最後

    女神様。少年は力無く呟く。誰の足跡もなかった雪の上に、彼の宝物を横たえて。震える吐息、かじかむ指先。握りしめた手の冷たさに、冬の寒さを思い出す。終わりがないと錯覚しそうなほど絶望的な夜を、ずいぶんと長い間忘れていた。顔を上げる。分厚い雲の向こうに、夕暮れを感じた。
    女神様。少年はもう一度呟く。華奢な肩に、髪に、閉じた瞳を縁取る長い睫毛に、雪は降る。まるで白い花を飾っているみたいだ。目を潰されそうなくらいに眩い光を反射する様に耐え切れず、少年はそっとそれらを払った。幼い輪郭を指で辿ると、手と同じように、ひどく冷たかった。

    女神様。少年は空に向かって、一度だけ、吼えるように叫ぶ。その後。彼に残されたのは、大切な一振りの剣だった。刀身が、雪と同じくらいに白く輝く。どれほどの怒りや悲しみや淋しさを、斬って捨てても。
 ほんの一瞬だった。
 少年は倒れ、辺りには真っ赤な命が降る。

    女神様。少年は今にもかき消えそうな声で呟く。じわじわと流れてゆく命が、雪を汚してゆく様子を間近に見ている。先ほども同じ光景を見た。いくつも見た。覚えているのは一つだけだ。少年の目の前で音をたてて壊れた、白い銀色の小さな命。ごめんねと最後、少年に伝えて。
    女神様。少年は絶え絶えの息で囁く。止められなかった戦いも、呪いのようにつきまとっていた滅びの足音も、これでもう終わる、なにもかも終わる。なぜなら、みんなもういないからだ。抵抗も虚しく、みんな雪にかえった。だから誰の声も聞こえない。土をかける代わりに、彼らの体には雪が降る。
    女神様。少年は咳込みながら囁く。目玉を動かして空を見る。雪が降る。まるで光が落ちてくるみたいだ。そのとき少年は生まれてはじめて、その向こう側に女神様の姿を見た気がした。

    女神様。女神様。おろかなのは、わたしでしょうか。少年は囁く。誰にも聞こえない。
    女神様。女神様。わたしの世界はもう終わり、わたしの神様はもういなくなってしまったから。少年は繰り返し囁く。それでも誰にも聞こえない。

    女神様。少年は血を吐き出してなお囁く。
    女神様。少年は使いものにならない喉で呻く。

    女神様。それでもわたしは。彼のいない世界でなど、もう生きてはいけないのだから。

    女神様。少年は祈る。力の入らない腕を懸命に伸ばす。指の先がふれる、涙が落ちる。隣に横たえた宝物を、力強く抱きしめる。はじめて手に入れたぬくもり。はじめて願った命。はじめて愛した笑顔。どんなことがあっても、ずっといっしょだと誓ったのに。

 冷たい体。砕かれた心臓。二度と開かない瞳。わかっていながら少年は、彼の宝物を、力強く抱きしめる。熱を持つ己の首から流れ落ちる命で、白銀色の衣が、いっそう美しく、より赤く染まってゆく。
 赤い花を飾っているみたいだ。あたたかい。少年は雪の中。最後、幸せそうに笑った。

 戦いは終わった。夕暮れより早く夜がきた。音は聞こえない。何も見えない。腕の中には彼がいる。だから安心して眠れる。そういえばもう、何日もゆっくり眠っていなかった。彼の髪をさわる、力強く抱きしめる。彼がここにいる、だから安心して眠れる、だから、もう。


 夕暮れの城に、雪が降る。白い花は、赤い花を隠すように、音も無くいつまでも降り続ける。雪は降って、降り続けて、二つの体を白く隠す。二つの体の汚れが落ちて、冬の空気に溶ける、そのときまで。
 誰が死んでも、誰が息をとめても、誰かの世界が終わっても。
 ただ、雪は降っている。
 ただ、雪は。


よくない話になってしまいました。ごめんなさい。

アンケート部屋 INDEX