And if I die before I wake.



4.



あれから一週間経った。 「あれ」というその日が一体いつなのかは全く分からないが、とにかく僕が一週間経ったと思ったのだからきっと今日で一週間なのだ。
教室で連日繰り返される、涼宮さんが言うところのパターンの決まった問題をひたすら解かせるという授業形態にはさすがに飽き飽きしていた。公式を覚えさせるだけなら物言わぬ参考書にだって出来る。せめて解説の際に理論や理屈ぐらい説明してやればいいのに、と異国の地に突然一人で放り込まれてしまったような絶望的な表情をしている学生を見る度に哀れに思った(一応特進クラスであるのでそんな人間はごく少数なのだが)。

しかし今日ばかりは違った。黒板に並ぶ白い記号の意味が僕にも一向に理解出来ない。何度見てもアルファベットと数字が意味無く羅列されているようにしか思えない。一体この教師は何をしているのだろう。こんなランダムに選ばれた何の規則も持たない出来そこないの暗号を書き並べて。

――最近、無意味に感じる時間が多すぎやしないか。

腕で作った杖に頬を乗せる。
睫毛を揺らす風の向きに誘われるまま顔を動かせば、開け放たれた窓と青い青い空がある。
目に痛いほど濃くもなく、雲の存在を許さぬほど澄み切ってもおらず、しかし手を伸ばす気さえ起こらないほどに高い空。切れ間無く広がり続け、緩やかな弧を描く。地球は丸い、とぼんやり思った。
そして、その全てを許容するような空に確固たる存在を叫ぶ太陽がひとつ。どこか普段より落ち着いた光のような気がするのは今日の空のお陰なのだろうか。

僕は、直視出来ない燃え盛る球体に見る者が目を細めてしまう程に輝く笑顔を持つ少女を浮ばせる。
それから、優しい青白い光にそんな眩しい少女を呆れ顔の割りに優しい目で見る   を・・・

「―・・・ん」
「・・・・・」
「・・・古泉くん?」
「っえ?」

掛けられた声に慌てた自分に内心舌打ちしながら、首を捻る。
隣の席の女生徒(確か日野さん、という名前だったと記憶している)が僕の顔を軽く覗きこんでいた。彼女のちょっと短めの眉が八の字になっている。怪訝、というよりは心配、という印象を受けた。

「なん、でしょう?」
「ええと、・・・授業、終わってるよ?」

彼女の遠慮がちな言葉に、ぐるりと教室を見回す・・・必要もなく。
笑い声や、椅子が立てるガタガタとした乱暴な音、いつの間にか白い跡しか残っていなかった黒板。
前の席の女生徒は教科書とノートをそれはそれは几帳面に机の中に揃えて仕舞っていた。

「大丈夫?授業中ぼうっとしてたみたいだけど・・・」
「ご心配には及びません。本当にちょっとぼんやりとしていただけで」

有り難う御座います、と体に染み付いた笑顔を向ける。少女の白い頬が色をほんの少し変えた。
僕は、そんな可愛らしい純粋な想いを向けるに値する人間ではありませんよ。
と、口には出さない声で自嘲した。
それならいいけど、と机から離れる彼女を僕は一度呼びとめた。

「なに?」
「今日の数学・・・何をやっていました?」
「何って・・・やだ古泉くんったら」

彼女は肩より少し長い髪を揺らして吹き出した。そんなに内容を聞いていなかったのが可笑しかったのだろうか。

「さっきの時間は化学でしょ?」

僕は笑顔を忘れて、黒板横に貼られた手書きの時間割を見る。



今日は、木曜日じゃなく金曜日だったのか。







***


「こんにちは。・・・あれ?貴方だけですか?」
「悪かったな、俺だけで」

僕が部室にやって来ると、そこには珍しくも湯飲みに自ら茶を注いでいる彼の姿しかなかった。
他の面々はどうしたのかと僕が声に出す前に「朝比奈さんの撮影に屋上まで行ってる」と彼は先回りして答えた。

「貴方は行かなくて良かったんですか?」
「俺が部室に来たらちょうどハルヒの奴が飛び出して来てな。『今から撮影してくるから!』とか言って半泣きの朝比奈さんを凧揚げの凧みてぇに引っ張って走り去ってった」
「ははぁ・・・なるほど」

ようするに興奮気味の彼女に置いて行かれたということか。
僕は定位置に腰を下ろして、どこかむすりとしているようにも思える彼の横顔を見つめる。彼の顔を見るのが久しぶりだと思うのはなぜなんだろう。毎日とは言わないがかなりの回数ここで会っているはずなのだが。

「ほらよ」
「・・・ありがとう、ございます」

渡された湯飲みに一体何事かと思った。
ついでに淹れてくれたらしいことは分かるが、彼が僕に対して気を回してくれるということは早々無い。
・・・いや、それは全員でいる時だったな。彼は一応二人きりの時であればそこまで自分を邪険に扱うことはしなかったはずだ。
そんなことさえ忘れている辺り、やはり一週間という時間は無駄ではなかったのだ。これなら元通りになる日も近いだろう。

「オセロでもします?」

彼の後ろにある箱を指差して僕は微笑む。

「・・・まあ、暇だしな」

けれど、不本意そうに頷いた彼は僕の顔を見なかった。











「お前どうするんだ?」
「なにがです?」

白い石を黒へと二枚裏返しながら返す。
白ばかりの盤面だ。それなのに二枚しか裏返せないとなると、もう挽回は無理だろう。

「卒業したら。お前の志望校とかどこなんだよ一体」
「はあ・・・一応進路確認表にはT大医学部と書いてありますが」
「・・・お前って本当に嫌な奴だよな」

顔を上げると、「不愉快」を前面に押し出した彼と目が合った。
僕は困り顔で肩を竦めた。彼は僕の石を三つ裏返してからこちらを見る。
参ったな、置く場所がないじゃないか。

「まあ、受かったところで行くかどうかは別問題ですが」
「はあ?T大受かっといていかねえとか・・・」
「涼宮さんが行く大学が別であればそちらへ行く事になるでしょうから」

パスを宣言した僕の発言に彼の思考が揺らいだのが手に取るように分かった。次の石は彼の指先から離れず、スムーズに進んでいたはずの会話の間が異常なほど乱れた。

「まだ・・・ハルヒの監視すんのか」
「ええ。今の時点では、ですがね。僕としては監視の任から解かれる可能性のが高いと思っているのですが」

目の前をチラつく前髪を指先で払い、盤上を見据えながら苦い顔をする彼に胡散臭いと称され続けた笑顔で答える。 彼は次の手を長考するかのごとく真剣な面持ちで口を噤み、平たい磁石入りのそれをなぜか掌の中に収めた。

「お前・・・もう良いんじゃねえの?」
「・・・と、言いますと?」

低く掠れた声で彼はぽつりと零した。
僕は明らかな雰囲気の変化に無頓着な振りをして両肘を机につく。自然と口角の上がる口元を隠すように両手の指を組み合わせた。

「だからさ、ハルヒの力も弱まって来て、・・・俺の、面倒な任務とやらももう関係ないわけだしな。別に自分のやりたいことやったところでバチは当たんねえと思うぞ」
「心配して下さっているんで?」
「一応な」

あっさりと心中を認めた事にわざとらしく目を見張って、思わずといったように笑った。
それらは演技以外の何者でも無くて、つまりは、そう、僕はとても苛立っているのだと思う。

「お言葉ですが、貴方は僕の心配などしている場合ではないと思いますよ。まさか再度の呼び出しを貴方が望んでおられるとは思えませんが」
「・・・わかってるよ」

僕のやや直接的な嫌味に彼は少し拗ねた口調だった。
握りこんでいた石はすんなりと置かれて、僕の石はまたもや3つ白に変わる。先ほどの逡巡は見られない。
ようするに今の彼は、僕がどういった言葉を返すかでその行動と表情をあっさりと変えるのだ。
彼は、僕を・・・僕の反応を恐れている。

「僕の事を心配していると仰るなら、涼宮さんと同じ大学への進学を貴方にお願いしたいですね」
「そりゃどう考えても無理だな。アイツと俺じゃ認めたくはないが頭の作りが違う」
「貴方はやる気さえ出せば出来る方だと思いますよ」
「そうかい、そりゃどうも。気休めにもならねぇがな」

だから彼は僕が普段通りの顔をすれば安心して会話を交わすのだ。
なんて分かりやすい。
貴方は一般人のくせに特別で、何を考えているのか見透かせなくて、冷めているのか熱いのか、優しいのか残酷なのか分からない人のはずだろう。僕はその言動に驚かされたり、呆れたり、動揺するようなことも、微笑ましく思うことも、嬉しくさえ感じることもあって。

「それが出来ないと言うのであれば、そうですね・・・」

ここにいる彼は、なんなんだろう。
どうしてこんな、この地球上にうごめく大多数の人間のように振舞っているのか。
知らない。


――知りたくない。



「涼宮さんと結婚でもしてくだされば万事解決なのですが」



緩んだ空気は張り詰める過程を取らずに、爆発した。



「・・・・!お前な・・・ッ!!!」

ガシャン、と鳴ったのはオセロか、倒れた湯呑みか、彼に勢いよく叩かれた机か。
長机の惨状を眺め、ゆっくりと彼を見上げる。「激昂」と言う言葉のよく似合う表情で僕を睨み下ろしていた。
興奮で真っ赤になった顔で、ぎりぎりと音がする程に歯を噛み締めている。
僕は真正面でそれを受け止めながら、彼がここまで怒りを露にしたのは、朝比奈みくると長門有希が危害を加えられた時以来かと静かに考える。
機関に所属する僕にとって彼の感情ようなものには恐怖は微かにも覚えない。

「何を怒ってらっしゃるので・・・?」

自分でも笑ってしまうほど冷えた声が出た。
いや、きっと笑っていたに違いない。

「・・・俺に、それを・・・聞く、のか・・・っ」
「ふふ、そうですね」

僕はゆっくりと椅子を引いて腰を上げる。彼がほんの一瞬ではあったが身構える気配があった。
机の縁に手を滑らせながら僕は向かい側まで歩いていく。ひた、ひたと上履きが床と接触する音が妙に響く。

「な、んだ・・・」

真横まで来た僕に彼は怯えを混じらせ始めた。左足が、後ろへ下がった。

「いいえ・・・なんでもありません」

僕は優しく優しく微笑みながら、腕を真っ直ぐ彼の咽喉仏に伸ばす。
逃げようとしなかったのは、彼のプライドか。
触れた掌に熱病に掛かっているかのような体温と少し早い血流のリズムが伝わる。
向かい合った彼は、戸惑いのない視線で僕を見返していた。無表情ではなく覚悟の決まったような瞳。

でも僕は嗤った。彼のそれは全部嘘っぱちだと知っていた。

「震えていますが・・・?」
「ッツ!」

可哀想に。
貴方なら愛すれば愛されるだろうに。それだけの魅力を持っていると彼以外の誰もが知っているのに。
それが僕でなかったなら、その怒りも、怯えも、震えも、なかったろうに。

「そんなに好きですか?僕の事が」
「自惚れ・・んな・・・っ!」

筋肉の痙攣を抑えられなくなった彼が、軽く絞まった咽喉から吐き捨てる。
僕は親指の腹に強すぎない力を加えながら、勝手に動く舌と声帯で一生黙っていようと思っていたはずのことを口にしていた。

「そうですか。夜の公園で大泣きするほどですから、余程僕の事が好きなのかと。勘違いでしたか」
「・・・お、前・・・見て・・・・」

彼の目がこれ以上ないと言うほど見開かれていく。瞳が割れそうなほどで、僕は空いた左手でその瞼を閉じてやるべきかと考える。しかし僕の腕が持ち上げられるよりも、彼の下ろしていた右手が僕の襟を掴む方が先だった。

「・・・っざ、けんな!!!」

掴みかかった彼のせいで、一番上まできちっと締められていたカッターシャツの襟元と彼の拳が気道を軽く塞ぐ。
顎を下げられない姿勢が多少きつい。

「充分だろうが!ええ?!一年近く騙し続けておいてまだ気に食わねえってか?!」

彼の声が遮るものもなく僕へと叩き付けられる。

「普通に会話して、ショック受けてないフリしてんのがお気に召さなかったわけか。じゃあ馬鹿みたいにうろたえて取り乱して縋ったりすりゃ良かったかよ?!」

咽喉から血が出てもおかしくないほどの音量で叫ぶ。彼は感情の昂ぶりで荒くなる呼吸で肩を上下させては、何かを振り払うように数度首を振った。

「内心、死んじまいたいくらいだったの・・・・・・、見てた、なら・・・気付いてたんだろうが」
「・・・・・・」

僕の首元で作られた彼の拳は震えていた。
彼の頭は、力なく下げられた。

「おまえに、これ以上嫌われたくなくて必死だった・・・それじゃ、足りなかったのか」
「・・・・・・僕は別に貴方の事は嫌いではありませんが」

冷静に答えた僕に彼がどんな顔をしたのかは見る事が叶わなかった。
気が付けば僕は床の木目を見ていた。左半身がひりひりと痛む。
ああ、殴られたのかとわざわざ脳で呟くと、肯定するように脈動に合わせて右頬が痛んだ。

「・・・てめぇはどこまで・・・ッ」

馬鹿にされたと取ったのだろう。両手をついて身体を起こす僕の背に泣きそうな彼の声が降って来た。
おかしいな。彼は怒っていたんじゃなかったのか。

「僕、は・・・
「・・・っきゃ、ッ」

この部屋で聞こえるはずの無い声に僕も、彼も動きを止めた。
声の出所に眼球を動かしていけば、そこにはいつの間に来たのか真っ青な顔をした朝比奈みくるが立っていた。

「朝比奈、さん・・・」

彼は今にも泣き出しそうな朝比奈みくるに言葉が紡げないでいる。
彼女は彼と僕の顔を何度も見比べて、机の上に散乱するオセロと倒れた湯飲みと、湯呑みから溢れた茶が机の端から滴り落ちているのを見て両手で口元を押さえた。

「あ、の・・・あ、あたし・・・」

ついに彼女はその大きな瞳に涙を溜めた。状況が把握出来ても原因が把握できない彼女はどう対処して良いか分からないのだ。どちらかに駆け寄るべきなのか、叱るべきか、慰めるべきか、知らぬ振りをすべきか、選べないでいる。

僕は、葛藤する彼女の横をするりと抜けた。

「こ、古泉くん・・・っ」

完全に涙声の彼女の呼び止める声に無視をし続けると、暫くして朝比奈みくるが彼に掛け寄る気配がした。



僕は、何がしたかったのだろう。





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※And if I die before I wake = もし目覚める前に死んだなら



4話。ついにキョン切れる。古泉はMなのかSなのか判断に困ります。古泉の病みっぷりが絶好調で申し訳ない。
(07/06/28)