蒼穹

 屋根の上を渡って行こう、とエディが言った時から、レオナルドは不安だった。身のこなしの軽いエディとは比較にならないほど、レオナルドは、自分の運動神経が良くないことを自覚していたからだ。良くないとは言っても、仮にも仕官学校に身を置き、弓を引けるくらいなのだから、致命的という程では無い。致命的なのはむしろ、自覚しているゆえの気後れ、要するに、度胸がが足りていないことである。
 そんなわけで、二人の現在地は、街の路地裏の屋根の上。目の前には、家屋と家屋の隙間がある。今まで問題無く跳び越えられてきた狭いものと比べて、目の前のそれは、やたらと広い。
「うん。ここ跳んで、もう少し行けば、裏通りに出るだろ」
「…………」
 エディの声を思いきり聞き流しながら、レオナルドは考える。助走をつけて、……ぎりぎり、と言ったところだろうか。だけどこんな、傾斜のついた不安定な足場で、地面にいる時と同じような助走がつけられるものなのだろうか。
 レオナルドは、更に考える。もし向こう側へ届かずに、下へ落ちたらどうなるだろう。大した高さでは無いから、死にはしないだろう。頭から落ちたりしない限りは。だけど自分の身体能力で、咄嗟に上手く着地出来るわけが無い。きっと、どこかしらを痛めてしまう。おそらくは、いちばん先に地面に届くであろう、二本の脚を。
 足を痛めれば、間違い無く、この逃亡生活に支障をきたす。跳んだり跳ねたりはおろか、走ることすら、もしかしたら、歩くことだってつらくなるかもしれない。そのままベグニオンの駐屯兵に捕まって、その後は   もう、想像なんか、したくは無かった。
「……外に出ちゃえば、もうちょっと楽に   レオナルド?」
「…………えっ!?」
 いきなり呼ばれたレオナルドは、弾かれたように顔を上げた。エディを見つめるまんまるに開かれた瞳に、エディは不思議そうに首を傾げる。
「何か変なとこあった? ってか、聞いてた?」
「……ごめん」
 正直に謝れば、エディは怒るどころか、おかしそうに笑ってみせた。いつもと逆だな、と言って。
 エディはレオナルドの手首を軽く引いて、す、と遠くを指差す。連なる屋根が途切れているところに、陰になった路と、小さな門があった。
「あそこから、外に出よう、って。じゃあ、おれ、先、行くな」
「あ、…………う、うん…………」
 ぱ、と手を離し、剣帯に緩みが無いか確認して、エディは軽やかに走り出す。レオナルドが気をとられていた、目の前の隙間へと。
「よっ、と!」
 普通に踏み切って、普通に跳んで、そして普通に着地する。あんまり鮮やかな身のこなし。見た目ほど大変なことでは無いのだろうかと、一瞬でも、考えてしまうほどの。
 レオナルドが見ている先で、エディは屋根についた片膝を伸ばして体勢を直すと、くるんと振り向いて、声を飛ばした。
「レオナルド! おまえの番だぞー!」
「…………」
「レオナルド?」
向こう側のエディと、こちら側のレオナルド。二人を隔てる距離を意識して、レオナルドは僅かに一歩後ずさる。大した高さじゃない。絶対に、深く考えすぎだ。きっと、思うほどの、大事には至らない。
 それでも目の前に横たわる溝は。レオナルドには、奈落のように思えてならなかった。
 一向に動こうとしないレオナルドに、エディは今度は、疑問の声を上げる。
「どうしたんだ?」
「…………ご、めん……。…………」
「……。もしかして、こわいのか?」
「!」
 きっぱりと、あまり重たくは無い調子で告げられた、本当のところ。目線を上げると視線がかち合って、なんだか妙に恥ずかしかった。
 レオナルドの怯えをあっさりと見透かしたエディは、そんなことか、と明るく笑った。
 向こう側の屋根の、ぎりぎりのところまでやってきて。エディは、レオナルドに向かって手を伸ばす。
「だいじょうぶだって。おれがなんとかするから」
「なんとか、って……。……だったら最初から、下りた方が、」
 あくまでもレオナルドの思考は、落ちること前提にしかまわらない。それゆえの、彼にとっては確実な、提案だったのだけれど。
 そう言いかけた唇に、エディの言葉が燈る。
「落ちないよ。だいじょうぶだって」
「…………」
「万が一そんなことになっても、ぜったい、おれが助けるから」
「…………」
 エディは普段から、嘘を吐くのが下手だ。だからこそ、本音が本音であると、普段からよくわかった。伸ばされた手を、光みたいに明るい笑顔を、どうして信頼せずにいられるだろう。
 背中の武具がきちんと留まっていることを確かめてから、レオナルドは、ぐ、と手を握る。
 そして。
「……っ!」
 エディに向かうように走り出したレオナルドの足が、屋根の際を踏み切った。跳躍の感覚。どうか、届きますように。目を閉じそうになるのを堪えながら、ほんの少しの時間を置いて。つま先が、予測した場所に足場を捉える。
 手の届きそうなところ、目の前に、エディがいた。   届いた、のだ。
「……、……は……、」
 そのままもう片方の足も、先の足の隣についてくる。あれだけ散々考えておいて、怖がっておいて、だけどとにかく、落ちなかったことに安堵して、ほっと胸を撫で下ろした、
    その時。
   っ!?」
「! レオナルド!?」
 いきなり上体が後ろへ傾いて、レオナルドは言葉を失った。視界からエディの姿が消えて、その代わりのように、淡い色合いの空が広がった。ああ、足を滑らせたのだ、そういえば今朝は霧が出ていて   。ひどく冷静な頭が勝手にそう結論づけて、思わず目を閉じて。体からはさあっと血の気が引いた。
「……ッ   !」
 何かを覚悟した瞬間、ふいにすごい力で腕を引かれて、身体もそのまま引っ張られた。重力に逆らう勢いのまま、誰かが、レオナルドの背中を抱きしめる。
 目を閉じた真っ暗な世界の中で、レオナルドは前に倒れていく。直後、何かが叩きつけられたような音、それに付随する衝撃で、夜色の瞳が開かれた。
「……っつ……、レオナルド! だいじょうぶか!?」
「え……、……なに、……言って、」
 緩い傾斜の屋根の上に、エディが上半身だけを起こした姿勢で座り込んで。その腕の中に、レオナルドがいた。そのことを確認して、レオナルドは目の前の肩にすがりつく。
「何、言ってるんだ……! エディの方が、今、背中、」
「おれはいいから! おまえは!?」
 乱れた呼吸を直そうともせず、途切れ途切れに言えば、エディの手が逆に、レオナルドの肩を掴んできた。鬼気迫る、と言ったような表情を目の前に、レオナルドはびく、と肩を竦めて。
「……。……平気……」
 エディが、助けてくれたから。   そう言ってようやく、エディの灰色の瞳がゆるんでとけた。それからレオナルドのよく知っている、明るい顔でにっこり笑う。
「そっか。よかった」
「うん……」
 ぽんぽんと、あたたかい手で背中を軽く叩かれる。あやされているようで癪だったけれど、エディはきっと、自分を落ち着かせたいのだろうとわかったから、レオナルドは何も言わなかった。縋った肩に額を寄せると、吐息まで届いてしまいそうだった。
「……ごめん……」
「ん。おれの方こそ、ごめんな。そうか、今朝、霧、出てたもんな」
 すっかり忘れてた、と言うエディは、既にすっかり平静を取り戻している。小さな子供みたいな体温にあたためられながら、レオナルドはふと、今のこの状態……屋根の上に二人で座り込み、エディがレオナルドを抱きしめている、と言う……が、なんだかものすごくおかしなものに感じられた。ものすごく今更、な話ではあったのだけれど。
 心臓が、やっと元の鼓動を取り戻したころ、レオナルドはおずおずと顔を上げた。とても近くで目と目が合って、今度こそとても恥ずかしかった。理由は、まだよくわからない。
 慌てた様子ですり抜けた視線は、自然に、エディの頭の向こう側に広がる空へと向けられる。
 光のように眩い青が、ずっと高いところに潜んでいた。
「今日も、いい天気だな」
「え」
 肩を包んでいた手が離れて、レオナルドは引かれるように目を向ける。隣で、エディは立ち上がり、腕を伸ばして大きく伸びをしていた。炎で何かを焼いた後の、あたたかい灰色の瞳が、ずっと遠いところを見つめていた。
「だけど、そのぶん、駐屯兵の連中も、動きやすいんだろうし」
「…………」
「だから、そろそろ、行こう。立てるか?」
 再び伸ばされた手と、逆光に微笑む顔とを交互に見る。小さく頷いて返事をすると、レオナルドはその手を取って、ゆっくりと立ち上がった。地面よりも空に近い屋根の上は、足元が不安定なことこの上無くて、本当はまだ怖かった。
「たぶん、もう少しで、下りれるから」
「うん。……あの、エディ。背中……大丈夫?」
「全然平気! ほら、行こうぜ!」
 有り余る元気で、エディはレオナルドの手を引いて走り出す。それについていきながら、レオナルドは、つられるように微笑む。今のところは、逃げることしか目的の無い旅。希望があるのか知らないけれど、手に入れた、取り戻した光を、けっして失わないように。
 薄汚れた裏の街並みを、二人の少年は、飛んでゆくように走り抜けていく。
 青く澄みわたる空の端にとけていくように、二人の姿は小さくなって、やがて、街の奥へと消えた。


下りろよ。という現実的なツッコミは無しの方向で……。すみませんでした。

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