モンスター。
本当に、その存在全てが悪なのか。それは俺の中にずっと凝っていた疑問だった。
『……なあ、親父。モンスターは本当に悪い奴ばかりなのか?』
食事時に父に問えば、『当然だ』という言葉が返ってきた。
『…当たり前だろう、エッジ。モンスターは人間を襲う。我が国の民が何人犠牲になっていると思う?モンスターは我々の敵だ』
分からなかった。
人間にだって、色々な種類がある。善人ばかりではない。悪事を働く者もいる。
確かに城の周りにいるモンスターは俺達を襲ってくるけれど、モンスターの中にはそれをよしとしない者も存在するのではないだろうか。
俺達人間はモンスターを見れば見境なく攻撃してしまうけれど、本当にそれが正解なのだろうか。
そこまで考えて寝返りをうてば、ベッドがぎしりと軋んだ。
窓の外では、月が冷たい色を湛えて光を放っている。このままでは眠れそうに無い。
夜風を感じたくて、窓を開け、飛び出した。
●
夜の海は青ではなく黒だ。その黒の一部が、月に照らされて暗い青に染まっている。
崖の切っ先に腰掛けると、さっき窓から覗いた時よりも、月を近くに感じることができた。
見渡す限りの黒い海と、星空と、月と、それから―――。
心の中がぐしゃぐしゃと波打っていた。荒れた心が、月に照らされて姿を現す。
今まで、何体ものモンスターを葬ってきた。
初めてモンスターを殺したときは、本当に恐ろしかった。
緑色の血がたくさん出て、それは色こそ違えど、命の色をしていた。手の震えが止まらなかった。
『やられる前にやらねばならないのです、若』
爺が真剣な眼差しでこちらを見つめて言った。俺は素早く攻撃することに専念した。
モンスターを殺して、殺して、殺して。
そうして戦いを繰り返すうちにいつの間にか手の震えを覚えることもなくなって、周りの大人達と同じようにモンスターを無意識のうちに殺すようになっていた。
俺は、そんな自分を恐ろしく思った。
もしかして今まで殺してきたモンスターの中に、悪さをしないモンスターがいたかもしれない。
モンスターにも家族がいて、今日俺が殺したモンスターは母親だったのかもしれない。そうだ、きっと小さな子供達が今も巣で母親を待っているのではないだろうか。
「う……っ」
空を見上げると、丁度、雲が形を変えて月を隠すところだった。
溢れそうになる嗚咽をこらえて、俺は口元を押さえた。目の前が涙で滲む。
途端、じゃり、と土を踏む音が背後で鳴った。咄嗟に苦内を構え、立ち上がり、振り向く。
獣のものでもなければ、人のものでもない。それは、まさしくモンスターの気配だった。
瞬間、頭の中が無と化し、指先が苦内を放っていた。ほぼ同時に、地面に苦内が突き刺さる。
「…て、てめぇ…なにもんだ!」
俺は自らの苦内が転がった方をちらと見ながら問いかけた。
目の前の大男は何をした。
渾身の力を込めて投げた筈なのに、どうして。
雲に隠れていた月が姿を現し、同時に目の前の大男の体が月光に照らされる。
血の色をしたマントに包まれていてはっきりとは分からなかったが、僅かに見えるその顔や首筋は、正に異形のそれだった。
姿を見ると共に、圧倒的な力の差を知る。危険だ。このモンスターには勝つことができない。
手のひらに汗が滲んだ。
「何をそんなに怯えている」
その低い響きに肩の震えがおさまらなくなる。
怖い。
怖い!
大男から目を離せないまま、足を一歩一歩後退りさせていく。
突如、踵が空を踏んだ。
「……っ!」
後ろが崖だということを忘れていた。衝撃を予想してぎゅうと目蓋を閉じる。
しかし、その衝撃はいつまで経ってもやっては来なかった。
「…何を、している」
優しげな声に薄く目蓋を開くと、大男が俺の手を掴んでいた。
そのままぐいと引かれ、抱き上げられる。
喧しく鳴っていた心臓が、殊更大きく鼓動を打った。
体に力が入らないのが分かるのだろうか。まるで親がそうするように背を撫でられ、マントにくるまれた。
知らぬ間に、警戒心が消えていく。すがりつくものが欲しくて、マントを力一杯握り締めた。
男が小さな溜め息を吐き、こちらの頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「……すまない。驚かせてしまったな」
「てめぇ……モンスターじゃねえのかよ」
問いかけると、子猫を持ち上げるかのように脇の下に手を差し入れられ、目線の合う位置まで抱き上げられた。
「わ、わっ」
唇の端を持ち上げ緩く笑んだ顔が、目の前にある。大男は何を思ったのか、
「お前の髪は月の色に似ているな」
と呟いた。
胸の奥がどくりと鳴る。
柔らかな声には敵意などなく、まるで懐かしむかのような響きが混じっていて、何故かぎゅうぎゅうと心が締め付けられた。
「…は、離せよっ」
気恥ずかしさを感じて、足をばたつかせる。
「…落ちた時に引っ掻けたのか。足から血が出ている」
視線を落とすと、確かに服が破れて膝を擦りむいてしまっていて、ぽたぽたと血が滴っていた。
この状況に驚いていたせいで、痛みに気付かなかったらしい。血を見た途端痛みがやって来て、しかし弱味を見せたくないと思った俺は、
「こんなの何でもねえよ!」
と再度足を動かした。
小さな溜め息が聞こえ、それと共に強く抱き締められる。
「……っ!」
「じっとしていろ。傷を治してやる」
耳元で、大男の鼓動が鳴っている。
「…すまない。まだこの体を上手く使いこなせていないのだ。しばらく待っていろ……必ず治してやる」
触れられている場所から淡い温もりが流れ込んできて、そのあまりの心地好さに、思わず眠ってしまいそうになる。
「……お前の名は?」
大男の問いかけに、夢の淵から引き戻される。視線を上に向けると、彼は唇を緩く持ち上げてこちらをじっと見ていた。
「……俺の名前はエッジだ。なあ、おめぇの名前は?」
傷を癒し終えたらしい彼は、俺の体を地面に降ろし、しゃがみこむ。
そうして、俺の頭を撫でながら、
「ルビカンテだ」
と言って、笑った。
深紅のマントを纏った男―――ルビカンテは、やはりモンスターなのだという。
彼が用意してくれた焚き火に手を翳しながら、俺は正面に座っている彼の方をちらりと見た。
ぱちぱちと音をたてている火と、同じ色の肌。人にしては大きすぎる体躯。
しかしモンスターとは思えぬほどの人間臭さが彼にはあった。
「…ルビカンテ。ちょっと訊きてえんだけど」
「何だ?」
月を眺めていた彼の目が、こちらを向く。
今まで胸に在った疑問の答えを知ることができるかもしれない。俺は胸の高鳴りをおさえながら、彼に問いかけた。
「……おめぇにも、お袋とか…いるのか?やっぱり、家でおめぇを待っていたりするのか?」
ルビカンテは驚いた顔をして、次に、ふ、と微笑んだ。
「…人間だった頃は確かにいたが……昔の名を捨ててこの姿になってからは……」
最後まで言葉を紡がずに、ルビカンテは火の中に枝を放り投げる。
ぱちり、と焚き火が爆ぜ、火の粉が瞬いた。
「おめぇ、元々は人間だったのか?」
問えば、静かな頷きが返ってきた。
人間がモンスターになる。
そんなことがあるなんて、俺は今まで思いもしなかった。
今まで殺してきたモンスター達の中に、『元人間』がいた可能性がある。
恐ろしい答えに、体が震えて止まらなくなる。
「…エッジ」
寒いのか、という彼の声が酷く遠くで聞こえた気がしたけれど、俺は口をきけぬまま、強く自分の肩を抱く。
視界は真っ暗闇なのにゆらゆらと揺れていて、息を吸い込んだ途端、頬を温い何かが滑り落ちていった。
胸が痛くて痛くて、どうしたらいいのか、自分がどうしたいのか、それすら分からなくて、悲しくて。
父親に反抗する勇気もなく、けれど、モンスターを殺したくはない。
では、一体どうすればよいのか。
叫びだしそうになった体を、温かい何かがふわりと包み込んだ。
「……どうした、エッジ」
ルビカンテのマントと腕が、血の気を失くした俺の体を温める。
「泣いているのか?」
背中から抱き締められているせいで、ルビカンテの表情は見えない。
自分でも、おかしな話だと思う。
初めて出会った、しかもモンスターの男と一緒に焚き火を囲んで、しかもこんな弱い自分を見せているだなんて。
しかも、その男に抱き締められているだなんて。
「……っ」
胸元に回された太い腕に、顔を埋めてしがみつく。かちかち、と歯が鳴った。
「…何か、気に障ることを言ったか?」
違う、ルビカンテのせいではない。そう思って首を横に振ると、じゃあどうして、という声が降ってきた。
俺は、必死で言葉を紡ぎ出す。
「……もしかしたら…、今まで殺してきたモンスターの中に、元々人間だったやつがいたんじゃないかと…思って……っ」
「私のような、か?」
こくこくと頷けば、ゆっくりと頭を撫でられる。
「優しいな、お前は」
その言葉に反応して少しだけ顔を持ち上げると、ルビカンテの腕は涙でぐっしょりと濡れてしまっていた。
そこをぐいぐいと拭い、振り返り、
「優しくなんか…ねえよ…」
何とか返答する。
途端、引き寄せられ、抱き締められる。
急なその動きについていくことができず固まっていると、ルビカンテの膝に跨がる形で座らされた。
「……やめろ…っ」
自分が幼子に戻ってしまったような感覚に襲われて、俺は彼の体を押し退けようと腕に力をこめた。
しかしルビカンテの体はびくともしなくて、それどころか更に強く抱き締められてしまい、仕方がなく俺は体の自由を明け渡してしまった。
彼の体温は人間のそれと比べると大分高くて、まるで焚き火みたいだ、と頭の端で思う。
耳の隣で、心臓の音が鳴っていた。
「私は稀有な存在だ。元々人間だったモンスターなんて、滅多にいはしない」
「…本当か…?」
「本当だ」
強く背を抱いていた手が、背中をとんとんと叩いた。
目蓋を閉じると、彼の鼓動だけが頭の中を占めていく。
ぱちり。
小さく焚き火が鳴り、それを最後に俺の意識は暗闇に包まれ、そうして何も見えなくなった。
●
「―――………か…!」
目の前が濃いピンク色に染まっていた。
「…………か!」
眠る前に感じた、あの温かさを思い出す。それと、ゆっくりとした鼓動も。
「………若!起きてくだされ、若っ!」
え。眠る前。ということは、今は。
そして、この声は。
「もう朝ですぞ!若!若ーっ!」
「う、わわわわわっ!」
はっと目を開けた瞬間目の前にあったのは、怒鳴り散らしている爺のアップで、思わず悲鳴をあげて起き上がる。
逃げようとして地面に触れた指先が何か柔らかいものに当たり、何事か、と手を見た。
「灰……」
指先には、灰がついていた。
「なあにが灰です!心配したんですぞ!朝食の時間になっても起きてこられないし、部屋に行ったら姿はないし!挙句の果てに、こんなところで眠っておられるとはっ!モンスターに襲われなかったのが不思議なくらいですじゃ!」
一気にまくしたてて、爺は俺の手を引く。
勢いに飲まれ抗うことも出来ず、俺は朝食へと向かった。
「さあ、早く朝食にしましょう!今日は剣術を学ぶ日ですぞ。それから―――」
手についた灰は、焚き火の跡のものだった。木がすっかり燃え尽きて、地面には灰の塊だけが残っていた。
もしかして、ルビカンテはずっと俺の傍にいたんだろうか。
あのままの体勢で、俺を抱いていたんだろうか。
途端に、頬がかあっと熱くなる。気が弱くなっていたとはいえ、他人にあんな姿を見せるなんて。しかも、抱き締められたまま眠ってしまうだなんて。
ルビカンテ。
恐ろしい見た目とは裏腹に、酷く優しい目をしたモンスターだった。
どうして彼はモンスターになったんだろう。以前はどんな暮らしをしていたんだろう。
様々な疑問が浮かんでは消えていき、俺の頭の中はルビカンテのことでいっぱいになる。
途端、きぃん、と甲高い金属音が鳴り響いた。
「―――若様っ!!」
頬に冷たい何かが走り、目を見開く。刀身が、俺の顔に触れていた。
冷たかったはずの頬の感覚が熱さを増していき、思わず喉を鳴らして息を吸い込む。
ぽたり。赤い雫が、床に滴った。
「若様…どうされたんです。私の攻撃を顔で受けるだなんて」
そうだ、今は手合わせの最中だった。ぼんやりして、俺は。
俺と手合わせをしていた兵士が、俺にポーションを手渡す。不安げな表情のまま、垂れた血を布で拭ってくれた。
「…今日はこれ位にしましょうか。無理は禁物ですよ」
「…わりい…ぼうっとしてた。何だかおかしいな、俺」
言い終えてから、ポーションをぐいと呷った。俺が溜め息を一つつくと、兵士はにこりと笑って、
「そういう日もありますよ。そうですね…代わりに、自室で本でも読んで勉強されてはどうです」
と言った。
「そ、それは嫌だ」
即答する。体を動かしている方が性に合う。部屋に閉じこもるのは避けたい。一人でじっとしているといらないことばかり考えてしまうから、できれば何か気の晴れることをしていたかった。
しかし、彼はなおも言う。
「ほら、この前漏らしてらしたでしょう。『本を読め読めって爺にぶつぶつ言われてる』って」
ああ、忘れていた。そういえば言われていたっけか。
「今度、忍術の試験をするって張り切ってましたよ」
「……爺が?」
「はい。実技だけでなく筆記もする、と。結果が悪かったら、忍術の本を丸々書写させる、と。そう言ってました」
俺の『勉強』は数十分で幕を閉じてしまった。分厚い本を、机の端に押しやる。
元々、誰かと話しながらだとか、教えあうだとか、人の気配がないと勉強に身が入らない性質なのだ。
いや、普段なら一時間は持ったかもしれないが、今は―――。
「……ルビカンテ」
昨夜出会った男の名を、確かめるように口にしてみた。
背が高かった。父よりも大きくて、腕も太くて。
『優しいな、お前は』
唐突に、彼の声が頭に響いた。
俺は優しくなんかない、どっちつかずの馬鹿なんだ。声に返答した。
「優しくなんか、ねえ……」
逞しくて、温かい腕。肌は異形の者の色をしているというのに、瞳はやけに優しい色をしていた。
部屋に射し込む太陽の光。そうだ、あの男の瞳はこんな色をしていた。
会いたい。そう思う。
「ルビカンテ」
もう一度名を呼ぶ。何故だろう、無性にあの温かさが恋しかった。
突然、窓の格子がかしゃんと音をたてて、思わずそちらを振り向いた。テラスに立っている男と、 目が合う。
どうして、という言葉を口にするのももどかしく、椅子から立ち上がる。窓に駆け寄った。鍵を開ける。
「…エッジ」
「ルビカンテ……!」
どうしてここに。口にしようとした台詞は、ルビカンテの手の動きに遮られた。
彼の手が俺の耳に伸びてくる。聞きなれた金属音が小さく鳴った。
「これを渡しに来た。私のマントに引っかかっていたんだ」
耳元に一瞬感じる異物感は、穴にピアスを通される感覚だった。無意識のうちに目蓋を閉じる。
朝からずっと悶々としていたから、ピアスがなくなっていたことにも気が付かなかった。耳たぶを緩く引っ張られ、ぞくりと背筋に震えが走る。
「今朝はすまなかった。置いて行ってしまって」
「ルビカンテ」
「人の近づく気配がしたから、離れるしかなかったんだ……通ったぞ。これでいいか」
「……あ、ああ」
俺が頷くと同時に、ルビカンテが踵を返す。
今引き止めておかなければ、二度と会えなくなってしまう。そんな気がして、必死でルビカンテの腰にしがみついた。
「おめぇともっと話したい」
「……エッジ」
「俺はもっと、」
躊躇いが生まれる。何だか急に恥ずかしくなってしまった。でも、これが俺の本心なのだ。顔を見られたくなくて、額をルビカンテのマントに擦り付けた。
「もっと…おめぇのことが知り、たい……」
顔が熱い。体温が高いルビカンテのそれよりも、もっとずっと熱い。
顔を上げられずにぎゅっと目を閉じていたら、ルビカンテに抱き上げられてしまった。そのまま、部屋の中へと運ばれる。そっと、窓が閉じられた。
薄紫色のカーテンがふわ、と揺れた。
「…エッジ。お前は人間で、私はモンスターだ。それは分かっているな?」
「あ、あったりめえだ!馬鹿にすんな」
窓から溢れ出る金色の光が、ルビカンテの瞳を照らした。同じ色だ、と思う。じっと、こちらを見ていた。
「では……お前の父親や母親が、私を見てどう思うか。分からないわけではなかろう」
「あ……!」
「きっと、お前の両親は私を殺そうとするだろう。両親だけでなく、この国の兵士達は皆私を殺しにくる。何しろ、王子をたぶらかしたモンスターだ。全力でかかってくるだろう」
「そんなっ!俺は」
「モンスターと人間は、互いに相容れぬ存在なのだ」
『…当たり前だろう、エッジ。モンスターは人間を襲う。我が国の民が何人犠牲になっていると思う?モンスターは我々の敵だ』
脳内で再生される、父の厳しい声。否定したくて、首を横に振った。
「でも!…おめぇは俺を助けてくれたじゃねえか。俺を襲わねぇで、優しくしてく……―――!!」
瞬間、床に押し倒されていた。背中が痛む。
包み込むようにして、ルビカンテの手が俺の喉にかかった。
少しだけ微笑んでいたはずのルビカンテは、いつの間にか無表情になっていた。
「…ルビ…カンテ……ッ」
「お前の目はまだ、穢れを知らない」
「や、め……っ」
「…細い首だ」
「………ひ……!」
ぐ、とルビカンテの手の力が強まって、俺はぱくぱくと口を動かした。
きつく固定されてしまって、体を捩ることも許されない。
息ができなかった。苦しくて、涙が零れる。
●
穢れを知らない瞳だった。一点の曇りもない、美しい瞳だった。
ただ真っ直ぐ前を見て、未来を信じ、突き進んでいく。穢れも怖れも、何も知らない子供の目。
その目は大人びた色を見せたと思えば、次の瞬間には幼子のように縋り付いて来る。そんな危うい均衡が、私を惹きつけてやまなかった。
絶望にうちひしがれた顔が白みがかったのを見て、私は彼の首を開放する。
「…ぐ、げほっ…!」
体の上から退いてやると、彼は背を丸めながら喉を掻く仕草を見せた。
ひゅう、ひゅう、という隙間風に似た音が、彼の喉を通り抜けていく。
ずきり、と胸が疼いた。
「は、……っぁ、あ…」
薄い唇は、耐え切れずに涎を垂らしていた。
喉に残った赤い痕を消してやりたくて、その場所に手を伸ばす。
彼は肩を揺らしてから緩慢な動作で腰に手をやり、苦内を取り出した。目は虚ろだ。無意識に取り出したらしかった。
「…分かっただろう?お前は甘すぎる。もっと警戒心を持つべきだ」
痕に回復魔法をかけていく。彼の手から、苦内が滑り落ちた。
「こんな……何で……」
頑是無い仕草で首を横に振りながら、両手のひらで顔を覆い隠す。指の隙間から涙が溢れた。
彼は恐怖心から泣いているのだろうか。それとも、まだ喉が苦しいのだろうか。私には分からなかった。
「……私のことは忘れるんだ。良いな?」
「い、やだ…!」
細い指が、私のマントを握り締めた。
「ぜってぇ嫌だっ!」
掠れた声で、彼は叫ぶ。
ああ。最初から、彼に関わるべきではなかった。私は彼と出会ったことを後悔し始めていた。
彼を嫌っているわけではない。人懐っこい笑顔は私の胸を熱くさせるし、彼と話していると楽しいと思う。
しかし、彼が人間で私がモンスターだという事実は、永遠に変わることがない。
―――ピアスなど、放っておけばよかった。何故届けに来てしまったのか。そうまでして彼にもう一度会いたかったのか。自分自身に問いかけた。答えは出ない。
「ルビカンテ……ッ」
彼の顔から目を逸らし、窓へと向かう。
「今日の夜、崖んとこで待ってる!」
カーテンが風にはためいた。
「ずっと待ってるからな!」
彼の声を掻き消すように、荒々しい音をたてて窓が閉まった。
風の強い夜だった。
空は黒い雲に覆われ、星の一つも見えなかった。じきに嵐が訪れるだろう。
突如、大雨の中で立ち尽くす、寂し気な彼の顔が頭に浮かんで消えた。
あの温かくて小さな体が冷えていく様を想像し、私自身もぶるりと体を震わせる。
天候が悪化すれば、諦めて城に帰るに違いない。いや、もう城へ戻っている頃かもしれない。何せ、夜明けはもうすぐそこまで来ているのだから。
水滴が肩に落ちてくる。
降り注ぐ雨を眺めながら、私はまた、彼の姿を想っていた。
雨に濡れ、固めの髪は下を向いてしまうだろう。
体温を奪われ、指先は白くなって、いつしか震えだして。
そして、俯き加減の表情は、きっと。
待っている筈がない。そう、少し確かめるだけだ。
自分に言い聞かせながら、私はあの崖へと向かった。
足音が雨に掻き消される。そこここに水溜りが出来、地面は酷く荒れていた。
ゆっくりと、気配を殺しながら私は崖へ近づいていく。視界が悪い。濡れたマントが重かった。
辺りに目をやった瞬間、信じられないものを捕らえてしまう。
濡れそぼった銀の髪と、線の細い背中。
間違いなく彼だった。
エッジ!叫びだしそうになり、唇を引き締めた。放っておけばいい。朝になれば帰る筈だ。
しかし、彼は目元を拭い、頭を振り、私を待ち続ける。
太陽が頭を出して大雨が小雨に変わっても、彼は帰ろうとしなかった。
そうまでして、何故私を待ち続ける?お前は今、どんな顔をしている?濡れた薄い体に、私は問うた。
抑えきれず、歩み寄る。彼が気付く様子は無い。微かな違和感を覚えつつ、私は立ち止まった。
「……エッジ?」
途端、ぐらりと彼の上体が傾いだ。
「エッジ!」
抱きとめた体は、驚くほど熱い。
私の姿を認めて、彼は小さく微笑んだ。
●
訊きたいことがあった。
どうして俺をエブラーナ王子だと知っていたんだ、とか、友達はいるの、だとか。
彼は多分来ないだろう、そう思っていた。でも、雨が降ってきて体の芯が冷たくなっても、俺は諦めきれなくて。
モンスターだとか、人間だとか、そんな分け方はしたくない。
前例が無いなら作ればいいだろう。モンスターと友達になりたがる人間が、一人くらいいたっていいじゃないか。
俺は、お前の温かい体が好きだ。
優しい物言いが好きだ。
お日様みたいな目の色が好きだ。
なあ、それでいいだろう。それが全てで、何が悪い。
目を開いて最初に飛び込んできたのは、ぐるぐる回っている天井だった。
ぼうっと考えてから、俺は気付く。天井が回っているのではなくて、俺の目が回っているのだと。
これは、自室の天井ではない。鎧みたいな色をした、こんな天井は知らない。じゃあ、一体ここはどこなんだ。
喉がからからに渇いていて、何もかもが回っている。体が湿っていて、気持ち悪い。頭が持ち上がらない。
どうしよう。俺は途方に暮れた。
「……あー………」
試しに声を出してみたら、掠れて酷い音がした。シーツを手繰り寄せる。
嗅いだこともない石鹸の香りが、鼻に触れた。甘い花の香りだった。
「…いいにおいがする」
「気付いたか。気分はどうだ」
俺の声に重なって、男の声が部屋に響く。シーツを跳ね除けた。
「ルビカンテ…」
情けない声で、俺は男を呼んだ。
ルビカンテの手のひらが、額に触れてくる。
「…まだ熱があるようだな。しかし、これくらいなら何とかなりそうだ」
「……なんとか……?」
はっきりしない思考を放棄して呟く。
背に手を差し込まれ、強く抱き締められた。体の中に染み込んでくる、温かな光に目を閉じる。その光が指先まで行き渡っていく―――そんな様を想像した。
「きもちいい……」
言ってしまってからはっとした。酷く恥ずかしい言葉のように思えた。見透かしたように、ルビカンテが耳元で笑う。
「その素直さが、お前の長所だ」
「ば、馬鹿野郎…!何恥ずかしいこと言って、」
「……元気になったようで、何よりだ」
そういえば、体が軽い。頭もくらくらしない。ちらりとルビカンテの顔を窺うと、彼は緩く微笑んでいた。
「…サンキュ」
慌てて目を逸らしてから礼を言う。
崖の前で。
倒れる直前に、ルビカンテの顔が見えた。その顔は苦しそうで切なそうだったけれど、俺は、ルビカンテが来てくれた、その事で頭が一杯で。
本当に嬉しかった。来てくれないだろう、と思っていたから。
自分の体が熱を帯びていることは知っていたけれど、それでも崖の前から離れられない程に、俺はルビカンテを待ち焦がれていた。
ルビカンテが抱き締めていた手を離し、それに寂しさを感じながら俺は問うた。
「なあ、ここ、どこ?」
つやつやした銀色の壁があって、ぴかぴか光る何かがあって、花の香りのするシーツがあって。
どれも見慣れないものばかりで、俺は首を傾げてしまう。
ルビカンテは幾らか逡巡した後、
「私の家だ」
と言って、俺の頭を撫でた。
「ここが、家なのか…よく分かんねえからくりがいっぱいあるんだな。扉はどれなんだ?」
「これだ」
しゅん、という風みたいな音がして、壁が割れる。俺は驚いて、ベッドから飛び降りた。
「すっげえ!こんなからくり見たことねえよ!」
「いや、これは…まあいい」
「あれは!?」
「あれは通信装置で」
「通信装置?何だか難しそうだな……っあ、」
途端、目の前の風景がぐんにゃりと曲がる。蹲りそうになったところを、太い腕に支えられた。
「……病み上がりだろう。はしゃぐんじゃない」
「わりい…」
叱咤の声に、頭を垂れる。温かい胸に、しがみついた。ルビカンテは床に座ると、俺を膝に乗せた。
「…訊きたかったんだけどさ。何で俺が王子だって分かったんだ?」
「ピアスだ」
「…ピアス?」
「お前のピアスにエブラーナの紋章が彫られているだろう。その下に、お前のフルネームも彫ってあったんだ。モンスターとはいえ、フルネームを見れば流石に気付く。エブラーナ王子だ、とな」
俺は耳元を探って、片方のピアスを外した。
見慣れた紋章。名前など、どこにも見当たらない。
「ねえけど……」
「エドワード・ジェラルダイン」
フルネームで呼ばれて、俺は息を詰まらせた。
「それであってっけどよぉ……ねえもんはねえぞ」
くるくると回してみたり石の一つ一つを見つめてみるのだけれど、何も見つからない。
「なあ、教えてくれよ。一体どこに―――」
ピアスから視線を外しルビカンテの目を見つめようとする。
すると突然、彼は俺の体を床に下ろし、立ち上がって扉の方へと走り出した。
「すまない、急用ができた。早く済ませてくるから、お前はここにいろ。いいな?」
「えっ!待てよ!ルビカンテっ!」
「帰ってきてから、城まで送ってやる。いい子で待っていろ」
扉が閉じられ、静寂が訪れる。
俺は途方に暮れてしまった。
「いい子とか言って、子ども扱いしやがって…」
見飽きたピアスを耳元に戻しながら、俺は呟いた。
この部屋には時計が無い。時間が分からない。窓も無いから、今が昼なのか夜なのか、それすら分からない。
帰ったら、親父にもお袋にも、そして爺にもどやされるだろう。それは、構わない。覚悟は出来ている。
ただ、妙に静かで見慣れないものばかりあるこの空間に一人、というのが無性に辛かった。
直ぐに帰ってくると言っていた男は、さっぱり姿を現さない。だから、ついつい扉を凝視してしまう。
ちょっと外を見るだけなら。
好奇と恐怖をない交ぜにした心で、俺は扉に触れた。しゅん、という音がして、壁がなくなる。
すごい。本当にすごい。面白い。
興奮しながら、継ぎ目らしき場所や見たことも無いような金具を突いてみる。刀や鎧の材料とはまた違う、不思議な手触りの金属だと分かった。
「おもしれえなあ…何で出来てるんだろう」
不意に、背後から影が落ちてくる。ルビカンテだ。そう思い、後ろを顧みた。
「…………っ」
長い金髪と、白い肌。
果てしなく裸に近い格好をした女が、こちらをじっと見据えていた。
「どうしたの、坊や。こんなところで」
「え、あ、そのっ」
驚くほど美しい肌や髪。布を一枚着けただけの胸は半分以上露になっていて、視線をどこにやっていいのか分からない。
俺は壁に目をやりながら「ルビカンテの友達だ」と答えた。
この姉ちゃんは誰なんだろう。もしかして恋人とか。俺は悶々と考え続ける。
「へえ…ルビカンテのねえ。ルビカンテにこんな可愛いお友達がいたなんて、知らなかったわ」
「姉ちゃんは、ルビカンテの何なんだ?恋人?」
訊くと、姉ちゃんは腰をかがめて俺に目線を合わし、高い声で笑った。
「…おっかしいことを言う子ね!私とあいつは同僚よ、ど・う・りょ・う!」
「同僚?」
「そうそ。ただの仕事仲間よ」
じゃあ、ここはルビカンテの家兼職場なのか。
人間とモンスターは相容れないなんて言っておきながら、こんな美人の人間と一緒に仕事をしているだなんて。首を傾げつつ、俺はまた尋ねた。
「なあ、姉ちゃん。ルビカンテが今どこにいるか、知らねえ?」
「…多分仕事を片付けに行ったんじゃない?上司に呼びつけられてたし」
「仕事…」
急用って、仕事のことだったんだな。そう思いつつ、首元に手をやった。
喉がカラカラに渇いていたことを、今になって思い出す。
さっきの部屋には水も何もなかったし、例えあったとしても、勝手に飲むことなんて出来ない。ルビカンテの家と言っても、ここはよそ様の家なのだから。俺は目の前の美女をじっと見つめた。
ちょっときつめの目をしてはいるけれど、美人だし、優し気だし、この姉ちゃんなら水くらいくれるに違いない。
「…姉ちゃん!」
「ん?」
「俺、喉が乾いちまって、それで……一杯だけでいいんだ、水を飲ませて欲しいんだけど…」
上手く言えない。水に困ったことなんて皆無だし、人に頼みごとをするなんてのも稀なのだ。
俺は渾身の力をこめて、ぐいっと頭を下げた。
「そんなに頼まなくったって、水くらいあげるわよ。でも、水でいいの?紅茶とかミルクとかコーヒーとか、そういうのは飲みたくないの?」
姉ちゃんの顔がやけに近づいてきて、焦る。そんな俺の心を知ってか知らずか、姉ちゃんはにこにこと笑っていた。
「お茶にしましょ?あいつはなかなか帰って来ないだろうし……ね?」
手首を強く握られ、引きずられるようにしてルビカンテの部屋を後にした。
青い色をした硝子コップが、俺の目の前に差し出される。
中を満たしている液体は真っ白で、俺は不満を感じずにはいられなかった。
いや、水分補給をさせてもらえる、そのことには感謝しているのだ。俺が不満なのはそこではなくて。
「…姉ちゃん。もしかして俺のこと、おもいっきり子ども扱いしてるんじゃ……」
姉ちゃんはブラックコーヒーを淹れて、満足げにそれを飲んでいる。
「いいじゃない。よく似合うわよ」
「…いただきます」
からかわれている。華やかな笑顔に顔を熱くしながら、俺はコップを傾けた。美味しい。とても冷たいミルクだった。
部屋の中の調度品は、淡い黄色やクリーム色でまとめられている。乳白色でつるりとした感触の椅子に腰掛けながら、俺は美女の姿を眺めた。
そうそう、名前を訊くのを忘れていた。
「姉ちゃん、名前は?」
「バルバリシアよ。坊やの名前は?」
また子ども扱いだ。
「坊やはやめてくれよ。俺にはエッジって名前が」
俺の名前を聞いた途端、椅子をひっくり返しながら姉ちゃんが立ち上がった。
「姉ちゃん?」
「ふうん。坊やが……そう。やけにいい匂いのする子だと思っていたけど……そういうことだったのね」
「いい匂いって……?」
「私、知ってるのよ。ゴルベーザ様が言っていたもの。『エブラーナの王子の名前はエドワード・ジェラルダインだ』って。『普段はエッジと呼ばれているらしい』って」
不穏な空気が部屋中を満たす。窓なんてどこにも無いはずなのに、どこからか風が吹いてきた。俺は身を震わせる。
「た、確かに俺のフルネームは……それだけどよ……」
姉ちゃんがこちらに近づいてくる。気迫に気圧され、俺は椅子から退いて後ずさった。
「エブラーナの王位継承者は皆、高い魔力を持っているそうね」
背中に壁が触れる。細い指先に、顎を持ち上げられる。姉ちゃんの唇から、赤い舌が覗く。
「魔力の高い子の肉は、とっても甘くて美味しいのよねえ……」
「い……っ!」
長い金髪が、俺の腕や足、腰に絡みついた。姉ちゃんの歯が刀の切っ先のように尖っている。俺は自分の愚かさを呪った。
「姉ちゃん、おめぇもしかして、モンスター…なのか?」
モンスターといえば血の臭いのする生き物のはずなのに、彼女からは香水の匂いしかしなかった。
姉ちゃんを殺したくはないけれど、ここはどうにか逃れないと、俺が殺られてしまう。何か武器になるものはないか。焦りつつ、思考を巡らせた。
手首を内側にぐっと曲げる。手の中に意中の物が落ちてきた。そうだ、これなら。
姉ちゃんが大口を開けて、俺の首筋に噛み付こうとする。素早く手首の戒めを断ち切ると、姉ちゃんの項に棒手裏剣を突き刺した。
「きゃああああああああっ」
けたたましい声で、姉ちゃんが叫ぶ。途端、腰や足の戒めが緩められた。
俺は姉ちゃんを振り切り、扉へ向かい走り出す。
扉を抜けて、廊下を突っ切った。姉ちゃんの悲鳴が頭から離れず、胸が喧しく鳴った。
殺してない。大丈夫、殺してない。多分、あの人はとても強い。あれ位で死ぬはずがない。
『魔力の高い子の肉は、とっても甘くて美味しいのよねえ……』
確かに魔力は高いかもしれない。が、俺はまだ忍術を使えない。初歩と言われる火遁を扱うことすら出来ないのだ。いくら魔力が高くても、これでは意味がない。
廊下はまるで迷路のようだった。走っても走っても、同じような風景が流れ続ける。
ルビカンテを探さなければ。
息を荒げながら、俺は突き当りを曲がった。
「……わっ!」
どん、と何かに思い切りぶつかってしまう。自分の気配を殺すことに必死になっていて、周りの気配を探るのが疎かになっていた。体を支えきれず、俺は尻餅をついた。
聞き慣れない音が耳に入ってくる。ピーピーと、耳障りな音だった。
目の前で、やたら大きな人形がゆらゆらと揺れている。
無表情な硝子の瞳で、人形は俺を見下ろしていた。
人形からは殺気も、生気も感じることが出来ない。視線を逸らさぬようにしながら、そっと間合いをとった。
ぎろり。人形の大きな瞳が突然動き出す。それと共に、その白い拳が振り上げられた。
「うわっ!」
間一髪のところで避ける。またもや、人形の瞳がこちらを捉えた。もう一度、攻撃がやってくる。身を翻し、避けた。
胸元を探ってみるのだが、いつも携帯している武器が見当たらない。多分、ルビカンテが服を乾かす時、どこかに片付けてしまったのだろう。
くっそう、ルビカンテの奴。
逆恨みだとわかりつつ、そう思ってから、これは俺が招いた結果なのだということを思い出した。
そもそも、俺があの部屋を出なければこんなことにはならなかった。
いや、元はといえば、俺が勝手にルビカンテを待つなんて言い出したから。
違う。俺が、ルビカンテのマントにピアスを引っ掛けたりしなければ。
急に、胸の辺りがぎゅうっと痛んだ。
そうだ。あの月の明るい夜に俺が出掛けたりしなければ、ルビカンテに出会うこともなかったのに。
出会わなければ、あの温かい腕を知らずにいたら、こんなに胸が軋むこともなかったのに。
何故だろう。こんな状況で、こんな場所で、集中しなければならないはずなのに、俺は泣きそうになっていた。
目蓋の奥がつんとする。
人形の腕が、空を切った。
「…何をしている!」
聞き覚えのある声。見知った腕が、俺を抱く。
炎が辺りを満たし、人形は跡形もなく消え去ってしまった。
声を出すことも出来ずに、俺は彼の腕をぎゅっと握る。心臓が大きく跳ねた。
「エッジ。身軽なお前のことだ、これくらい避けられるだろう?あの部屋を出るなと、あれほど……」
くるりと体を反転させられ、ルビカンテと向かい合う。
彼は言葉を最後まで紡ぐことなく、俺の髪を撫でた。
「…………何を、泣くことがある」
温かいものが、俺の頬を伝っていく。
胸が痛くて、切なくて、堪らない。ぎりぎりと歯を食いしばって耐えようとするのだけれど、次から次へと溢れては流れていく。止められそうもなかった。
「……おめぇ、が…っ早く帰ってこねえから……っ」
「…すまなかった」
「変なこと、考えて……、おめぇと出会わなけりゃ、こんなに苦しい気持ちになることもなかったのに、とか…っ」
「…………エッジ…」
低い声と同時に、後頭を優しく、しかし確実に抱き寄せられる。ルビカンテの顔が近づいてきて、俺は思わず目を閉じた。
柔らかくて熱い何かが俺の唇に触れ、滑り込む。
「ん……っ!?」
口の中を、余すことなく撫で上げられる。背筋に走る電流にやられ、頭が働かない。
「…ん、う、ぅ……ん」
啄ばむようにして、熱いものが離れていく。目蓋を開くと、しまった、という表情でルビカンテが俺を見つめていた。
キスされた。
戻ってきた思考が、俺にそう囁きかける。
「な、何のつもりだ…っ!」
「それが私にも分からんのだ。お前を見ていたら、何だか……ああ、涙が止まった」
「あったりめえだろっ」
泣いている場合ではない。どうしてキスなんか。
顔が赤くなっているのが自分でも分かって、俺は声を荒げた。
怒ればいいのか、何を言えばいいのか、頭がぐっちゃぐちゃになって分からない。
「ったくよぉ、美人の姉ちゃんには食われそうになるし……武器もねえし……術も使えねえし……」
「……美人、の?」
ルビカンテの顔色が変わる。
「…その女は、金髪か?」
荒々しく頬を拭われつつ尋ねられ、俺は頷いた。
彼女の容貌を、一つ一つあげていく。
「すっげえ長い金髪で、美人で、半裸で…ルビカンテの同僚だ、って言ってた」
「食われそうに、とは…」
「俺の肉が美味そうだって言ってよお、首に噛り付こうとして……そういえば大丈夫かな、あの姉ちゃん。俺、びっくりして、項に棒手裏剣を刺しちまった」
●
あの時、思念波でゴルベーザ様に呼ばれたから、私はあの部屋を離れた。
正直なところ、エッジの好奇心をなめていたのだと思う。まさかバルバリシアについて行ってしまうとは、思ってもいなかった。
モンスターに襲われている彼を見た瞬間の私の顔は、凍りついていたに違いない。
彼を城まで送ったら、バルバリシアにきちんと釘を刺しておかなければ。
『変なこと、考えて……、おめぇと出会わなけりゃ、こんなに苦しい気持ちになることもなかったのに、とか…っ』
エッジの言葉を思い出し、胸の奥が疼く。
あの口づけに理由などない。あるとすれば、『口づけたいと思った』それだけだ。
彼の唇に触れてみたくて、ただそれだけの理由で口づけた。
無垢なものを穢す背徳感のようなものが、体の内からこみ上げる。彼の小さい体から溢れ出る温かさを、奪い取っているかのような感覚。
私は、彼を少しずつ穢している。
きっといつか、彼の瞳を曇らせてしまう時が来る。
「……ルビカンテ?」
私の腕に抱かれた彼が、窺うような目をしてこちらを覗いていた。
「どうしたんだよ。ぼうっとして」
「いや…何でもない」
彼から立ち上る甘美な香りが、私の鼻孔を刺激する。柔らかい肉の香り。子どもが持つ、汚れのない香りだ。
それに混じって香ってくる魔力を秘めた血の香りが、私の頭の中で甘く響いた。
喉を食い千切って、血を啜り、骨の髄まで味わい……そこまで考えてから、はっとする。
エッジが不安げな顔で私を見上げていた。
「…怖えぇ顔。……俺を降ろしたいなら降ろしたいって、はっきり言えばいいだろ」
彼は拗ねた表情でそう言うと、私の腕からすり抜けて一人で歩き出す。追いかけようとした腕が、空を掴んだ。
「違う、エッジ」
「違わねえ」
「しかし、そっちは帰り道とは逆方向だぞ」
「…俺の勝手だ!」
「それじゃあ、いつまで経っても帰ることができないだろう?それでいいのか」
「……良くねえ」
彼の足が止まった。
「…なあ。俺を降ろしたかったんじゃないとしたら、おめぇ、何であんな怖えぇ顔をしてたんだ?」
彼は振り向かない。振り向かずに、続ける。
「……正直に言えよ。迷惑だ、って。俺は勝手におめぇを待ってて、勝手に熱を出してぶっ倒れたんだ。その上仕事の邪魔までして、同僚の姉ちゃんを傷つけて」
「私が怖い顔をしているように見えたのは、少し考え事をしていたからだと思う。バルバリシアはお前を食おうとしたんだろう?どう考えても、向こうが悪い。お前が熱を出して倒れたのも、私がお前に気をもたせるような態度をとったせいだ」
「ルビカンテ…」
悲しげな光を瞳に湛え、エッジが振り向いた。ゆっくりと歩み寄ってくる。
私はしゃがみ込んで、目線の高さを合わせた。
「迷惑だと思ったことは、一度もない」
「本当か…?」
「ああ」
私の指先を握り締めると、彼は頭を垂れて呟いた。
「……良かった」
エッジが「月を見たい」と言い出したので、洞窟を抜けて、あの崖に向かった。
とても月が綺麗な夜だ。「綺麗だ!」と、嬉しそうに彼が笑う。思い出したように、何かを手に取る。それは木の枝だった。
彼は枝を拾い集めると、積み上げたそれに手を翳した。
「火遁っ!」
一瞬だけ赤い光が現れ、しかし火が点くことはない。彼はふうと溜め息をついて、その場にしゃがみ込んだ。
「やっぱ、駄目か…」
彼はまだ術を使えなかったのか。そういえば、彼が術を使うところを一度も見たことがない。
「…火遁っ!」
再度手を翳して叫ぶが、同じ結果に終わる。
筋はいい。多分、手のひらにうまく熱を集められていないだけなのだ。
私は彼の手の甲に手のひらを重ね合わせ、そっと包み込んだ。
「もう少し、ここに神経を集中させるんだ」
「こ、こうか?」
先程よりも強い光が放たれる。私は頷き、もう片方の手のひらで彼の目を覆った。
「目を閉じるんだ。手のひらだけを思え。想像するんだ。お前の手のひらに、熱が集まる。お前の 体にある熱全てが、手のひらに集中する。熱くなる。お前はそれを放ちたくて堪らなくなる」
「…熱く、なる……」
うわ言の様に呟く。途端、小さな炎が枝を包み込んだ。私は感嘆し、彼の目隠しを解く。
まさか、こんなに上手くいくとは思わなかった。
ぱち、ぱち、と薪が鳴るのを、エッジは呆然と見つめている。
横顔を見やると、緑色をした瞳に赤い炎が映りこんでいた。
「できた…!」
と言い、私の方を見る。心なしか、彼の目は潤んでいる。
そうして、私の首に抱きつき、小さな笑い声をあげた。
「ああ、もう、何て言ったらいいか分かんねえ!滅茶苦茶嬉しい!」
「…美しい炎だ。よくやったな、エッジ」
率直な感想を口にする。彼の真っ直ぐな心と同じ、真っ直ぐな強さを持った炎だった。
「何言ってんだよ、おめぇのお陰だろ!」
当然のことのように、彼は言う。
弾んだ調子の声がとても愛しいものに思え、私は彼に微笑みかけた。それを見て、彼は視線を泳がせる。
「ありがとな」
「礼を言われる程の事では…」
小さな両手が、私の頬を包む。そして、額に温かいものが降ってきた。ほんの一瞬触れ合うだけの、額への口づけだった。
顔を真っ赤にして、彼は体を離す。
「礼だ、礼」
指先まで赤くして、声を震わせて、彼は駆け出してしまう。
「エッジ!」
「…ま、また明日な!ここで待ってっから!」
遠ざかる後姿が、闇に溶けて消えていく。
また明日、この場所で。
暗闇を見つめながら、額に手で触れてみる。胸が、炎のように熱い鼓動を刻んでいた。
「何よ、もうっ!横取りして食べてやろうと思っただけなのに」
そう口につつ、バルバリシアは項を押さえて蹲った。床には、エッジの指先程の長さをした棒が、一本転がっている。
その傷に手を翳し、回復してやりながら私は呟いた。
「お前らしくないな。たかがこんな棒一本にやられるなんて」
「麻痺薬が塗ってあったのよ!王子様っていうからボヤッとしたのを想像してたのに、とんだ勘違い。まさか、あんなにやんちゃな坊やだったなんて。……今度は絶対に仕留めてみせるわ」
私の手を跳ね除けて、バルバリシアは唇の端をつり上げた。立ち上がり、髪をかき上げる。
「本当に、甘くていい匂いのする坊やだった……」
「…よせ。あの子に手を出すな」
言ってしまってから後悔する。玩具を与えられた子どものように、バルバリシアの瞳が輝いたからだ。
「……珍しいわね、あんたがそんなことを言うなんて。何?あんたもついに、人間を食べてみる気になったってわけ?」
「違う」
「…じゃあ、何。もしかして、情でも移った?」
違う。
そう言おうとしたが、言えなかった。バルバリシアの瞳が輝きを増し、高らかな笑い声が辺り一面に木霊する。
目尻に涙を滲ませて、彼女は言った。
「これだから、元人間は。あの子は人間なのよ?ゴルベーザ様がいつも言ってるじゃない。『人間は皆殺しにする』、って」
何も返答することができず、私は立ちつくす。
皆殺し。
その言葉が、私の肩に重く圧し掛かる。
「あの子もどうせ、近いうちに死んじゃうのよ。他の人間と一緒にね。離れるなら、今よ。これ以上入れ込んでも、良いことなんてないわ」
釘を刺すはずだったのに、反対に刺されてしまった。私は言葉を飲み込む。
いつの間にか無表情になったバルバリシアの顔からは、何も読み取ることができなかった。