吐く息が白い。
空気は、たっぷりと湿気を含んだまま、完全に冷え切っている。しかし、間近で燃える炎のせいで、肌は焼け焦げそうに熱い。
「何故あのままではいけなかったんです?」
問う骸は、いつもの如くうっすらと笑みを浮かべている。オレはもう息があがっているというのに、嫌な奴だ。顔色さえ変わっていない。
白色灯が部屋中を照らし、睫毛が影を作っているのさえ見てとれた。あまりの明るさに、なんだか気分が白けてしまいそうになる。こういう場所で、しかもこういうとき、舞台はもっと薄暗くあるべきなんじゃないだろうか。
微笑んだまま、骸が三叉の槍を振るった。一瞬前までオレの頭があった場所を刃が薙ぐ。襲いかかる風圧。身を屈め、右足で床を蹴る。空間を断裂するように、大仰に振り回される柄の下をかいくぐる。グローブを武器とするオレの間合いに、骸を引きずり込むために。拳から、額から、炎を撒き散らし、零しながら、手を伸ばした。しかし、もちろん骸がそれを易々と許すはずがない。ぐるりと回転させた槍の柄頭で胸を突かれ、また距離が空いた。
視界の端で揺らめく炎の残像が消える間に気付く。
なるほど。
これは夢か。
夢であり、過去の思い出だ。
「何故あのままではいけなかったんです?」
骸がもう一度言った。
手首足首には、未だ枷の残骸が残っている。袖口から覗く白い肌には、既に効力を失ってはいるが、六道眼の力を封じるための呪が刻まれていた。簡素な白い囚人服がところどころ焼け焦げているのは、オレの炎のせいだ。その背後には、完全に破壊された巨大な水槽が一つ。
「僕と君は、結構上手くやっていたでしょう?」
にこりと美しく微笑む。ちくしょう、見た目だけは本当に腹が立つほどに美形だ。
オレと骸以外の人間にとって、オレたちの関係は、理想的なものに見えただろう。強大な力を持つ骸。しかし彼はクロームという器に閉じ込められ、骸の力が必要であるほどの事態が起こったときにだけ、オレの要請により顕現する。一人で戦局を覆し得るその力は、しかし時間制限付きであり、オレの身を脅かすには至らない。
扱いは難しい。しかしオレはそれを上手く利用している。と、周りは満足していただろう。でも、オレはそれが腹立たしかった。許し難かった。
「ならお前は、あのままでよかったって言うのか? この冷たい水槽の中に繋がれて、いつまで縛られているつもりだったんだ?」
言葉に合わせて、オレの炎が揺れる。
「お前、諦めていただろう。このままでもいいかと、そう思っていただろう」
骸は一度眼を細め、その顔から表情を消した。しかし、すぐに唇を歪めて、軽薄な笑みを貼り付かせる。
「……諦めていたわけではありませんよ。僕にとって、一度の生など瞬きするほどの間に過ぎません。それならば、繋がれたままこの生を終えるのもいいかと思っていただけです」
なんだそれ。子供の言い訳か。
「それを諦めって言うんだよ! オレはそんなの許さない!」
言葉の途中で、オレは再び踏み込んだ。
「許さない! クハハ! なんて傲慢な言い草だ!」
一撃必殺のつもりで急所を狙っていく。しかし骸を傷つけるのは本位ではないからやりにくい。対して今の骸は、初めて戦ったときのように、オレを殺さず、しかもより強い力を引き出すために誘導しながら手加減して戦う、なんて優しいことはしてくれない。あのときとは立場が逆だが、まさかこんなに戦い辛いとは思わなかった。
オレを近付けさせまいと、骸が刃で牽制する。上から振り下ろすが、既にその場所にオレはいない。しかしすぐさま横に薙ぎ、足元を狙ってくる。もちろん脛から下を骸にくれてやる気はなく、体勢を崩しながらも跳躍した。
「君が僕を救おうとするのは、僕に同情しているからでしょう? その様子だと、犬や千種に、今生の僕の生い立ちでも聞きましたか? それとも、君お得意の覗き見ですか?」
「別に好きで覗いてるわけじゃねぇし!」
今回は前者の方が正解、と言うと後で二人が怒られそうなので口を噤んでおいた。
両手の炎を使って骸の背後に回りこもうとしたが、察知した骸が、今度は剣を左下から右上へと斜めに切り上げた。顔をかすりそうになった刃を、反射的に握って止める。鮮やかな緋色の火花が散り、オレと骸の力勝負が始まった。オレが手を離せば、この三叉の剣は、すぐさまオレの顔を穿つだろう。手が震えるほどに力をこめ、必死に圧しとどめる。
「アルコバレーノの代わりに、僕が一つ教授致しましょう」
骸も精一杯の力をこめているはずなのに、その顔と声は、あくまで涼やかだ。
「同情とは、持てる者の傲慢であることを知りなさい。それは単なる自己満足と自己愛であって、誰かに手を差し伸べることでもなく、ましてや相手を理解することでもない」
骸からの圧迫が強くなる。
「そして僕は……」
刃の先端が頬に触れるまで、あと1cm。
「君のナルシズムに振り回されるのは、非常に迷惑だ」
あと、5mm。
「……確かにオレは傲慢だ」
そしてオレの顔に穴が開く直前、左足を思い切り骸の胴に叩き込む!
「これはオレのわがままだから」
気付いた骸が身を捩ったせいでクリーンヒットとはいかなかったが、骸はよろめいてたたらを踏んだ。そこに追い討ちをかけるように、右の拳を突き出す。顔を……いや、あの鈍く光る赤い眼を狙って。
「でも、オレはお前にこれっぽっちも同情なんかしてはいない。これは同情なんかじゃない」
骸の剣がオレの拳を弾く。次は左の拳。これも骸に退けられる。もう一度右。弾く。左。弾く。右。弾く。拳に宿った炎が燃え立ち、踊り、火花を散らし、そして、もう一度刃を掴んだ。
「同情で、誰がお前みたいな人間外にこれほど執着したりするもんか」
体勢的に、今度はオレが有利。刃ごと炎を押し付けてしまおうと力を込めた。
「同情でなければなんです。友愛ですか? 僕が、君が言うところの罪を犯したことをお忘れですか? おそらく君が想像する以上のことをして生きてきた僕を、無条件で救うべき仲間だと?」
「違う。忘れてない。全然忘れてない。ついでに言うと、あんまり友達とか仲間だっていう気もしてない」
「クフフ、では聞かせてもらいましょう。君が僕に執着するのは、何故なんです?」
さすがに骸の額にもうっすらと汗が浮かんでいる。骸の抵抗は本気だ。
オレは今(昔だけど。っていうか夢だけど)、骸と戦っている。意味が分からない。なんでコイツは本気でオレを殺そうとしているんだ。助けに来たはずのお姫様が実はラスボスだったなんて、そんなRPG、オレだったら壁に投げつけるぞ。
「それは……」
大体、なんでオレは何でこんな目に会ってまで骸を救いに来ているのか。さっき本人が言ってたように、骸は助けてくれなんて言ってない。助けていいことなんて何もない。いや、あの三人が喜ぶっていうのはいいことかもしれない。でもそれにしてもリスクが大きすぎる。だからこれは本当にオレの我が侭だ。そしてオレの我が侭は、一つの欲を根っこにしている。その欲とは何か。
19歳の今のオレにはもう分かっている。そして、17歳のときのオレは、まさにこのとき、骸に問われて、それに初めて気付いたのだ。
「……所有欲」
「は?」
ポツリと言えば、骸が眉をしかめて怪訝な顔をした。当然の反応だろう。
「所有したいんだ、オレは、お前を。オレのものにしたい」
「……は?」
骸の眉間の皺が深くなる。
「オレのものにしたいんだ…………体も、魂も」
一言一言ゆっくりと言い聞かせる。骸ではなく自分に。
パチンパチンと小気味良い音を立てながら、パズルのピースがはまっていく。どんな精密機械よりも複雑な歯車同士が、噛み合って動き出す。
これは、同情とか友情とか恋愛とか、そういう感情のレベルの問題じゃないんだ。
「オレのものにしたいんだ! 体も魂も全部! だからこんなところにお前の体があるのは耐えられない! こんなところで体と共にお前の魂が朽ちていくのも許せない!」
炎が爆ぜる。骸の白い顔の上に赤い影が踊り、瞳の赤がたよりなく揺らめく。
「……な……なんなんですか、それは……」
「だからオレはお前を救う。そろそろ観念しろ、骸」
三度、踏み込む。まっすぐに突き出された切っ先は、しかし遅い。剣先を掴み、これまでは手加減していた(骸相手に無謀にも!)炎の力で鋳溶かす。赤とオレンジの半固形物に変わった切っ先が、どろどろと床に滴り落ちた。目を見開いた骸は、槍を投げ捨て、大きく後ろに飛ぶ。
「なんなんですか、それは! 意味が分からない! 大体、何故僕に執着するのかという問いの、根本的な答えになっていない!」
珍しくも動揺している骸の叫びと共に、四方から野太い鞭のようなものが襲いかかる。大輪の花を咲かせた蓮の茎だ。尖った先端がドリルのように地面を穿ち、床に深い亀裂をむ。幻覚だということは分かったが、それでもオレは蓮を避けた。
幻覚は、それを見せられた人間の脳に作用する。その幻覚を本物だと脳が錯覚すれば、身体も脳の判断に引きずられる。幻覚の炎で火傷したり、幻覚の水で溺れたりするのはそのせいである。
ここで重要なのは、理性の判断と、脳の判断は違うということ。脳の判断、つまりは本能とも言える。たとえどんなに冷静に『こんなところに火柱が立つなんてありえないから、これは幻覚だ』と理性で判断したとしても、本能の方が『いや、こんなにリアルなんだからやっぱり本物の火柱だ』と勝手に感じとってしまえば、身体にとっては現実の火柱となる。完全に騙す必要はない。チラとでも本能に『あれ、もしかして本物?』と思わせることができれば、それで幻術士の仕事は終わりなのだ。
しかし、それを見破ることができるのが、対骸に限ってやたら敏感に反応する妖怪アンテナみたいなオレの超直感――のはずなんだけど、正直これは自分でも頼りない。骸の力の入れ様にもよるが、未だに幻覚にかかるかかからないかが五分五分でリボーンに怒られているオレとしては、危ない橋を渡るのはできるだけ避けたいところなのだ。
という理由で、オレは骸の攻撃を避ける。理性では『骸の非現実的な攻撃は幻覚だ』と完全に理解しているのに、それでも『術中にはまっていない』と確信が持てないことが怖い。
本能の支配とは、かくも強大なものだ。
そこに理由はない。
「オレがお前を欲しいのは本能だから、理由なんてないよ」
弾き飛ばそうとしているのか突き刺そうとしているのか、執拗に追ってくる蓮から逃げる。
「これはもう仕方が無い。諦めてくれ、骸」
絡み付こうとする蓮の触手を炎で焼き、オレは確実に中心へと近付いている。
「オレも諦める。そろそろ観念するべきだよ。オレも、お前も」
本能で求めているのはオレの方だけじゃない。きっと、いや、絶対に骸もだ。そうでなければ、何故骸はこれほどまでにオレに執着する?
「僕は……っ」
幾重にも重なる蓮の向こう、骸の白い顔が見える。ああ、こいつがこんなに動揺してる顔、初めて見た。
「僕は、いや、僕が、君は」
幻覚がぶれる。骸が動揺しているせいだ。
「これが……この感覚が、本能だと?」
「少なくとも、オレは」
骸にだけ特別に反応するオレの直感。これはもう本能という言葉でさえ生温い。魂のレベルで、オレと骸は引き合っているのだ。
向かってくる太い蓮の茎が透けて見えた。輪郭も曖昧にぼやけ、蔓がしなるたびに感じていた風圧が消える。 直感するまでもなく分かる。
紛うことなき幻覚。
「お前が、オレも、マフィアも、世界も、全てを呪ってることは十分知ってる」
瀕死の獣が、それでも爪を振るうように、半透明の蓮の茎が襲ってくる。しかしオレは避けない。気配も風圧も何も感じない。まっすぐに骸を睨むオレの眼前まで迫り、何の抵抗もなく体を擦り抜け、背後で幻覚は四散した。次々に襲ってくる茎と花も、全てオレの中を擦り抜けては消えていく。
「それでもお前はオレのことが好きなんだ」
一息に言って、地面を蹴る。右拳の炎を最大出力にまで高める。
「戯れ言を……ッ!」
必死の形相で骸が三叉の槍を振るった。炎の触手が、まるで大蛇が這うように、何本もオレに襲いかかる。しかしそれは幻覚だ。タネの明らかになった幻覚は、微風ほどにもオレに影響を与えはしない!
「否定するなら、もっと死ぬ気で否定してみろよ!」
骸はずるい。骸は卑怯だ。いつも斜に構えた態度で、シニカルな笑みを浮かべ、一歩引いた傍観者の立場から降りてこない。都合の悪いことははぐらかし、本音を吐露することは決してない。
けれど今、その仮面が剥がれかかっているのだ。
襲いかかる幻覚(しかしそれは最早意味を失っている)の群れの向こう、歯を食いしばり、右目には憎しみを、左目には戸惑いを浮かべ。白い顔は青褪め、整った爪先は紫に染まり。しかし、その頼りない喉は、今にも歓喜の歌を歌い出しそうに震えている。少なくとも、オレにはそう見える。
さぁ、歌ってもらおう。
オレの拳で、オレの炎で、お前の仮面を焼いてやるから。
橙から白色に変化した炎が、空に直線を引く。まっすぐに、一瞬前までオレの立っていた場所から、骸の顔目掛けて、ただ愚直なまでにまっすぐに。
「あ」
震える喉から声が漏れる。
「ああ、あ」
絶望の悲鳴。歓喜の歌声。再生の産声。
「ああああああ!」
白熱の炎が、骸を焼いた。

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