嫌いなものと、自分の能力とが、これ程にかけ離れている人。そんなものを見るのは、はじめてだった。
 嫌なんじゃないのか、と言えば、望んではいなかった、と返ってくる。だけど、帰りたくないんじゃないのか、と問えば、帰りたい、と答える。
 その人には、守るものがある。大切にしたいものがある。それはこの手では届かないものばかりで、この手そのものでも無かった。
 その人は逆に、尋ねてくる。僕が僕の“世界”に帰るのは、嫌なのか、と。
 嫌に決まってる。傍にいられない、姿が見えない。世界の争いに巻き込まれて、その人を危険に晒してしまう。彼は今、彼の世界へ帰ってしまえば、悲しい思いをするに決まってる。
 そう言うとその人は、困ったように笑った。わかっている、だからと言って、無理矢理ここへ繋ぎとめても、彼は彼の世界のことを思って、苦しい思いをするのだろう。わかっているくせにそんなことを訊く、その人を。ほんの少し、恨めしく思った。

 戦争が起きたのは、僕に力が無かったからだ。
 自分が招いたことは、自分でどうにかしなくちゃ。わかるだろ?
 行きたいから、行くんだ。
 僕は、僕の世界を、こんなにも守りたいから。

 その人はそんなことを言いながら、傷だらけの真っ白い手で、小さな子どもをあやすように髪を撫でた。やわらかな体温が悲しくて、なぜだか急に泣きたくなった。

 それは、予感だった。  この手を離せば、きっと、この人は二度と戻ってこないだろう。
 この人はもう、二度も世界を救っているのに。
 どうして、こんなことになってしまうのか。
 足りない頭では、まったくわからなかった。

 泣いてなんかいないのに、その人は、泣くな、なんて言っている。
 泣いてねえよ、と反論してみると、その人は大好きな笑顔で、子供っぽく笑ってみせた。

 行かなくちゃ、という手を離して、その人の瞳を見送った。
 それは、予感だった。
 あらゆる世界を数えてみても、世界で一番、大好きな人。二度と会うことのない、真っ直ぐな恋。
 それは、予感だった。
 確固たる、死の予感。

 思い出を、ありがとう。
 お前に教えてもらった、たくさんのことがあるのなら。
 僕には後悔なんて無いし、
 悲しくも、苦しくもない。何かを憎んだりも、しないから。

 ただ、ほんの少しだけ、さみしいと思っていることは。
 僕の、さいごのひみつだから……。

 ふれていた指を離して、その人の背中を見送った。
 さようなら。
 開け放った扉の向こうに、ざあ、と風が吹いていた。
 はかない花の残り香だけを、この手に残して。


 数日後、目覚めてみても。
 隣にも、リビングにも、屋敷にも、街にも、その人の姿はどこにもない。

 胸の奥を刺す痛みを抱きしめて。
 閉じた少年の瞳には、ただ、静かな祈りがあった。


お別れの話です。なんだか悲しい話になってしまいました。

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