輪廻

「でさー。それでさー」
「ああ」
 マルスが手元の本に視線を落としたままぞんざいに返事をすると、ロイの表情が思いきり不機嫌に歪んだ。しかしマルスは、そんなことには気づかない。否、おそらく気づいてはいて、しかし無視をしているのだろう。どのみち彼の興味は、自分に話しかけてくる少年ではなく、読みかけの文章にある。そんなことがわかったから、ロイはますます不機嫌になった。
「あのなー! あんた、真面目に聞いてねえだろ!」
 ひょい、と本を取り上げて、ロイは抗議する。しかし。
「聞いてないのはお前の方だろ! っの、バカ!」
「ってえ!!」
 対ロイ用の得物はあっさりと取り返され、直後頭に、角をぶつけられた激痛が走った。
「っつー……」
「さっきから僕は、邪魔をするならあっちに行け、って言ってるんだけどな。
 ……まったく……」
 はあ、と溜息を吐いて、マルスはロイに向き直った。殴られたところを押さえながらも、ロイは抜け目なくそれに気づく。
「……で、何の話だ?」
「本当に聞いてなかったのかよ……」
 深い深い溜息を吐くのは、今度はロイの番だった。
「……だから、夢の話だよ」
「夢?」
「ん、そう。夢」
 窓際の椅子に腰掛けたまま、マルスはロイを見上げ首を傾げる。こうでもしなければお目にかかれない角度からの表情にどこか満足しながら、ロイ自身は窓枠に座った。両脚をぶらつかせてみると、行儀が悪い、とすぐに一言飛んできた。
「なんかな、あんたはやっぱり、どこかの国の王子様だったんだけど。
 俺は、あんたの部下だった。同じ国で、同じところで、一緒にいたんだ。
 ……って、そういう夢」
「…………」
 文字通りの夢に満ちた瞳で、ロイは楽しそうに語る。
 しかし期待とは裏腹に、かつ想像のとおりに。マルスの反応は、冷たい目でロイを一瞥するのみで終わった。
「…………」
「って、本当にそれだけかよ! せめて何か言えよ!」
「……。へえ、そうか。それは、ずいぶんおかしな夢を見たんだな」
「思いっきり棒読みじゃねーか!」
「何か言え、って言っただろ。…………、」
 呆れた顔で視線を逸らしたマルスは、真紅の表紙に刻まれた金色の文字を追いかける。ロイには読めないそれをそっと指で辿りながら、藍色の瞳を静かに伏せた。
 マルスの変化に気づいたロイが、不思議そうに首を傾げる。
「マルス?」
「……その……夢」
「うん」
「……なんで、そんなに、嬉しそうに……話すんだ」
 言葉をひとつひとつ選びながら紡がれた問いに、ロイはきょとんとした顔を返した。それは、マルスの問いが意外だったからであり、純粋な疑問以外、含むものは何もない。
「そりゃあ、ほら。
 だって、同じ“世界”にいたんだぜ? 嬉しいじゃん」
「……同じ“世界”にいても……」
 膝に置いた本の上でぎゅっと手を握り締めるマルスは、ぽつりと呟く。
「……お前の言ったことだと……ずっと、一緒には……いられないだろ」
 ずっと、一緒に。
 そのままの意味ではなく、今のような関係で、つまり、恋人同士で。
 夢の中では、目の前の彼はやはり王子で、そして自分は部下だった。マルスの言葉を正しく理解したロイは、ずいぶんと驚いたような表情でマルスを見た。
「……何だ?」
「え? ……いや、あんた……」
 十中八九否定されるだろうとわかっていながら、ロイは言ってみる。
「……もう一度、俺と恋人同士になりたい、とか思ってくれてんのか?」
「!! な、……ち、違……っ!」
 やっぱり。
 しかし頬が赤く染まっていることだけは隠しようもなく、ロイは笑った。
「そっかー、ありがとな」
「だから、違うって言ってるだろ! 大体、もう一度、なんて、あるわけ……」
「うん。そうだな」
 慌てて弁解するマルスは、素直じゃないところばかりが、いつまでも変わらない。わかっていてあんなことを言う自分も大概だと考えながら、思うところを口にしてみた。途端、ぴたりと言い訳が止むマルスの眼差しに、ほんの少し胸が痛んだ。
「俺だって、あるわけないって思ってるよ。あれは、ただの夢だってさ。
 それに、あんたが言ってたことも、しょうがないと思う。
 だってあんたはさ、自分の国を守るためだったら、何度だって戦うだろ?」
「…………」
 マルスはその生まれゆえに、いろんなものを諦めてきたはずだ。直接そう言っていたことは無いが、それを示唆することだったら、いくつだって聞いてきた。マルス自身にそのつもりはなく、無意識の発言を、ロイが勝手にそう感じたという話ではあるのだが。
 それでも彼は、自身が守るものの立場であることを拒絶しようとしたことは一度もなかった。マルスはきっと、あの水の国を守るためならば、どれほどの困難があっても、そしてどれほど手のひらが汚れても、どんなことだって厭わないだろう。胸の奥に閉じ込めたやわらかな心が、罪に軋む痛みに苛まれる代わりに。
「俺は、あんたのそういうとこが好きだし。
 俺だって、俺の領地の人たちのためなら、何度だって戦うし。
 で、あんたも、俺のそういうとこが良いんだ、って言うし」
「…………」
「お互いそう思ってんだから、そこはもう、どうしようもないんだろーな」
 生まれ変わりなど信じていない。結局あれはただの夢だ。叶うことがないと知っているから、なおさら愛しい。
   けどさ」
 ロイは腰掛けていた窓枠から跳び下り、困惑した様子のマルスの手をとった。こんな顔をしている理由が、ロイにはきちんとわかる。マルスも本当はもう、わかっているのだ。ロイの言いたいことくらい。あまりにも無謀で、そしてあまりにもささやかな、幸福のありかを。
「それでも、同じ世界にさえいれば……あんたが、どこにいるかわかるじゃないか。
 だから、嬉しかったんだよ。あんな、たいそうな夢でもな」
「……ロイ」
「まあ、夢だったんだけど」
 子どもっぽく笑ったロイは、せっかく握り締めた手を離すと、何かを誤魔化すように頭をかいた。
「んじゃあ、俺、リンクと約束あるから行くな」
「え、……あ……」
「ん?」
 くるりと背中を向け立ち去ろうとしたロイは、ドアノブに手をかける直前、何かに引きつけられるように振り返った。そこには、椅子から立ち上がりかけた中途半端な格好で、ロイを見ているマルスがいるだけだ。
 マルスは泣き出しそうな目をしている。正直、そんな顔を向けられるのは、とてもつらい。しかし、マルスがこんなことでは涙を流さないことくらいは知っていたので、ロイはただ黙って微笑み返した。
「なんだよ」
「…………ううん。……なんでもない」
 少しの沈黙の後、マルスはロイにそう答えた。無理矢理貼り付けたような笑顔が苦しくて、だけどそれを表に出すことは必死で堪えた。
「……ごめん。いってらっしゃい」
「ああ。じゃあな」
「うん」
 軽く上げられた手に手を振り返して、ロイはその場から逃げ出すように、部屋を飛び出した。

 一緒にいたいと強く望んでいるのは、本当は自分の方だ。
 けれど、そんなことは絶対に叶わないから。
 知らないふりで、気づかないふりで、あるいは悟っているふりで、誰も彼もをだますしかない。

 夢のようなこの世界の花は、今日も美しく咲いて、降っていた。

この二人は何度生まれ変わっても、自由に恋をできる立場には生まれないと思います。
しかし、それでこそ王子であり嫡男であり、守るものなのでしょう。たぶん。

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