矛盾

 はじめて魅せられた時と変わらず、その人が剣を振るう姿は、ただ美しい。
 目の前を掠めた軌跡に、少年はただ、そう思った。

 ロイがマルスの剣をはじめて見たのは、正確に言うならこの屋敷に到着したその時だ。門の前で待っていたマルスに声をかけ、うかつなことに女性だと間違え、しかもそれを口にしてみたりして、そして  その時のことはロイ自身もうあまり思い出したくないので、正確に言うなら、となるのである。そんなわけなので、ロイがマルスの剣をはじめて見たのは、その数日後、正式に試合を申し込んだ時、ということになっていた。少なくとも、少年の中では。
 勝負の結果は、惨敗だった。それは、線が細い、華奢な外見に油断していたせいでもあり、単に実力の差でもあり、そして件の女性と間違えた発言について、マルスがすっかり腹を立てていたせいでもある。ただ、その時のことについては、負けたことよりも。マルスという人の剣を振るう姿がひどく印象的であったことの方が、勝敗よりも、記憶にうんと強く残っていた。
 同じ剣の使い手には、リンクという青年がいる。単純な実力のみなら、きっと彼の方が上であろう。彼の剣は、戦いで己が死なないために磨き抜かれた、力の剣だ。話を聞けばリンクは、基本的には自分の身のみを案じていれば良いという状況で生きてきたらしい。
それほどの力をつけなければ既に命は無かっただなんて、一体どんな過酷な世界だそれは、と思わないでもなかったが、尋ねる気にはならなかった。所詮、彼は、言葉通り、少年とは住む“世界”が違うのだから。
 剣の腕前のみを競えば、リンクの方が上だ。しかしロイが美しいと感じるのは、比べるまでもなくマルスの剣の方だった。
 リンクとマルスとでは、そも剣を握る理由から違う。だから本来は、比べるべきものでもないのだ。なにもかもが違うのだから。そしてロイ自身がたまたま、マルスの立場に近い位置に在るだけの話だ。
 人を斬り殺す道具を、それを扱う人間を美しいと感じるのは。純粋な、憧れがあるからだ。
 その心を引き換えにしてでも。
 自分の愛するものを護りたいと思える、純然たる意志の、凛とした強さに。

   そんなことを急に思い出したのは、これが記念すべき百回目の敗北だからだろうか。秋も終わりに近づいてきたのか、すっかり色の落ちた芝生の上に痣だらけの腕を広げて倒れたまま、ロイはぼんやりと雲ひとつ見当たらない青空を見上げた。隣には、剣が落ちている。こうも負け続きでは申し訳ないなと思いながら、柄に填め込んである石をそっと撫でた。
 勝負の数も敗北の数もついに三桁を数えてしまったが、マルスの剣は変わらず美しい。
 件の人は細身の刃を鞘に収め、こちらもまた変わらない、限りなく無表情に近い不機嫌な顔でロイを見下ろしていた。
「僕の勝ちだ。……わかったら、謝れ」
「なーんで謝らなきゃいけねーんだよ。俺は思ったこと言っただけだろー」
 鼻の頭にさわる風が冷たい。本当に、もう季節が変わってしまうのだ。上半身だけを起こしマルスを見上げながら、ロイは子どもっぽく言ってみせる。
「かわいいものは、かわいいって褒めるのが俺の主義なんだって」
「……ッ、だから、男に、かわいい、なんて言って、楽しいのか!?」
「そりゃあ、俺はかわいいものを褒めてるだけだし」
 わずかに頬を赤く染めて若干声を荒げるマルスは、ロイの目から見れば、やはり『かわいい』のだが。これ以上言うと回し蹴りかかかと落としか何かが炸裂しそうなので、それは胸の中に止めておいた。
 にっこり笑うと、マルスは反論を失ったらしく黙り込んでしまった。恨みがましくこちらを睨む瞳にはいたずらっぽく返して、ロイは立ち上がる。
「はあ。それにしても、あんた相変わらず強いな」
「……たまたまだよ。最近は、お前が勝つこともあるじゃないか」
「それこそ、たまたまだろ。まあ、ちょっとは強くなったかなーって思うけど」
「……。ロイは、強いよ」
 ぽつりと呟いたマルスは、いつのまにか眼差しに羨望めいたものを含ませてロイに向けている。きっと無意識なのだろうが、そんな視線はロイには多少つらかった。
「そっか。ありがとな」
「うん」
「だけどやっぱり、あんたは強いと思うし。あんたは、強い方がいいしな」
「……?」
 膝を軽く払って伸びをしながら、思うままにそう告げると、マルスは不思議そうに首を傾げた。普段は年のわりに大人びた印象が強いが、そんなしぐさをすると途端に年相応の幼さが見えてくる。と、えらそうに言えるほどロイ自身が年配であるわけではなく、大体マルスはロイより年上である。
 剣を拾い、いたわりながら鞘に戻すと、マルスが切り出した。
「……どういう意味だ?」
「ん? ああ、べつに、深い意味なんか無いんだけど。
 ただ、あんたに簡単に勝てるようになると、なんか寂しいしなー」
「寂しい……?」
「俺、いつまでも、あんたに負けていたいなあ、とも思うんだよな。
 あ、リンクには勝つけど。そのうち。絶対」
 それは戦いを率いる者、強くなければいけない者としては、けっして褒められた感情ではないのだろう。事実そんなことを思っていても、やはり目の前の人に負けると素直に悔しい。ついでに言えば、別に普段の手合いで手抜きをしているわけでもなく、負けたいと思って負けているわけでもない。
「なんていうかさ。うまく言えねーんだけど」
 マルスの剣は、どれほど心を殺しても、自分の護りたいものを護るためだけに生まれた、そんな剣だ。研ぎ澄まされた意志が軌跡になって見えるから、人を圧倒する。そんな想いの強さを、ロイは未だ手に入れることができない。
 そして、それを手に入れれば。マルスのように、きっと心を手放すことになる。
 理解しているからこそ、手に入れることができないのだ。少年と青年も、やはり、住む“世界”が違う。ロイは生まれ持った自分の存在意義のために、そこまで自分を捨て切ることができない。
 もっとも、どちらが正しいのかについては話が別で、第一、わかるはずもないのだが。
「俺、結構、あんたに憧れてるからさ」
「……なんだ、それ」
 穏やかに微笑むマルスに、同じ微笑みを返す。庭の、背の高い木が、葉を落とす。純白にすべてを覆い隠される、冬が来るのだ。
 吹く風に呼応するようにくしゃみをしたマルスにいつもの惚れた弱みを発揮しながら、二人は屋敷の中に戻った。


死ぬほど矛盾させました。

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