二話 木陰のベンチに寝転がっている酔っ払いは、やきもきする達也をよそにいつまで経っても目覚めなかった。 散乱した空き缶を片付け終え、手持ち無沙汰になった達也は「そういえば」と疑問を頭に浮かべた。 この赤い糸は、自分だけでなく彼にも見えているんだろうか。明らかに他人には見えていないようだったが、当事者同士なら可能性はある。 そう考えると、彼がどんな反応をするのか気になった。 (よし。起こしてしまえ) 目覚めを待つのがじれったくて、達也はそっと彼の肩を揺さぶった。
達也がかけてやった眼鏡越しでも見えていないかのようにぼんやりしている。パチパチと瞬きを繰り返す様子に、胸を擽られた。 寝ぼけ眼がかわいい。ものすごく、かわいい。 (ん? かわいい? おっさんにかわいいはないか) 水野はようやく身体を起こした。胸に抱いた鞄を確かめ、それからゆっくりと周囲を見渡す。
水野は、キャップの蓋を握ったまましばらく動かなかった。手にうまく力が入らないのか、腕がプルプルしている。開けましょうかと言いかけた頃、パキッと蓋が開いた音がした。 水野は、ペットボトルを逆さまにして、空を仰いでごくごくと飲み続けた。すごい飲みっぷりだと呆気に取られる達也をよそに、一気に飲み干した水野は大きな息を吐いた。
典型的な酔っ払いだ。思わず噴き出してしまいそうになるのをぐっと堪えた。 この人、なんかかわいい。おっさんなのに、ベンチで寝てしまうような酔っ払いなのに。 また寝てしまったんじゃないだろうかと思うほど俯いたまま動かなかった水野は、隣にいる達也の存在を思い出したのか、ゆっくりと顔を上げた。
なにとは一体なにを聞きたいんだろう。 そういえば、達也は一方的に水野を知っていたが、水野は自分を知らないかもしれない。勤め先が同じでも、一度も話をしたことがないのだ。 まずは名乗ろうかと思ったが、やめた。いくら部署が違えど同じ社の者。よれよれの姿を達也に見られるのは、水野にとって不本意かもしれない。
水野は一度小指を見て、それからまた達也に視線を戻した。
「へ?」
水野は眼鏡のテンプルを摘んで、顔を近づけた。眉間に皺を寄せながら目を細め、じぃっと見つめている。
「違います! 赤い糸ですよ。ほら、ここのとこ」 「……」 「しっかり見てください。赤い糸が三重に括られてるでしょ」 「……」
一度眼鏡をはずし、両眼の付け根を指でよく揉んで、また眼鏡をかけた。 再び小指を見る。表情はさきほどと少しも変わらず、完全に困りきっている。 (うそだろ……。俺だけ?) まさか水野にも見えていないとは思わなくて、達也は愕然とした。
「まあ……端的にいえば」
達也はおもむろに水野の左手を掴む。達也の右手と水野の左手の間で、赤い糸がふわりと揺れた。
少しの沈黙のあと、水野は落ち着き払った声音で言った。
「はい?」 「スーツ姿だから」 「ああ、今仕事帰りですよ。徹夜だったんでね」
半ばひったくるようにして受け取り、自身の携帯電話も内ポケットから取り出す。二つを操作し、数分とかからないうちにフラップを閉じると水野に突っ返した。
2011.07.05UP 仙崎 澪 |