≪赤い糸、この指とまれ≫
二話



 木陰のベンチに寝転がっている酔っ払いは、やきもきする達也をよそにいつまで経っても目覚めなかった。

 散乱した空き缶を片付け終え、手持ち無沙汰になった達也は「そういえば」と疑問を頭に浮かべた。

 この赤い糸は、自分だけでなく彼にも見えているんだろうか。明らかに他人には見えていないようだったが、当事者同士なら可能性はある。

 そう考えると、彼がどんな反応をするのか気になった。

(よし。起こしてしまえ)

 目覚めを待つのがじれったくて、達也はそっと彼の肩を揺さぶった。


「風邪引きますよ。起きて下さい」


 何度か揺さぶるうちに、まぶたにぎゅっと力が入り、次にそうっと瞳が覗く。


「おはようございます」


 水野は、真上にある達也の姿を不思議そうに見つめていた。

 達也がかけてやった眼鏡越しでも見えていないかのようにぼんやりしている。パチパチと瞬きを繰り返す様子に、胸を擽られた。

 寝ぼけ眼がかわいい。ものすごく、かわいい。

(ん? かわいい? おっさんにかわいいはないか)

 水野はようやく身体を起こした。胸に抱いた鞄を確かめ、それからゆっくりと周囲を見渡す。


「っ……いたた……」


 こめかみに手を当て、眉間に皺を寄せている。二日酔いで頭が痛むのかもしれない。


「飲みます?」


 近くの自販機で買っておいたミネラルウォーターを差し出すと、水野はうろんげにこちらを見た。


「新品です。どうぞ」


 起きぬけに水を飲みたくなるだろうと思ってわざわざ買った。水野は少しためらっていたようだったが、「ありがとう」と小さく礼を言って受け取った。

 水野は、キャップの蓋を握ったまましばらく動かなかった。手にうまく力が入らないのか、腕がプルプルしている。開けましょうかと言いかけた頃、パキッと蓋が開いた音がした。

 水野は、ペットボトルを逆さまにして、空を仰いでごくごくと飲み続けた。すごい飲みっぷりだと呆気に取られる達也をよそに、一気に飲み干した水野は大きな息を吐いた。


「生き返った……」


 口端から零れた水を手の甲で拭い、目をつむって脱力している。

 典型的な酔っ払いだ。思わず噴き出してしまいそうになるのをぐっと堪えた。

 この人、なんかかわいい。おっさんなのに、ベンチで寝てしまうような酔っ払いなのに。

 また寝てしまったんじゃないだろうかと思うほど俯いたまま動かなかった水野は、隣にいる達也の存在を思い出したのか、ゆっくりと顔を上げた。


「君、なに」


 気だるそうな声で問われて、どきりとした。

 なにとは一体なにを聞きたいんだろう。

 そういえば、達也は一方的に水野を知っていたが、水野は自分を知らないかもしれない。勤め先が同じでも、一度も話をしたことがないのだ。

 まずは名乗ろうかと思ったが、やめた。いくら部署が違えど同じ社の者。よれよれの姿を達也に見られるのは、水野にとって不本意かもしれない。


「俺はこれを追って。そしたらここに」


 達也は右手小指を立てた。

 水野は一度小指を見て、それからまた達也に視線を戻した。


「奥さんを? 見つかったの?」

「へ?」


 もしや小指を立てる仕草で誤解されているんじゃと気付いて、慌てて否定した。


「いやいや違って。これですよ、これ」


 小指をずいっと突きつける。

 水野は眼鏡のテンプルを摘んで、顔を近づけた。眉間に皺を寄せながら目を細め、じぃっと見つめている。


「君の小指はちゃんとついているように見えるが」

「違います! 赤い糸ですよ。ほら、ここのとこ」

「……」

「しっかり見てください。赤い糸が三重に括られてるでしょ」

「……」


 水野は終始困惑顔だ。

 一度眼鏡をはずし、両眼の付け根を指でよく揉んで、また眼鏡をかけた。

 再び小指を見る。表情はさきほどと少しも変わらず、完全に困りきっている。

(うそだろ……。俺だけ?)

 まさか水野にも見えていないとは思わなくて、達也は愕然とした。


「……今、俺のこと変な奴だと思ってるでしょ」

「まあ……端的にいえば」


 水野は、申し訳なさそうに答えた。

 達也はおもむろに水野の左手を掴む。達也の右手と水野の左手の間で、赤い糸がふわりと揺れた。


「あなたの左手の小指にも赤い糸が括られてるんです。で、それが俺と繋がってるんです。俺はこの糸を追って、そしたらここに辿り着いて」


 力説すればするほど、水野はポカンとした表情だ。

 少しの沈黙のあと、水野は落ち着き払った声音で言った。


「君は、その……。仕事はいいのか?」

「はい?」

「スーツ姿だから」

「ああ、今仕事帰りですよ。徹夜だったんでね」


 話を逸らされたことに苛々して、口調がぶっきらぼうになる。


「だったら、早く家に帰って休むといい。ゆっくり寝て、目が覚めたら君の小指はただの小指になっているよ」


 信じてもらえていないうえに、諭すように言われてカッとした。


「携帯、貸して下さい」


 達也は低い声を出した。


「携帯!」


 有無を言わさぬ様子の達也に気圧されたのか、水野は通勤鞄から携帯電話を取り出した。

 半ばひったくるようにして受け取り、自身の携帯電話も内ポケットから取り出す。二つを操作し、数分とかからないうちにフラップを閉じると水野に突っ返した。


「あなたのアドレスもらって、俺のも入れときました。帰って寝て、起きてからメールします」


 寝不足と疲労に予想外な出来事が重なり、頭の中はごっちゃになっている。確かに水野の言う通り、心ゆくまで寝てみるべきだ。そして、スッキリとした頭であらためて赤い糸と向き合うべきだ。


「それでもまだ見えてたら、覚悟して下さいね」


 妙な捨て台詞を残して、達也は水野に背を向け公園からほど近い自宅アパートを目指した。





2011.07.05UP 仙崎 澪





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