無茶

   こんなに細かったっけ。掴んだ手首の脈を親指でなぞり、ロイはそんなことを考えた。もう少し逞しく見えていたのは、この先にある手が、指が、普段は剣の柄を握り締めているからだろうか。見た目の華奢さからは想像もできない気迫に圧倒され、例によって打ち負かされた昼間のことを思い出してしまったが、それどころではないと首を振った。
 見下ろした先では、白いシーツの上に青い髪を散らした愛しい恋人が、ひどく不安げにロイを見上げている。いつもより瞳が濡れているように見えるのは、先程のキスの余韻なのだと、それから、窓から差す月の光があんまり明るいせいなのだと、そういうことにしておいた。無理を聞いてもらっている、という罪悪感のせいではなく。
「……ん……」
 そんな思いを振り払うように、再び口づけた。ささやかに啄ばむだけなのに、マルスは怯えたように身を固くする。ベッドの軋む音が、鼻を抜けて漏れた声が、自制心と好奇心の間をくすぐった。
 夢じゃない。目の前のマルスは現実だ。想像の中と違い、与えるものが間違っていればマルスは痛がる。傷つけてしまう。
 きつく結ばれた薄い唇を舌先で軽くなぞり、離れ、ロイはマルスの髪をそっと撫でた。
「……大丈夫か?」
「……。……あん、まり……」
「うん。……ごめんな?」
「……そん、な、こと……。……っ……」
 シャツのボタンをひとつ外されただけでマルスは言葉を詰まらせた。目を逸らした少年の罪悪感が疼いたが、年頃の衝動が僅かに勝った。
 息を深く吐き、伸し掛かる。額をぶつけて覗き込んだマルスの双眸は、深夜の暗がりでも青く透き通って綺麗だ。一見無機質な大粒のサファイアの中には、心がきちんと宿っていることを、ロイはもう知っている。
 わざと音をたてて瞼にキスをしてから、ロイは襟を鼻先で退け、マルスの白い首筋に歯を立てた。
「っ……。あ……」
 皮膚の上から血管を探るように舌を押しつける。マルスが逃れるように身を捩るので思わず顔を上げると、ほんの一瞬、視線がかち合った。悪いことをした子どものようにぎゅっと目を瞑るマルスは危なっかしく、ロイはどうしても心配でならなかった。
 喉から細い顎まで、撫でるようなキスで順番に埋めていく。寝間着の合わせ目から差し入れた指を鎖骨の窪みに這わせながら、再度、ロイは口を開いた。
「マルス」
「……何、だ?」
「嫌なら止めるけど、どうする。止めるなら、たぶん、今が最後だから」
 これ以上進めれば、きっともう止められない。だいたいそんなことを続けながら、手のひらを物欲しそうにに肩へ滑らせる。爪を立てる。
 マルスは捕らえられていない腕で自らの顔を中途半端に覆い隠し、長い長い時間をかけて、ロイの最後の質問にようやく答えを返した。
「……嫌、じゃ……ないけど……」
「じゃ、続けていいんだな?」
「……。……訊かれても、困る……」
 赤く染めた頬で恥ずかしそうに俯かれるこっちの方がもっと困ってるけど  という訴えは飲み込んで、ロイは笑いながらごめんと短く謝った。実際、本当の本当に拒否したい気持ちはないのだろう。おそらくは。もしそうであれば今頃、鳩尾を蹴っ飛ばされてベッドから転落し頭を打って気絶、くらいの展開にはなっていそうなものである。
 そんな光景を想像して納得してしまうのも、なんだか悲しい話ではあるが。
「じゃあ、止めないからな。ちゃんと聞いたからな」
「……う、うん……」
 おずおずと頷いたマルスが愛おしく、結ばれてしまった唇に三度目のキスをした。
 マルスの手首を解放して、残りのボタンを一つずつ、丁寧に穴をくぐらせて外す。肩に触れていた手は痩せた背中へ回し、ロイはマルスを待ち侘びたようにきつく抱きしめた。ちょうど目の前にあったので首の付け根を強く吸ってみたが、マルスが眉を顰め痛がったので、すぐにやめてしまった。
 代わりにロイの唇は、マルスの形の良い耳を軽く食む。外周を辿り、中に舌を差し入れた瞬間、抱きしめていた肩が大きく跳ねた。
「ひっ……あ、……って、ロイ、う、く……っ」
「いやだ。待たない」
「あっ、しゃべ、ら、なっ……」
 細切れの抗議は無視を決め込み、唾液を絡め聴覚から執拗に攻め立てた。マルスの震えるような吐息は、ロイにはひどく心地良い。背中を支える手が少しずつ下降するたび、腕の中の体が硬直する様も。
 腰を抱き、浅い呼吸を繰り返し上下する胸に指を伸ばす。腕を引き、劣情の赴くまま乳児のように吸いつく。女性のようなふくらみは無いし、当然やわらかくもない。マルスはロイと同じく男だからだ。十二分に理解していても自分のそれとは全然違うと感じるのは、体内の熱がいやというほど煽られるのは、それがマルスのものだからなのかもしれなかった。
「う……っん、や……っ、あぁ、あ……!」
 唇を噛んで耐えていたマルスが、明確に声を上げる。皺になったシーツの上を、手のひらが頼りなく彷徨う。動きにくそうでぎこちないのは、寝間着が肘の辺りに絡んだまま残り、邪魔をしているせいだろうか。とってやった方がいいかもしれない。しかし深い紺の生地と色白の肌のコントラストは、ロイの目に実に楽しく映ってくれているのだった。
 慎重にと考えていたはずなのに、ひとたび同意を得ればこれである。ロイは自分の調子の良さにつくづく呆れてしまった。しかしそれほど、ロイにとってマルスは絶対だ。そして、マルスに触れたいと思い続けてきた、ありきたりな自分の欲も。
「マルス。気持ちいい?」
「……、あっ……。わ、わか、……っな……」
「じゃあ、嫌じゃない?」
「……っ」
 普段だったら恨みがましい目でも向けられているところだ。しかしマルスは問いかけと同時に与えられた刺激に息を凝らし、今にも涙がこぼれそうな瞳でロイを熱っぽく見つめるだけだった。
 思わず息を呑む。マルスがこんな目をすることも、こんな声を出すことも、知らなかった。ちょっかいを出して、すました顔を崩すことは楽しかった。それと同じ、しかしもっと強い衝動が、ロイの幼い理性をぐらぐら揺らす。
「マルス、」
 鼓動がひとつになるくらい、胸を押しつけ言葉を奪う。自分まで息苦しくなるくらい、歯列を割り生温かい口腔を侵す。喉の奥から聞こえる引き攣れた呻きは、ただロイの脳を焼くばかりだ。体はこんなに熱いのに、存分に絡めあう舌がそうでもないのが不思議だった。
 唾液の糸を引きながら汗ばんだ額を撫で、張り付いた前髪を払う。呼吸もままならないマルスは、いつも以上に綺麗に見えた。
 涼やかな領域を、けっして踏み越えられなかった境界を、自分の手で犯しているからだろうか。ならば、もっと。これ以上に。
 せつなげに目を細めたロイの指が、肋骨の上を通り過ぎ、マルスの下腹部に伸びる。
「……っあ、……ロ、ロイ」
 それに気づいたマルスは、青ざめた顔つきでロイに懇願した。わかっていたはずだ。それに、先ほど了承もとった。だから、ロイは止めなかった。
「止めない、って言ったろ。嫌じゃないって」
「い、嫌じゃない、けど……」
 寝間着にはベルトもないし留め金もない。辿り着くのはあっという間だった。布地越しに感じていた血の熱さを、いい加減、素通りすることはできなかった。
「……ロイ、だ、だめ……」
 マルスが目を瞑る気配があった。顎に軽く口づけて、指先を下着の中へ滑り込ませる。

   その瞬間だった。

「……ッ、やっ、ぱり、だめだっ、ごめん、無理    !」
「え、」
 腕の中の体が大きく動いた。疑問に思う間もなく、ロイの鳩尾でなにかが弾ける。違う、これは、蹴っ飛ばされたのだ。超スピードで反転する景色を見ながら、やっとのことでそう認識した。
 痛みは認識できなかった、宙に投げ出された体はベッドから離れ、絨毯を敷いた床の上に落下する。
 真夜中の天井の色を見た。ごづっ、と、頭の中で、なんだか痛そうな音がする。
 ロイの意識は、そこで途切れた。


   ***


「…………。」
「……。……ご、ごめん、ロイ……」
 目を覚ますと、ロイは再びベッドの上にいた。正確には、寝かされていた。ずきずきと痛む頭の下には氷枕が敷いてあり、脱いでいたはずの服はきちんと着せられている。その下で、蹴られた腹部が遅れてきた痛みを訴えていた。
 ベッドの傍らに視線を寄越す。運んできたらしい椅子にちょこんと座るマルスは、さすがに申し訳ないと思っているのか、項垂れて謝り通しだ。こちらもやはり寝間着をきちんと着込んでおり、触れていたはずの上気した肌はどこにも見えなかった。
「あのさあ。あんたも一応、男だよな?」
「……。うん……」
「だったら、俺がすっげーつらいのわかるよな?」
「……。……ごめん……」
 この調子である。ロイがわざとらしく溜息をつくと、びくっと肩を竦めてしまった。
 これも、惚れた弱みなのだろうか。悪気がないのがわかっていたから、ロイは真面目に責める気をすっかりなくしてしまった。多少の嫌味を言いたい気持ちは置いておくとして。
「だーかーらー、あんなに訊いただろ。嫌じゃないか、って」
「…………」
「無理言ったのは悪かったけど、嫌ならそう言ってくれれば」
「嫌じゃない……のは、間違いじゃない……から……」
 ぽつりと反論したマルスに、ロイは怪訝そうな顔を向けた。マルスは痩せた腕で自分を抱きしめて、青い瞳でうろうろとあちらこちらを見ている。これは言葉を探しているのだ。ロイはしばし考え、仕方なく口を開いた。
「嫌じゃないなら、なんだったんだ?」
「……。あんな、ことに、なるなんて」
 長い睫毛を震わせるマルスは、まるでひとりを寂しがる小さな子どものようだ。こんな顔をしていると、どうしても抱きしめたくなってしまう。しかしロイは、腕を伸ばしたいと思う自分を静かに抑えた。抱きしめてしまえば、マルスが喋れなくなってしまうと思ったからだ。
「こんなこと……。誰かにこんなにさわられるのは、初めて……だったから」
「うん。初めてじゃなかったら俺がいやだ」
「……。……知らなかったんだ。あんな声が出るとか、あんなに、熱い、とか……」
 なにごとか思い出したのか、マルスは頬を赤く染める。そんな様子が、今日の出来事がロイの夢や妄想ではなかったことを証明する。
 ロイが握り締めていた手首に、マルスは触れている。その下に見つけたはずの意外な細さは、今のロイにはとても遠かった。
「自分の知らない自分が、こんなにたくさんあったなんて、知らなかった」
「…………」
「そんなもの……僕の知らない僕を、……お前に見られるのが、怖かったんだ。
 ……幻滅させたら……嫌われたら……。……どうしようって、思ったら……」
「…………。……無茶言うなあ。あんた」
 マルスの告白を聞いたロイはがりがりと頭を掻いて、今度は心からの溜息をついた。不安げに顔を上げるマルスを見て、俺ってそんなに愛が足りないかな、と冗談めかして呟く。
「マルスを嫌いになるなんて、絶対無理だ。知らないところに、何が隠れてても」
「…………」
「綺麗だったしな」
 からかうような声色で告げれば、マルスはますます顔を赤くして俯いてしまった。ひどく愛おしく、ロイはそんな表情を眺めている。
 あの春の日、青空に淡く咲く花を一心に見上げていた、淋しい横顔に恋をした。こんなものが隠れているなんて、知らなかった。マルスは怖いと言ったけれど、ロイにはとても幸せなことだった。
 こんな想いは、知らなかった。
「マルス」
「え、……うわっ!?」
 マルスの腕を掴み、ベッドに引きずり込んだ。外気で冷えた体にいそいそと毛布をかけてやり、それごとぎゅっと抱き寄せる。マルスは当然慌てていたが、根気良く髪を撫で続けると、ようやく落ち着いたようで大人しくなった。
 頭を抱え肩を抱く。すっぽり収まるとまではいかないが、マルスはロイの目から見ても華奢な体つきだ。強く強く抱きしめる。研ぎ澄まされた気迫の中に怖がりな幼い子どもを隠すマルスを、けっして逃がさないように。
「何もしないけど。でも、一緒に寝よう、って」
「……ロイ」
「あのさ。マルス」
 白い首筋に鼻先を寄せると、マルスの肩がぴくんと跳ねた。髪の匂いをいっぱいに吸い込んで、ロイは目を伏せる。おずおずと背中を抱きしめ返すマルスに本当はいくらでも文句を言いたかったが、少年の潔癖さを盾に、刃だけはしまい飲み込んだ。
「あんたのこと、もっと知りたいし、もっとさわりたいんだ。
 だけど、あんたを怖がらせたいわけじゃない」
「…………」
「俺だって怖いよ。あんたを傷つけて、嫌われたりしたら、困るんだ」
「……。……無茶なのは、お前の方じゃないか……」
「……え?」
 残った部分を伝えてみれば、思いきり気の進まない様子で返事が寄越された。真意をはかり損ねて尋ね返しても、マルスはロイの胸に顔を埋めたっきり応えようとしない。意固地になったマルスには何を言っても逆効果だ。わかっていたので、ロイは溜息をついて追求を諦めた。
 今夜の月があんまり明るいのは、カーテンを閉め忘れたせいだ。今更寝床から這い出る気力は無くて、ロイは意識してきつく瞼を閉じる。視界を閉ざせば抱きしめたマルスの体温が、息遣いが、衣服越しなのにうんと伝わってきて、結局落ち着かないことに変わりは無かった。
「……ロイ。あの」
「ん? なんだよ」
「その……こうしてると、……余計、つらいんじゃないかと、思うんだけど」
「……。……うるせえ! いいんだよ!」
 タイミングの良い気遣いはきっちり捩じ伏せた。つまり、マルスも同じことを感じているのかもしれない  そう思うと、少しだけ幸せだった。

 やがて声は消え、呼吸は静寂へ帰り、ロイとマルスは同じ鼓動を聞きながら眠りについた。

「無茶」という言葉と共に「たまにはエロとかどうですか」という文章がそえてあったのでそうしてみました。
そうしたということにしておいてください。

アンケート部屋 INDEX