≪赤い糸、この指とまれ≫
一話



 朝日が徹夜明けの目に沁みる。

 だるい身体を引き摺りながらホームに降り立った森永達也(もりながたつや)は、屋根の隙間から覗く白い光に目を眇めた。ついこの間まで寒かったような気がしていたが、日差しはすっかり初夏のそれだ。社会人になってから二年目の夏を迎えようとしている。

(いい天気だなー。帰ってから寝るのもったいねぇ)

 たとえもったいなくとも、彼女がいるわけでもない達也にとって、土曜の朝は寝る以外にすることもない。

 言ってみただけ、と自分にむなしい言い訳をして、がくりと肩を落とした。

 朝の七時。平日でなくとも、都会はいつだって人口過多だ。スーツ姿の男女に代わり、今朝は旅行客が多い。

 俺も一人旅でもしようかな。頭の隅でとりとめもなく考えながら、一人暮らしのアパート目指して駅構内を歩く。

 一人ぶらり温泉旅もいいし、一人B級グルメ食いつくしツアーもいいし……。

(一人は気楽でいいからな。気ぃ遣わなくて済むし)

 決して独身男の強がりなんかじゃない。

 彼女だって、出来ないわけじゃないのだ。あえて作らないだけなのだ。

 言い訳をすればするほどむなしくなって、はぁっと重々しい溜息が零れた。

 その時、妙なものが達也の目に飛び込んできた。

 キャリーバッグを引きながら歩く大勢の人の波。その中に、微かに発光した赤い線が一本、ふよふよと浮いている。

 寝不足の目を瞬かせながら糸の行方を目で追う。一方は駅のずっと向こうまで伸びていて、もう一方はわりと近そうだった。

(んんっ?)

 それが自分の右手の小指に行き着いた時、達也は立ち止まった。手を目の前に翳し、ためつすがめつ眺める。

 赤いそれは、右手小指の第二間接あたりで三重に括りつけられていた。左手で触れてみたが、さわっている感覚が全くない。

 まるであれだ。レーザー光線だ。違いといえば、直線ではなくくねくねと曲がっていることくらいだ。

(疲れてんのか俺)

 手をぶんぶん振り回すと、糸は動きにあわせて揺れる。むきになって猫が毛糸にじゃれつくみたいに格闘していると、周囲に奇異な目で見られていることに気づいてハタと動きを止めた。

 周りにはこの糸が見えていない。だとすれば、考えられるのは二つだ。

 一つは、疲労からくる幻覚。

 そしてもう一つは――。

(運命の赤い糸……。だから俺にしか見えない)

 なーんてな、と自分に突っ込みを入れながら、寝不足でハイになった頭は自分で立てた二つ目の仮説を簡単に信じつつあった。

 反対側の赤い糸は、駅のずっと向こうに伸びている。この糸が一体どこに繋がっているのか、気になる。

(赤い糸を探す……最高の一人旅だ)

 こんなワクワク感は久し振りだ。

 好奇心が寝不足より勝って、達也は誘われるように糸の行方を追っていった。







 駅を出て繁華街を抜けると、一気に人通りは少なくなる。この時間から開いている店はモーニングをやっている喫茶店くらいで、住宅街に差し掛かるとさらに辺りはシンとしている。

(旅……というには地元すぎるだろ)

 赤い糸は、達也のアパートの方向へ続いていた。このままいくと旅のゴールは俺んちか? と悲しいオチを想像しはじめた頃、糸は近所の公園で折れ曲がった。

 朝の早い時間。公園には、犬を連れた人がちらほらいる。

 糸は、遊具のある中央広場で止まっている。達也は、広場へ続く遊歩道から逸れ、木立ちの間を縫って糸の終着点であるベンチへ歩いて行った。

 丈の短い草が朝露を蓄えてきらきらと輝いている。草を踏みしめると、革靴がきゅっきゅっと音を立てた。

 慎重に歩を進め、後ろからベンチに近付いて行く。

 上着らしきものがベンチの背もたれにかかっているのが見えて、ドキっとした。

 誰かいる。

 ベンチの手前で立ち止まり、深呼吸した。その昔、好きな子に告白した時のようなドキドキ感で胸がいっぱいになる。

(うぉ……やっべぇ、こういう感覚久し振り)

 目を瞑って、ゆっくりとベンチの前に回る。

 いちにのさんで目を開けて、正面から運命の人を見た。

(……ん? んんっ?)

 達也は思わず、コントのような二度見をした。

 ベンチには、スーツ姿のくたびれたオヤジが横になっている。

 バッグを胸に抱きしめて気持ち良さそうに眠っている男の周辺には、中身の空いた缶ビールが数本転がっていた。

 どこからどう見ても、酔っ払ってベンチで朝を迎えたサラリーマンだった。

(あれ、この人……)

 達也は、彼に見覚えがあった。咄嗟に名前は出てこないが、知っている。

 記憶の助けにならないかと周囲を見渡していると、空き缶に混ざって眼鏡が落ちていた。

 拾い上げ、そっと持ち主にかけてやる。

 きつく閉じられた双眸。乱れた髪は額にかかり、くたびれた感がさらに増している。

 どこか幼げに見えるのは寝顔があどけないだけで、普段の彼はそうではない。髪をしっかりと後ろに撫でつけ、帳面と電卓相手に黙々と仕事をこなす、同じ会社で他部署の――。

(アームカバーの人だ)

 銀縁眼鏡と黒いアームカバーがトレードマークの経理課長だった。

(名前、なんだっけ。水島、水谷……、水野だ。水野課長)

 ネクタイはだらしなくほどけかけていて、ワイシャツのボタンは上から三つもはずれている。

 この人がこんなグダグダな様子になっているのが意外だ。よく知りもしない他部署の人間なのに、何故かそんな風に思う。


「どうすっかなー」


 達也はワシワシと頭を掻いた。

 赤い糸の相手は男だった。

 そのうえ、自分の父親くらいの年のおっさんだ。

(でも……)

 自分の右手と彼の左手を交互に見る。

 運命の赤い糸は、確かに彼と繋がっている。

 達也はベンチの端に腰かけた。

 とりあえず、彼が起きるまで待ってみよう。それからのことは、その時次第だ。





2011.07.02UP 仙崎 澪





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