一. 少年




 粗末な宿だった。朽ちかけているせいで、扉は酷く重かった。
 ぎいぎい、という嫌な音をたてて扉が開くと、視界がひらけ、中の様子が露わになった。
 真っ暗闇の室内で、まず最初に感じたのは血の臭いだ。そして次に感じたのは、黴臭さに混じって漂う饐えた雄の臭いだった。
 一歩、足を踏み出す。滑った感触を足裏に感じた。
 中は酷い有様だった。
 地面に転がり、既に事切れている男が、一人、二人、三人。
 そして視線を上げた先にあるベッドの上にも、一人。ベッドの上で仰向けになって死んでいる男は裸で、一人の少年が、その体の上に血に塗れて跨っていた。
「……ゴルベーザ様…………」
 呼ぶと、彼は漸くこちらを向いた。ぼんやりとした瞳の色が、徐々にはっきりと定まっていった。
「――また、迎えに来たの?」
「……はい」
 茶色の髪が、血で固まっている。白い肌も血で汚れ、裸の彼の体はどこもかしこも血塗れだった。
 彼を抱き上げようと、脇の下に手を差し入れる。そのまま持ち上げると、「う、ぅ……っ」と彼は小さく身を捩り、熱い息を吐き出した。
 ぼたり、ぼたり。彼の下肢を、白い液体が伝って零れた。
『彼の中に男のものが入ったままだった』ということに気づき、私の心が喚き声をあげる。平静を装いつつ、私は彼を強く抱きしめた。
「……好きだって、言ってくれなかったんだ」
 死んだような声で、彼は呟く。生気のない、暗い声だった。
「気持ち良くしてあげたのに、誰も……僕に好きって……言ってくれなかった……」



 あどけない顔で眠る姿は、十四歳の少年そのものだ。
 私は彼の髪を梳き、柔らかいその場所にそっと口づけを落とした。
 ゴルベーザ様には、過去の記憶がない。
 初めて出会った時、彼は粗末な服を着て、酷く汚い身なりをしていた。

『ねえ、死んじゃうの?』

 あの時、薄汚れたローブの胸元をぎゅっと握りしめながら、彼は小さく呟いた。
 私は試練の山で倒れ、死に行こうとしていた。ぼやけた視界の中で見えたのは、宝石のように眩く輝く薄紫色の瞳だった。

『ねえ、助けてあげようか』

 モンスターだらけの試練の山を登ってきた筈なのに、彼は傷を負っていないようだった。
 彼は血に濡れた私の手を握り、地面に座り込んだ。

『ねえ、僕と一緒にいて。僕から……離れていかないで』

 彼の悲しい瞳の中に、彼の悲しい生活を見た。少年は疲れ、絶望していた。何にかは分からない。けれど、確かに絶望していた。
 空いている方の指先を伸ばし、彼の頬に触れた。赤黒い血があとを残す。硬かった表情を崩し、彼は微笑んだ。
 その後、私はルゲイエに改造されて、モンスターとなった。
 ゴルベーザ様に救われなければ、この命はなかったのだ。ならば、この少年のために、この命を使おう。
 そうして、ゴルベーザ様は私の全てとなった。

***

 ゴルベーザ様は、一人でいることを嫌う。『悪夢を見るのが怖いから、傍にいて』と言う。
 どんな悪夢なのかと問うてみれば、答えはいつも同じだ。
 真っ黒に塗り潰された女の顔が、襲いかかって来るのだという。『お前のせいで私は死んだ』と叫びながら、飛びかかってくるのだと。
 彼は悪夢を見た後、泣きじゃくりながら私のベッドに潜り込む。『誰か、助けて』と、祈るように呟く。思わず痩身を抱きしめると、彼は小さく溜息をつき、吸い込まれるようにして、眠りにつくのだった。


「ゴルベーザ様!また、街に行かれるのですか!」
「……うん」
 返事をしながら、彼は外套を羽織る。彼のために私が選んだ、臙脂色の外套だった。
 外は暗く、深夜といってもいい時間だ。この時間に彼が街に行ってすることといえば、一つしかなかった。
「ゴルベーザ様。いい加減このようなことは――」
「僕の体だ。僕の勝手だろ!」
 瞬間、ゴルベーザ様が小さくテレポを唱える声が聞こえ、彼の体が掻き消えた。
「ゴルベーザ様……」
 彼は愛情と性欲をはき違えている。週に一度はこうやって街に行き、老若男女を問わずベッドを共にし、気に入らない人間は魔法で殺してしまう。殺した人間の周りに数匹のモンスターを放っておけばモンスターに襲われたということになり、話はそれで終わるのだった。
 彼の容姿は華やかさこそないもののとても整っていて、少年らしさと大人っぽさが危うい均衡で存在している。あの可愛らしい雰囲気に吸い寄せられた人間は、あっという間に死体になってしまう。
 私が抱いてやれば、彼は街に行かなくなるのかもしれない。それでも『自分はモンスターなのだ』という意識が全てを阻んでいた。
 私の体は人間のものとは違うから、彼の体を傷つけてしまう可能性がある。そう考えるだけで、恐ろしくて堪らなくなる。
 人間らしい生活を捨てて生きていた彼に人間らしい生活を教えたのは、私だった。おかしな話だ。モンスターが人間らしさを語るなんて。
 彼を初めて見た時の、あの姿を思い出す。
 垢に塗れた肌と、砂や土にさらされて傷んだ髪。その髪は伸びきっていて、清潔感の欠片もなかった。痩せた手首は、今にも折れてしまいそうだった。
 ゾットの塔には湯浴みする場所もあるし、食べ物も、彼の力をもってすればいくらでも手に入るはずだ。なのに、彼は痩せこけていた。
 モンスターの体になって私が初めてしたことは、彼を清潔で健康な状態にすることだった。
 体を綺麗にしてやり、ルゲイエに買いに行かせた服を着せ、温かいミルクと赤ん坊用のお菓子――少しでも胃に優しいものを、と思った――を食べ終わってから、彼はようやく微笑んだのだった。

『……久しぶりだ。久しぶりに、ご飯がおいしい。服から、石鹸の匂いがして……まるで……誰だろう?誰の匂いなんだろう?』

 瞬間、何かが頭の中で鳴り、私は過去を振り返るのをやめた。
 きいきいと何かが喚いている。間違いない。思念波だった。
 不吉な予感がする。テレポを素早く唱え、私は街へ向かった。



 ゴルベーザ様がよく行く街を捜してみたのだが、彼は一向に見つからなかった。
 思念派が放たれている場所は近い。なのに、彼の姿はなかった。
 不安が胸を焦がす。ゴルベーザ様は強い魔力を持っているから大丈夫だ、と考えていた自分を恨めしく思った。

 ――ル、ビカン、テ。

 ゴルベーザ様。
 思念波が、今度ははっきりとした言葉をもって流れ込んできた。

 ――痛い、んだ。痛い。

 大木に登り下を眺め、彼を捜す。
 微かに、血の臭いがする。臭いを辿っていくと、彼がうつ伏せで地面に倒れているのが見えた。
「ゴルベーザ様……っ!」
 駆け寄ると、その肩がぴくりと動く。仰向けにすれば、彼の胸元は血塗れだった。回復魔法を唱えながら傷口に手を翳すと、彼の頬に色が戻った。
 胸の傷は、刃物によるものらしい。服が斜めに裂けていた。
「……ゴルベーザ様、聞こえますか。返事を……返事をして下さい」
 心臓が早鐘を打つ。彼を失いたくない、と思った。
「ゴルベーザ様」
 返事はない。抱き上げてテレポを唱え、ゾットの塔へと戻った。


***


 指先が冷えていた。
 少しでも体温を分け与えようと、小さな体を強く抱きしめる。ベッドが軋み、シーツに皴が寄った。
 傷は癒えているというのに、彼は目を覚まさなかった。
 心にダメージを負ったのではないですか。そう言ったのはルゲイエだ。そうかもしれない、と私は思った。
 温もりが欲しいという気持ちを性行為で紛らわせようという、その考え自体が間違いだった。彼が本当に求めていたのは、そんなものではないからだ。
「ゴルベーザ様。私が傍にいるではありませんか……」
 彼の温もりになりたかった。言葉が自然に零れた。
「私では、貴方を救うことはできないのでしょうか」
 大方、魔法を封じ込められでもしたのだろう。彼の体は傷と凌辱の痕に塗れていた。その痕は、今はもう消えている。それでも、私の哀しみは止まらなかった。
 魔法を失ってしまえば、彼はただの少年なのだ。それを嫌というほど思い知らされた。
「ゴルベーザ様」
 モンスターになってからというもの、私の心は死んだようになっている。多少のことでは動揺もしない。ただ、ゴルベーザ様のこととなると話は別だった。
 誘われ、頬に口づける。耐え難くなり、今度は唇を重ねた。
 顔を離すと、薄く開いた目蓋から薄紫色の瞳が覗いていた。
 気がつかれたのですねと言う前に、彼の口が言葉を漏らした。
「…………僕を、抱くの?」
 それは、うちひしがれたような声だった。
「ゴルベーザ様、私は」
「僕の体が、欲しい?」
 体だけではなかった。そう、私が欲しいのは。
「私は――――」
「……夢を見たんだ。銀髪の赤ちゃんがいて、僕はその赤ちゃんを抱っこしている。赤ちゃんが泣いて、怖くなって、僕はその赤ちゃんを草っぱらに置き去りにするんだ」
 切れ長の目に、涙が浮いている。拭ってやると、彼はそっと目を閉じた。
「ルビカンテ。怖いよ。ねえ……僕は誰なの」
「貴方は貴方です、ゴルベーザ様」
「それじゃあ分からないよ!」
 大粒の涙が零れ、彼は唇を震わせた。駄々をこねる子どもの仕草で、彼はぶんぶんと首を横に振った。
「何があろうとも、貴方の過去がどんなものであっても、貴方は私の主です。それは紛れもない事実だ」
「ルビカンテ……」
 私の中にある真実は、それだけだった。ゴルベーザ様が何者なのか、また、何故この塔に住んでいるのか、謎ばかりで何も分からない。それでも、彼が私の主だということだけは分かっていた。
「僕と、一緒にいてくれるの?ねえ、ずっと一緒にいてくれるの?」

『ねえ、僕と一緒にいて。僕から……離れていかないで』

 それは、あの時と同じ声音だった。
「……僕の体をあげるから。抱きしめてあげるから、だから、僕と一緒にいて」
 そんなことをしなくても、私は貴方の傍にいます。抱きしめて欲しいのは貴方の方でしょう。私がそう言うと、きょとんとした顔をしてから彼は微笑した。それがあまりにも寂しげだったので、私は堪らない気持ちになり、彼の腋を擽った。
「わ、わあっ!……ぶ、きゃははは、やめて、くすぐったいってば!」
 先程の涙が、笑いすぎたせいで流れ出した涙に変わる。
「もう、降参降参っ!」
 大声で笑う彼の表情は、他のどの表情よりも可愛らしく、魅力的だった。シーツに体を横たえ、彼は両目を手のひらで隠した。
 静かな間が訪れる。ねだる声が、私の胸に刺さった。
「……僕を抱いて。ルビカンテが抱いてくれるなら、もう街には行かないよ」
 甘さを含む声だった。
「……分かってる。ルビカンテはモンスターだ。それでも、僕にはルビカンテしかいないんだ。人間は僕を人形みたいに抱くだけだけど、ルビカンテは違う。僕は知ってるよ……ルビカンテは人間以上に優しいってこと」
「…………貴方のことが心配なのです。この体で貴方を抱けば、きっとどこかに歪みが生じるでしょう。それは精神かもしれないし、肉体かもしれない」
 身を起こし、濃紫のローブをたくし上げ、彼は素早い動作で白い下着を脱ぎ捨てた。見慣れている筈の白い足が酷く扇情的なものに見える。熱さを逃すため、視線を逸らした。
「ルビカンテは、何も気にしなくていいんだ。僕が勝手に命令するだけなんだから」
『命令』。恐ろしい言葉だった。私は彼に忠誠を誓っている。言葉だけではなく、術で体を縛られているのだ。命じられれば、私の体はいうことをきかなくなってしまう。
 彼はベッドサイドに置いてあったグラスを傾け水を飲み、わざとらしく音をたててそれを置き、私をじっと見つめた。
「ルビカンテ、これは命令だ」
 薄紫色の光が、ぼうっと辺りを照らす。
「『僕を抱け』」
 首を横に振ることは、かなわなかった。



 この体に色々な人間が触れた――そう思うだけで、頭がどうにかなりそうだった。
 白い肌を、濃紫色のローブが彩っている。細い足を折り曲げた。臀部が露わになる。こんな場所に入る筈がない、と思った。
「怖気づいた?」
 私の思考を読み取ったかのように、彼はくすくすと笑った。
「大丈夫だよ。訳の分からない物を入れられたことだってあるんだ」
 自虐的な調子で、彼は笑った。かあっと頭に血がのぼる。動物的な衝動がこみ上げ、彼の下腹部に顔を埋めた。


 押さえつけた手首の細さに愕然とする。挿れた瞬間、彼は泣いた。大声で泣いた。今まで流すことができなかった分の涙を流すかのように、叫べなかった分を叫ぶかのように泣いた。
 私はただ、彼に従うしかない。哀しいかな、彼の虚無を埋める術は持ち合わせていない。
 彼の涙を拭うことはできる。けれど、その涙を止めることはできない。
 私は無力だった。






戻る