3. 僕は留守電を聴こうとして、「あ」と声を上げた。 理由は電話機の隣に無造作に置いてあった腕時計。 どこにでもあるような銀のシンプルな男性用の腕時計は、僕の物ではなかった。 そして、僕の物でないとすれば結局彼の物ということになる。なぜか。この結論に至るのに特に深い思索は必要ない。この部屋に彼以外が入った事はないのだ。なら誰が考えても答えは同じだろう。 やっぱり、僕の家にあったのか。 そう心中で呟いた瞬間、僕は僕がしようとした、優先すべき事柄を消失させた。 『彼の腕時計』を意識に入れたことで、『留守電』という単語は僕の脳から無抵抗に追い出されてしまったらしかった。 「古泉」 彼が僕の名を呼んで引き止めた時、僕は振り返るかどうかを迷った。 しかし、SOS団の活動が彼の疲労の様子に早々にお開きになったところで(「全体の士気が下がる」と言っていたが、あれは彼女なりの心配だったのだろう)下校が彼と一緒になってしまうのは集団下校を常とするSOS団では避けられない事態だった。 「何か?」 僕は何食わぬ顔で振り向く。彼はちょうど上履きを下駄箱に戻しているところだった。革靴は適当に放ったのか、右の靴は側面が上向きになっていた。彼は足先で元に戻しながらぐいぐいと足を詰めている。 履き方は乱暴なのに、なぜか上履きの踵はきちんと揃えて入れている辺りが彼らしい。 「あのさ、古泉」 「はい」 小走りに近付いた彼は切り出してから躊躇い、周りに目線をざっと走らせてから少し抑えた声で言った。 「お前んちにさ、俺の時計ないか?」 「時計・・・ですか?・・・どうでしょう、あったかどうか・・・」 時計、ようするに腕時計のことだろう。思い出せる範囲内で記憶の中で部屋を探してみるが、腕時計を視界に入れたビジョンは生憎やってこなかった。 彼は家にないんだよ、と罰が悪そうに言う。 確率としては確かに僕の家にある確率が一番高いだろう。彼が時計を外すような場所は、彼の家と僕の家ぐらいしかないのだろうから。 「帰ったら探してみます。ありましたら明日持って来ますよ」 「そっか。悪いな」 「いえ」 首を振るのと同時に、遠くからも良く通る我らが団長殿の御声が僕らを呼んだ。 行かなくては、と歩き出したが、少し後ろでまだ歩き出していない彼にはまだ何か言う事が残っていたらしい。 「・・・あとさ、」 「?まだなにか?」 「・・・」 逡巡する彼に、早くしないと涼宮さんが機嫌を損ねますよと促す。 「いや、さ。・・・他に俺の忘れモンとか出てきたらさ」 彼は鋭い角度で差し込む赤い光を嫌がるように顔を下斜めに下げながらも、僕を見た。 これは笑顔のうちに入るのだろうかと、一瞬悩むような中途半端な表情だった。 「・・・捨てといてくれ」 そう言ったきり、彼は口を閉じた。 気まずかったのか、単に用件が済んだだけなのか、もっと他の理由があるのか。僕にはそれは分からなくて、とにかく頷いておいた。 彼はもう一度、悪いな、と呟いた。 BGMのように流し続けていたニュースではなく、僕はブラウン管の右上に表示された時刻に目を走らせる。 彼の時計は、3分ほど早まっている。 そして僕の時計は6分遅れていた。 僕は、高校指定の鞄の中へと彼の腕時計を放り込んだ。 なぜか少し乱暴な所作になった。 *** 特記すべき事などあるはずもない平和すぎる現状で、どうやって報告書を作成しろと言うのか。 苛苛とデスクの上で指をタップさせつつ、僕は「報告すべき事はありません」と白紙の報告書を突きつけてやろうかとまで考えた。 態々報告するような異質などあったろうか。彼と僕の関係の終焉は異変と言えなくもない、と考えて、むしろ異変ではなくこれは正常な状態に戻ったのか。と気が付いた。どちらにしろ既に上は認識済みの事実だ。 「・・・!!・・・ちょッ!?」 異変を感じた僕がパソコンのモニターから顔を上げたときには既に遅かった。乱雑に積まれた資料の山が僕の左側で小さな雪崩を起こしていた。 無慈悲にも滑り落ち続ける紙に手を伸ばして塞き止めたところで、もうほとんどがフローリングと衝突している。 バインダーが床とぶつかって立てるカツン、という音がなけなしの僕の気力を奪う。さらに、一枚一枚確認して並べ直す作業を決定付けるような光景が視覚的な面から僕に最後の止めを刺した。 「・・・・はぁ、」 腰を上げる気にもならない。 僕は椅子の背凭れに体重を掛けたまま、脇に置いてあったビスケット形の栄養補助食品を手に取る。箱に入っているにも関わらず、ひとつひとつ包装され小分けされている。過剰包装も甚だしい。それとも全部を一気に食べ切らない女性の為の心配りか。齧る。ポテト味が出ていたとは知らなかった。口の中の水分を奪う感触は相変わらずだが、意外と悪くない味だ。 ――お前なぁ、そんなんばっか食ってると身体壊すぞ。 ああ、そうか。 彼がそんな事を言ってカップラーメンやらサプリメントやらなにやらを禁止にしていたから、新商品を知らなかったんだ。 たしか『不健康なのは理解しているが、いつ呼び出されるか分からないのに悠長に料理など作っている訳にもいかない』 そんなようなことを説明して。それに彼がなんとも意外な返答をしてきたのが始まりだったか。 ――じゃあ、お前が帰ってくるまでに作っといてやる。 誰が。と、反射で問いそうになって慌てて「帰りを待つ新妻みたいですね」と冗談めかせた。 ――!何が新妻だ気持ち悪いこと抜かすな!閉鎖空間発生したんだろうがさっさと仕事して来い!! 背中を蹴り飛ばしてきた彼は驚くほど真っ赤な顔をしていた。 視線を部屋の真白い壁から、右方向へ動かす。 誰もいないキッチン。妙に綺麗な状態だと思ったが、あの日から一度も使っていないのだから当然か。 この視界に彼の後姿がないのがオカシイと感じた僕は、ついに頭がイカレたのかもしれない。 「・・・・・・」 料理の種類が日に日に増えるのに気付いていた。料理の腕が上がっているのも知っていた。 僕が口にするたびに、どこかそわそわしていたことも。美味しいと微笑む度に、こっそりと安堵の表情を浮かべていたことも。 食器も調理器具も整頓されたキッチンを眺めながら、僕は摘んだままのポテト味の残りを口内に放り込んだ。 「・・・ッ?!」 味の無い砂の塊のようなそれが舌の上に纏わりついて、ぐっと喉元に込み上げるものがあった。 慌てて立ち上がり、洗面台へと駆け込む。顔を下げた途端に待っていましたとばかりに喉の奥が開かれ、胃と食道が常には無い動きをするのが分かった。胃にはミネラルウォーターと先ほどのスナックなのか食品なのか種類分けに困るポテト味しか入っていなかったのだが、それら全てが排水として流れて行った。 大量の水で口の中を濯ぎながら、僕は柄にもなく混乱していた。胃液でひり付く咽喉と同じように脳髄もじりじりと焦げている。 顔を上げれば笑顔を絶やしてはならない筈の自分の酷く険しい表情があった。 どういう事だ。どうして吐いた。数十秒前まで何の問題もなく口に入れていて、美味しいと感じていたものをなぜ。 あれは砂の塊だった。思い返しても吐き気がする。 「全く・・・笑えないな」 これは完全に参っているとしか思えない。そんなに疲労が溜まっているとは思っていなかったが。 一文字も浮かばない報告書も、雪崩れた書類もそのせいか。 僕はゆるゆると首を振り、もう一度鏡の中のやつれた表情と見詰めあう。 ・・・・・・あれ?なん、だ? 鏡の右端。 左右反転して映る、 歯ブラシが・・・二つ。 目の前が、赤く爆ぜた。 熱の上がりすぎた頭は衝動的に片方を掴み取らせ、そのままゴミ箱へと投げ付けさせた。内側にかつん、と当たって跳ね返りながら僕の目から消えた。 「・・・はぁ、・・・はっ、」 息を整えながら、ふらふらとリビングへと戻る。寝てしまおう。報告書なんて明日だって構わない。 だめだ、だめだ。このまま起きていたら碌な事にならない。 貧血でも起こしたような吐き気と三半規管の揺らぎに、ややもすると床に落ちてしまいそうな予感を感じる。 暑くもないのに汗が止まらない。 「み、・・・ず」 まともに働かなくなった言語中枢で水分を求める。 シンクの縁に手を付いて、蛇口を捻って、コップがないことにはっとして。 僕は見つけてはならないものに手を伸ばしてしまった。 キッチンの食器籠、その中のマグカップ。 青と、赤の。同じ大きさ、同じ柄の、同じ・・・ 「・・・・・・あ・・・」 ――ペアとか気色悪いことすんな! それを得意気に見せたとき、彼は酷く激昂した。絶対使わねぇ、と吐き捨てて。 どうにか使ってくれないものかと宥め賺しても一向に機嫌は直らなかった。 だからこそ、仕方ないと諦めたその日に閉鎖空間から帰ってきた僕は、数時間前の遣り取りはなんだったのかと思うほど、当たり前のようにそれを使っていた彼に衝撃を覚えたのだ。 どうしたのかと、目を丸くした僕の問いに、 ――勿体ないだろうが と、やけに低い声でそれだけを言った。 その時は本当に演技でもなんでもなく、彼が妙に可愛らしく思えてついつい吹き出してしまったのだ。 彼は、やはりそんな僕に怒っていて・・・ 「・・・」 ――なあ、 「・・・やめろ」 いつの間にか僕の手には自分のではなく、彼用の青い、カップがあった。 ――どうか、したのか? 「・・・う、るさ、い」 脳が煮えたぎるというのはこういう事に違いない。 バクバクと呼吸を妨げるほどに心臓が動き、力の入りすぎた体が震える。 ――古泉、おま・・・ 「――ッ!!!!!」 部屋に甲高い音が反響して、脳内で聞こえ続けていた声は途切れた。 ぐったりと落とした視線の先で、青い破片が散っている。陶器の取っ手だけが、フローリングの上でゆらゆらと揺れている。 僕は静かな動作で籠の中のもうひとつも手に取り、既にゴミになった元マグカップの上に叩き落とす。 いくつかに割れたそれがフローリングの木目に傷を付けながら大きく跳ね、裸足の足元を細かな破片が掠っていった。 赤と、青のガラクタが床の上で交じり合う。高鳴っていた心臓はいつの間にか落ち着いていた。 「・・・・」 僕は、急に閉鎖空間が恋しくなった。 何かを破壊したかったのか、僕自身が傷付けられたかったのか、ただぐちゃぐちゃになった脳が間違えた判断を下したのかは、分からない。 足の項がうっすらと切れている。 燃えないゴミの日はいつだったろう。 Next→ ※And if I die before I wake = もし目覚める前に死んだなら 3話。ヒステリー古泉。若干病んできた。そしてお前らどんだけバカップルだったのかと小一時間(ry (07/06/22) |