葦浦迷宮案内 03
ちょうど着替えが終わる頃に、部屋のドアが叩かれた。
「なんですか」
はドアを開ける。
すると黒いズボンにYシャツの須根が「阿郷さんに挨拶に行こう」と言った。
確かに、見ず知らずの自分達にここまでしてくれているのだ。
も踝を通してでなく、直接お礼を言いたいと思っていた。
「これからね、ホールで夕食会をするそうだよ」
「ホ、ホールですか・・・」
客室だけでなくホールまであるとは、別荘の域を超えている。
「え、まさかそこに乱入するつもりじゃ」
「大丈夫、踝さんにぜひ、と言われたんだ。阿郷さんが僕らに会いたいらしくてね」
「そう・・・なんですか」
改めて会いたいなどと言われると恐縮してしまう。
なんだかお偉いさんにお目通りを許された平民の気分だ。まぁ、平民の点は合っているのだが。
「あ、でも、夕食会、てことは他にも誰かいらっしゃるってことですよね」
「なんでも阿郷さんは野鳥の会の会長さんらしくてね。この山、芦浦山(あしうらやま)ていうらしいんだけど、
阿郷さんのもので、主にここで野鳥観察をしているそうなんだよ」
「うっわー、ただものじゃないと思ってたけど、まさかこんな大きな山まで持っているんですか。
つまり、その野鳥の会の皆さんがお集まりだ、と」
「そういうことだね」
「へぇ〜。・・・にしても、須根さんの情報収集力はすさまじいですね」
こんな短時間に、とは付け加える。一種の職業病なのだろうか。
「まぁね」
と、須根は自慢げにうなずいて見せた。
「それから踝さんのご実家は昔、この辺りだったらしい。年は今年で73歳になられるそうだ。東京に二人の
娘さんがいらして、奥さんとは10年前に離婚、未だに離婚調停中だそうだ。慰謝料を二千万要求されている
らしい。まぁ、踝さんの方が勝ちそうだけど」
「うわぁ・・・恐ろしい情報収集力ですね・・・」
というか、そんなことまで話すなよ踝さん。
須根はますます調子に乗る。誉められたととったのか。
「この屋敷は、阿郷さんの別荘だそうだけど、普段はホテルみたいに客室を貸し出したりもしているらしいよ。
そしてちなみに君の部屋は汚い。もう少し片付けた方が良いな」
「なんで知ってるんですか!放っておいてくださいよ!!」
ほんとに怖い収集力。いや、収集力の問題か、これは。
後ろからに揺さぶられて、須根は残り数段の階段を落ちるように飛び降りた。
「あ・・・危ないじゃないか」
「いっそ落ちたら良いんですよ。それに階段の2段や3段危なくありません」
「きみは階段の恐ろしさを知らないね・・・?!」
「ああ、おいでになりましたね」
今まさに階段の恐ろしさについて語ろうとしていた須根を、踝が遮った。
でかした踝さん、とは人知れず拍手を送る。
「では、どうぞごゆっくり」
踝は重そうな、そしていかにも高級感漂う扉を開けて、二人を中に案内した。
細かい刺繍の入ったじゅうたん、大きなシャンデリアに、大理石の壁。
いくつか並べられたテーブルの上には、たくさんのオードブルが乗っていた。
すでに集まっていた客達はワイングラスを片手に、それぞれ好きなものを取って食べている。
人数にして五人ほどしかいなかった。
(しかしなんだこのセレブな野鳥の会は!!)
は思い切り引いてしまった。そして自分達が場違いな気がしてまた恐縮する。
「おや、これで全員が揃ったようだね。それでは、改めて乾杯をしようじゃないか!」
阿郷と思しき人物が赤ワインの入ったグラスを高らかと掲げる。
と須根も使用人からグラスを渡され、とまどいながらもそれを掲げた。
「今日はこの野鳥の会五周年と、突然の素敵な訪問者との出会いに、乾杯!」
「乾杯!」
全員の声がそろうと、綺麗なクラシックがホールに流れた。
「ちょっと音うるさいなぁ・・・」
はスピーカーを一度睨んでから視線を元に戻した。
「やぁ、こんな雨の中、そぞかし大変だっただろう」
「あなたが、阿郷さん・・・」
が呟くと、阿郷はそれを聞き取ってにっこりと笑った。
恰幅の良い、いかにも金持ち、という風格である。少しはげた頭と目元にふかく刻まれたしわを見ると、
50代半ばくらいだろうか。
須根が横から小声で「53歳だって」と耳打ちする。
踝さん・・・と情報提供者であろうおしゃべりな彼を心に思い描いた。
「おお、これは。私は阿郷剛志。この屋敷の主人です」
「須根と申します。この度は助けていただいた上に、このように良くしていただいてお礼の申し上げようがありません」
「まぁまぁ、困ったときはお互い様。ゆっくりしていってください。そちらのお嬢さんは」
「あ、私はです。本当に助かりました、ありがとうございます」
があわてて頭を下げると、かえってその焦りようが可愛く映ったのか、阿郷は少し笑いながら「いいえ」と答えた。
「しかし、この辺は複雑な道が続いてますからなぁ。迷われる方が多いのですわ。お二人は・・・ご旅行かな?」
意味ありげな視線を二人に向けると、はその意味に気付いて慌てて否定した。
「1人旅行のはずでしたが、非常識な上司と偶然か作為的か、明野駅でばったり出会ってしまって、
そのまま車に乗せられた途端迷われたんです!!」
「はっはっは、作為的だなんて・・・は勘が鋭いなぁ」
否定しないのか。
どう考えても作為的だ、との胃はまたキリキリしだした。
「面白い子ですな。まぁ、旅行のつもりだと思って楽しんでいってもらえれば何より、
料理もどんどん運ぶので遠慮せずにあがってください」
その言葉にが礼を述べようとすると、阿郷は何かに気付いたのか、何かを思い出したのか、そんなそぶりをしてから、
ちょっと失礼、とに言った。
「皆さん、私はちょっと空けますが、どうぞごゆっくり」
そう言ってホールを後にした。
それが一同が彼を見た最後だ。
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