エブラーナの王子が行方をくらました。
城はもぬけの殻で、エブラーナの民は近くの洞窟に避難している。しかし部下によれば、そこに王子の姿はないらしい。
ゴルベーザ様に「エブラーナの城と民を消せ」と命じられて攻撃をし始めてから、一週間が経過している。
王と王妃が死んで王子と僅な民だけとなった今、エブラーナの落城は既に目前に迫っていた。
「王子は…国を、民を見捨てたのか?」
私は部下の男に問うた。
元はバロンの兵士だったという、ゴルベーザ様に操られ、死んだような目をした男だ。
男は淡々と話し続ける。
「実直で情に厚い男だと聞いております。そんなことをする男とは到底思えません」
成る程。逃げたわけではないとすれば、答えは一つだ。
王子はこちらに攻撃を仕掛けるつもりなのだろう…しかも、単身で。
愚かな男だ。両親の仇でも討つつもりか。
人間は愚かな生き物だ。感情に振り回され、すぐに我を見失う。
「…まあいい、放っておけ。たった一人では何もできまい」
返事をして部屋から出ていく部下を見送ってから、排気孔をちらと見やった。天井の隅に這わされた大きめの風導管に、先程から何者かが気配を殺して潜んでいる。
「…いつまでそうしているつもりかな?」
人間の臭いが鼻をつく。
「そこに居るんだろう?エブラーナの王子」
咄嗟に傾けた首のすぐ側を、何やら尖ったものがびゅうと掠めていった。
覚えのある感覚に、笑いが込み上げる。
「そういえば、エブラーナ王も同じ場所を狙ってきたな」
音をたてて短刀が地面に突き刺さった。
「ルビカンテッ!俺と勝負しろ!」
通気孔から飛び降りてきた男がマントをはためかせて、斬りかかってきた。切っ先が頬を撫でていく。
「ファイラ!」
掌に力を込め、男に放つ。くるりと身軽に炎を避けると、男は再び刀を振るう。男の瞳に宿る憎悪が、一直線に私の瞳を射抜いた。
真っ直ぐで迷いの無い瞳だ。
こういう目は、嫌いではなかった。
「よくも、親父とお袋を!」
威力はあまり無いのだが、とにかく男は素早かった。二振の刀が急所を狙って、幾度となく私の体すれすれを流れていく。
「火遁!」
声と共に部屋に火柱が立ち上り、その炎が私の体を包む。それは私にとって、酷く心地良い炎だった。
「何だ、その哀れな術は」
男の顔(もっとも、布によって半分しか見えていないのだが)に初めて怯えの色が透けて見えた。
「炎はこうして使うものだ!」
巻き上がった炎が、男の体を宙に浮かせる。熱風が部屋に充満し、次の瞬間、彼は地面に叩きつけられていた。
焦げた服が、煙をあげている。
私は俯せに倒れた彼に歩み寄ると、その顎を指先で持ち上げた。焼けてしまった布が顔から、はら、と舞い落ちる。
敵地に単身で忍び込むような男だ、余程精悍な顔つきをしているのだろうと思っていたのに。そこに在ったのは、決して派手ではないが整った造作のそれだった。
瀕死でありながらも衰えない力強い瞳に、何故か吸い込まれそうな心持ちになる。
きつい目をしているくせにその瞳は大きく、光に充ちていた。
は、は、と荒い息を吐きながら、彼はただ一言、殺してやる、と呟く。
「いつでも相手になるぞ……この場から逃げることができるなら、な」
男は意識を失いそうになったらしく、がくりと頭を垂れる。が、それはほんの一時のことで、次の瞬間には、にっ、と口角を上げてこちらを見上げていた。
……体が、動かない。
男がゆるゆると立ち上がる。
「…影縛りだ…」
独り言じみた言い方で、男は言う。
「…汚ねぇ遣り口だと…思うか…?」
流れ出した血が、床に点々と跡を残した。
「でもこれ……が、忍びである俺達の戦い方だからな…っ」
どこにそんな力が残っていたのか、彼は落ちていた一振の刀を拾い上げると、構えの体勢をとった。
膝の震えが見てとれる。
しゃがみこんだ私の頭上めがけて、素早く刀身が振り下ろされる。
「…甘い」
呆然とした男の顔に一瞥をくれると、刀を素手で受け止めた。
「そ、んな」
握った手から血が流れ出す。腹に拳を叩き込むと、血塗れた刀の向こうで男が膝を折り、倒れていくのが見えた。
手を開けば、からん、と刀が地面に落ちる。
男の術は一瞬しか私の体を縛りつけておくことができなかったのだ。
酷く非力で、愚かな男だ。
確かに人間にしては出来る方なのかもしれないが…勇気と無茶は別物だというのに。
指を伸ばし、男の銀髪に触れた。
後ろ頭は小さく、掌にすっぽりと収まってしまう。このまま力を入れれば簡単に命を奪うことができるだろう。
ここで私はこの男を殺し、エブラーナの民達を焼き滅ぼす。
何ということはない、それで終わりだ。
そう思うのに、手を下すことができない。
腕に力を込めようとする度、猛火のように激しい瞳が脳裏を過る。何故だろう、惜しい、と思った。
なくすには惜しい、と。
男を抱き上げる。
だらり、と彼の首が仰け反り、そこから目を逸らすことができずに私は強く瞼を閉じた。
「生かしておく?エブラーナの王子をか」
ゴルベーザ様が、笑いを含んだ口調でこちらに問いかける。
彼の玉座の前で膝まずきながら、私は答えた。
「はい。私は傷の癒えた彼と、もう一度正々堂々と戦いたいのです。意識を失った男に止めをさすことは、私にはできませんでした。…申し訳ありません」
失うのは惜しいと思ったのも本心であったが、意識を持たない者に手をかけることを嫌う気持ちもまた、本心だった。
主は表情の見えないままに、くつくつと喉の奥で笑う。
「珍しいこともあるものだ。確かにお前は卑怯な手を嫌う方だが、私の命令に背くことなど今まで一度もなかったというのに」
「申し訳、ありません。しかし、命令に背くつもりは…」
「まあいい。ならば、五日間猶予をやろう。その間に殺せ」
五日間。
ぞくりと背を寒気が走った。
「五日間決着をつけられない場合は、ルゲイエに殺らせる。分かったな?」
「…はっ」
頭を下げ、踵を返す。
結果は見えている。私は王子をこの手で殺すことになるだろう。ルゲイエの手にはかけさせたくない。醜いモンスターに改造されるだけだ。
ならばいっそ、私の手で。
そうして部屋を出ようとした私に、主が低く呟く。
「人間に執着しても、良いことなど何も無い」
部屋に沈黙が訪れた。
主の言う『人間』とは誰のことなのか、おおよその検討はつく。あの竜騎士のことを言っているのだろう。
主が異常な程に執着して、手元に置きたがっていた金髪の男だ。結局、セシル達の所へ行ってしまったが。
何か主に問おうとも思ったが、あの竜騎士のこととなると見境がなくなる主だったと思い出し、藪蛇にならないうちにと頭を下げ、退室する。
扉が閉まると同時に、私は大きなため息をついていた。
五日のうちに彼を殺さねばならない。彼の傷は殆んど癒えている。今すぐに再戦することも可能だろう。
しかし、ぎりぎりまで彼を失いたくないという気持ちが、頭を占領する。
それならば、五日目に殺ればいい。
殺すことにはかわりないのにと思いつつ、私は自室へと歩みを進めた。
男は、拘束して牢に入れてある。
部下のモンスターを一体見張りにつけ、手首には拘束を、忍術対策にサイレスを施した。念の為に、牢の音はこちらに聞こえるようにしてある。ルゲイエが作った通信装置だった。
席について、部下からの報告書に目を通す。
束になったそれを読みながらも、耳はどうしても通信装置に集中してしまう。通信装置は黙りこくったまま、何の音も拾わなかった。
ルゲイエめ、まさか不良品ではあるまいな。
心の中で悪態をつきながら報告書を読み小一時間経った頃だろうか。男の声が通信装置から聞こえてきた。
『…なあ……こっち向けよ』
彼の声を聞いた途端、胸が大きく跳ねた。
『おい、聞いてんのか、おい!』
暴れているのだろう、金属製の鎖が喧しい音をたてている。ちいっと舌打ちが聞こえた。
モンスターに言葉は通じるが、見張りをしているモンスターは低級なものなので、会話することができない。
王子が何をしようとしているのか、私にはよく分からなかった。
『…モンスターもさ、セックスしたりすんだろ?』
思わず私は息を詰めた。
『やんねぇの?…………だろ?やるよな?』
部下が彼の方を向いたらしい。
あまりに唐突な彼の会話に目眩を覚える。一体何だというんだ。
身を捩っているか何かだろう、金属音がしきりに響く。
『セックスって気持ちいいよな』
部下は話せないので、当然の如く返事はなかった。
『今までに何回、した?』
彼の声だけが牢内に響き渡る。
馬鹿に明るい調子の声だった。
『気持ち良かったんだろ?なあ』
語尾に笑いが混じる。
『いいよな。こう…あー、モンスターはまた違うのかもしんねぇけどよ。中は温かくてぎゅうっと締め付けてきてさ…なあ?』
『おめぇ、知ってるか?モンスターより人間の方が、体温が高いらしいぜ』
牢の格子と何かがぶつかる、かあん、という特徴的な音が聞こえた。
王子がそこに触れられる筈はない。となればそこに触れたのは、部下ということになる。
『おめぇ、俺とセックスしてみねえ?』
彼の不遜な笑みが見えた…ような気がした。
カチャカチャとスイッチを弄くる音が聞こえてくる。続いて響く風のような音が、扉が開いたこと――つまり部下が扉を開けたということを伝えてきた。
誘いに乗るつもりらしい。
男は何を考えているのだろう。
『ほら…来い』
部下がそれに答えて獣臭く唸った。彼の肌の上を淫らに這い回る部下の浅黒い手を想像して、思わず歯の奥をぎりりと噛み締める。
さっさと部下を止めなければならない。
鳥の卵程の大きさの通信装置を手に取り、私は部屋を出て牢に向かおうとする。
私が部屋から出ると同時に、
『そっちじゃねぇよ、馬鹿』
という声が聞こえてくる。
荒い息遣いがこだまし、液体が床に滴る音がした。
『…ん……人間のセックスは…キスから始めるのが普通なんだよ……』
歩みを進める。私は何故こんなに苛立っているんだ。
馬鹿なことをする王子に苛立っているんだろうか。それとも。
『……ふ……ぅ、ん』
ぴちゃり。粘膜同士が触れ合う響きが耳に届く。
普段から熱い体が更に熱を持ったように感じられ、それを振り払う為に首を振った。
エレベーターに乗り、地下に向かう。漸く牢の扉が見えてきた。
『ふ……っ…あぁ…』
苛立ちがおさまらない。
私は部下に苛立たなければならないはずだ。なのに、私は確かに男に対して腹を立てていた。
「この……っ!」
行き過ぎた苛立ちに、文句さえも出てこない。手に力を込めると、通信装置は壊れてしまった。表面は溶け、中は配線らしきものがばらばらになってしまっている。これではもう使い物にならない。
忌々しい気分のままそれを壁に投げつけ、扉を開いた。
薄暗い部屋だ。格子の向こうで部下が男にのし掛かっている姿が見える。男は立ったまま両手首を纏められ壁に磔られていて、二回り程も体格差のあるオーガに覆い被さられていた。
何をしている。
叱咤の声は、しかし、私の口から発せられることはなかった。
言うより早く、部下がゆっくりと男の足元に崩折れたからだ。部下はピクピクと体を震わせていたが、血と泡を吐いてそれっきり動かなくなる。
どうやら絶命したらしかった。
「…んだ、もう来たのかよ。それともまさか覗いてたのか?ヘンタイ」
男の顎から唾液らしきものが滴る。いや、最初は唾液だと思ったのだが、やけに白くて粘着質な液体だった。…唾液ではないかもしれない。
「部下に何をした?」
そう問いながらも男の口元に視線が行ってしまう。彼もそれに気が付いたのだろう。にやりと唇に笑みを浮かべた。
「…キスしかしてねえよ」
途端、男の両手首をきつく縛り上げていた金属製のロープがほどけ、床に舞う。
「……!」
男は口元を拭うと、こちらに一直線に駆けてきた。ほの暗いライトに照らされた瞳が、ちらと光る。凛としたその輝きに目を奪われ、息が詰まった。
男を取り押さえようと、右手を伸ばす。男はそれをひょいとしゃがんでかわし、
「おめぇは図体がでかい分、おせえんだよ」
囁くような声で言うと、脇の下をすり抜けた。
慌てて振り向くが、既に彼の姿は遠くなってしまっていて、魔法も届きそうにない。
追いかければ捕らえることができるかもしれない。そう思うのに、何故か私にはそうすることができなかった。
無事に逃げて生き延びてほしい。
きっとあの真っ直ぐな男は、また私に攻撃を仕掛けてくるに違いない。
両親の仇を討つ為に、私の前に現れる筈だ。
格子の向こうに視線をやると、醜態を晒して死んでいる部下の姿が目に入った。近づいて顔を覗き込む。吐かれた血に混じって、先程の白い液体が幾らか跡を残していた。
ルゲイエに調べさせるか。
そう考えながら、私は自分の心の奥に兆す思いに気が付き始めていた。
●
牢に放り込まれる前に口の中を調べられなかったのは、幸運だった。
まさかこんなところであれが役に立つなんて、思ってもみなかったけれど。
モンスターとキスをしなければならないのは痛かったが、とにかく逃げられて良かった。大きめの風導管の中で体を休めながら溜め息をつく。
口の中に残る苦味は、仕込んであった薬のものだ。
上顎に貼り付けていた薬を、モンスターの口に流し込んでやった。気持ち悪かったが、あれしかないと思った。
エブラーナの人間は幼い頃に慣らされる類いの毒薬だから、こちらは痛くも痒くもない。
モンスターは快楽に弱いと聞いていたから、誘えばのってくると予想しての行為だった。ただ、ルビカンテが直ぐにやって来たのは予想外だったが。
外傷はないかと身体中を探せば、縛られていた手首が真っ赤に擦れている。
上手くいって良かった。下手くそな縛り方だったから、逃げることができたのだ。勿論、縛られる時に少し細工したことが一番大きいのだけれど。
さてこれからどうするか。
先ずはここから出て、体を回復させてからまたこの塔に戻ってくる。そうしてルビカンテとまた戦う。
今度こそ殺されるかもしれない。しかし、それでも戦わなければいけない、と思った。
例え刺し違えてでも、親父とお袋の仇をとりたい。
身を起こし、四つん這いの格好で菅の中を進み始める。風導管は建物中に通じているから、何らかの出口に辿り着ける筈だ。
突然、びぃびぃと耳障りな電子音が辺りに鳴り響いた。
『侵入者、発見。侵入者、発見』
見つかった。
侵入者というか脱走者だろうと突っ込みたくなったが、それどころではない。這う速さをあげて出口を求めた。
得物を取り上げられて丸腰の今、見つかるわけにはいかなかった。
カツカツ、と前後から金属音がこだましてくる。生物では有り得ない程正確に刻まれるリズムに、何らかの機械が近づいてきていると分かる。
挟まれては元も子もない。ぐるりと辺りを見渡し、部屋へ続く穴らしきものを見つけた。
このままここに居ても、捕まるだけだ。
そう考えて、網目状のフェンスが張られた蓋をスライドさせると、迷わず飛び降りた。飛び降りざま、手を伸ばして指先で蓋を閉めることも忘れない。
「…よっ、と」
思ったよりも高さがあった。床に膝をついて着地する。
泡のような音がした。
無数の泡の音。ぽこり、ぽこり、と絶え間なく響く、泡の音。
それは真後ろから、間近くから、嘲笑うように耳をなぶっていく。
嫌な予感がした。振り向きたくないと思った。ごくりと固唾を飲む。
自分を叱咤して、目を閉じ、ゆっくりと振り向いた。
薄く目蓋を開く。
目前にあったのは、天井に届くほど巨大な、筒状のガラスだった。中には水色の液体がなみなみと張られ、沢山の泡が揺れている。
泡に揺すられるように蛇に似た生き物が浮動していた。姿形は、向こうを向いていてよく分からない。
あれは何だろう、という自分の思いが伝わったのだろうか。
緩慢な動きで、蛇の頭部がこちらを向いた。
「……ひ…っ」
笛の音が喉から飛び出る。
―――お袋!
死んだ魚のように淀んだ瞳が、俺を見据えていた。