空虚

「こんなとこにいたのかよ。あんた、本当に本が好きだよな」
 街の西にある図書館の敷地内には、マルスがまだ花を見たことのない木が植わっている。と言っても、花をつけないのではなく、単に季節が合わないだけだ。ぽつんと立つほっそりとしたその姿を、図書館の窓を通して眺めていたマルスは、突如聞こえた自分を呼ぶ声に、驚き半分、そして、鬱陶しさ半分で振り向いた。顔ににじむ不機嫌を、隠そうともせずに。
「……またお前か……」
「またとは何だよ、またとは」
 そこにいたのは、案の定というべきか、ここ最近やたらとつきまとわれている、赤髪の少年だった。こちらはこちらで、じつに表情豊かにマルスを責めている。
 開いたページに栞をつけ、とりあえず本自体は閉じないでおく。今度は体ごと少年に向けると、マルスは小さな溜め息をついた。少年は眉間のしわを一本増やして、一歩マルスに近づき詰め寄る。
「ピチューが、残念がってたぞ」
「……そのことについては、ちゃんと謝った」
「了承するのと、納得するのと、違うだろ。あんな小さな子どもじゃあな。
 読書が好きなのはいいけど、今日一日、あいつらに付き合うくらい、構わないだろ……ってーか」
 マルスは微妙に視線を外しながら、少年の言葉を聞いている。正であれ負であれ、あらゆる感情が込められた目を己のみに向けられることなんか、マルスにとってはまるで珍しいことではなかった。ほとんど何も感じなくなるくらいには、敬意にも殺意にも慣れている。
 それでもマルスは、少年の直視だけがどうしても苦手だった。具体的に理由はわからない。しかし、
「そんなもの用意してもう一度謝りにいこう、って。
 そんなに気にするくらいだったら、一緒に行けばよかっただろーが」
「……!」
 少年はさらりと、冷めた表情の下に隠した生来の弱いところに触れる。もう何度もこんなことがあった。自分という人間を他人に騙すことは、得意としていたはずなのに。
 机の下、荷物置き場には、色あざやかな果物を詰めたかごがあった。

「……で。
 この際だから言うけど、あんた、ずっとそうだよな」
「……何がだ?」
 動揺を押し留め、できるだけ気持ちを込めずに答える。少年は怒ったような、困ったような顔で、ほんの一瞬、瞳を余所に向けた。髪をかき乱しながらのそんなしぐさが、考えごとをする時の少年の癖なのだと知るのは、ずいぶんと後のことになる。
「何て言えばいいんだろーな。
 なんか……楽しいことから逃げてる、みたいな」
 迷っていたわりには、痛いほどに核心をついてくれる   とは言わず、マルスはただ少年を睨みつけた。期待していた以上に凄みが出てくれたらしく、少年は肩を竦めて一歩退く。負けじと眉をつりあげ言い返そうとする姿に、子どもっぽい意地を感じた。
「あんた、ずっと一人でいるだろ。
 一人でいるのが好きなようには見えないけどな」
「……べつに……」
 そんなことない、と言いたかったのに、なぜかそこまで出なかった。いったい、どこまで見えてしまっているのだろう。どんなところが、どんなふうに。
「……あのさ、マルス」
 顔を俯かせる。視界の端に見える、四角い窓、色味のない木。
 窓越しにしか見られないのは、期待したくないからだ。本当の姿にさわれば、きっと夢を見てしまう。花の季節まで、この身がここにあるのかどうか、自分ではけっしてわからないから。
 期待するのも、夢を見るのも、やめたつもりだった。終わりにしたかったのだ。本当は。   それなのに。
「これで合ってるかどうかはともかく、さ。
 わかんなくはねーよ。俺達は、いつか帰らなくちゃいけないから」
「…………」
「ここの生活を気に入らなくても、気に入っても、な」
 マルスは顔を上げる。目の前に、少年がいる。その素直さ、遠慮のない、他の誰かを好く気持ち。こわいのは、これだ。遠い昔に諦めたものを持ったものが、目の前に、いる。
「だけどさ、どうせ思い出すんだったら。
 何もできなかったって後悔するより、楽しかったことを寂しく思う方が、いいんじゃねーの?
 ……って、俺は思うけど。だからあんたを迎えにきたんだ」
 真っ直ぐ差し出された手を、マルスは一瞥した。大人になりきれないその手が、今までどれだけのものに触れて、そしてどれだけのものを諦めてきたのか。
 マルスは少年ではない。だから知らない。
 揺れる視線を冷ややかなものに変えて、マルスはわざとらしい溜め息をついた。
「……年下に、こんなふうに説教されるのはな……」
「うるせーな、年は関係ねーよ!
 この場合、単に考え方の違いだろ!? あーもうっ」
 小さいとか、子どもだとか、その辺の単語は少年にとって禁句だ。わかっているから言ってみたのだが、ささやかな仕返しにしてはずいぶんダメージが通ったようだ。
 ふ、と、小さく笑う。差し出された手はとらず、本を閉じて立ち上がった。
「ピチュー達は、東区の公園か?」
「え、……ああ、そーだよ。何、結局行くのかよ」
「行け、って言ったのはお前だろ」
 期待して落とされるくらいなら、はじめから何も感じない方がずっと良かった。かえらない幸福に愛おしく焦がれるくらいなら、何も知らない方が傷が浅くなると、そう思っていた。いつかこの“世界”にいたことも、この世界の思い出も、すべて無かったことになってしまうなら。何もない方が、きっと。
「行かないのか? ロイ」
 少年の横をすり抜ける。立ち尽くしたままの背中に声をかけると、ロイは慌てた様子で振り向いた。彼の向こう側に、窓が見える。ずっとここから眺めていた、未だ花を知らない木。
 自分を呼ぶロイの声を後ろに聞きながら、マルスは本と果物のかごを手に歩き出した。ここから外に出れば、あの木をじかに見ることができるだろうか。花のない時期は柵で囲ってあるから、うんと近づくことはできないだろうけど。


前向きな後ろ向きと、後ろ向きな前向き。

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