1. 僕がそれを口にした時、彼の表情は見えなかった。 次の場面にはもう、目を丸くしただけの彼が半分口を開いて間の抜けた声で「は?」と聞き返していた。 「ですから、もう貴方と付き合う必要がなくなったので別れましょう、と」 「必要がなくなった・・・ってどういうことだ」 挑みかかるような双眸に僕は過剰なアクションで肩を竦めた。これももう今では体の一部のようになってしまった。 貼り付けたような笑顔も、遠回しな物言いも、オーバーな所作も。一体どこまでが素の自分であったのか既に思い出せない域に来ている。 「涼宮さんの力がほとんど皆無と言ってもいいような状況になったということですよ。貴方のお陰ですかね」 監視を続けて二年半。少しずつ、しかし確実に穏やかになっていく彼女の改変能力は、もはや観測出来ないほどにまで大人しくなっている。閉鎖空間に最後に行ったのはいつのことだろうと考える辺り、その程度を推し量って頂きたい。 彼女の心は監視を始めた頃とは雲泥の差ではあるが、それよりも衝撃的なのは『彼女が苛立っても閉鎖空間が発生しなくなった』ということだろう。 涼宮ハルヒはついにどこにでもいる少女になろうとしている。 「それは聞いた。朝比奈さんも長門もいる必要がそろそろなくなるだろうって話だろ」 「そして僕もね。寂しい話ですが」 「だからそれとこれとどういう関係があ・・・」 言い終わらぬ内に彼は舌を動かすのを止めた。 ああ、そういうことか、と彼は小さく口の中で呟きながら全身の力を抜いた。呆れたような疲れたような顔は彼が最も良く見せる表情のひとつだ。 「察して頂けて何よりですよ」 にこり、と30度程度頭を傾けて微笑む。彼はこれでいてなかなか頭が良い。 話していて、心地良い察しの良さを持っている。 「ようするに、全部お芝居ってやつか」 「ええ、その通りです。貴方の事を好きだというのも、キスしたり、セックスしたりね。そういうものも全部上からの命令です」 彼は激昂するだろうかと思ったが、ただ静かに「そうか」と言った。 「『やっぱり』だなんて言うと負け惜しみみたいだが、全部演技だって分かった瞬間、その方がしっくりくるなと思ったよ」 一陣の風、というには穏やかな風が僕の伸びた前髪と二年半経ってもスタンスを崩さなかった彼の短い前髪を揺らした。日中は過ごし易いと思われた気温も、日が完全に沈みきった今は少々肌には苦痛に感じられる。 「どう考えてもお前が俺を好きになる要素も、それだけの時間も見当たらんからな」 彼はマンション入り口の植え込みの縁に腰を下ろした。僕はあえて座らなかった。 短く切りそろえた濃い茶の後頭部に意外と整った形の指を差込み乱暴に掻き回す。空気を吸う為ではなく、言葉を発する為に開いた唇が躊躇いに開閉される。 「あー・・・なんつーか、だったら悪かったな」 「いえ、謝るのはこちらの方ですから」 これは本心だった。彼が謝る要素などある筈がない。『騙された方が悪い』などという台詞を彼に吐ける程、自分は崇高な人間ではない。 「でもさ、俺を丸め込むっつー目的なら、ん?そういう目的なんだよな?だったら友人でも良かったんじゃねえの?」 俯き気味だった顔も、見ればただの好奇心しか映していなくて正直拍子抜けした。 なんだろう、もっとうまく彼を取り込んだつもりでいたのだが。どうやら僕の恋愛スキルはまだまだだったらしい。 一時は結婚詐欺師になれそうだと本気で思ったものだが。 「いえ。もし長門さんや朝比奈さんと僕らが対立した場合、あなたは長門さんや朝比奈さんの側に確実につくでしょう?その為の策です」 「今までの状況でも、長門や朝比奈さんの方につくぞ俺は」 「あはは、確かにそうかもしれませんねぇ」 眉を下げて苦笑して、彼がそれに少し眉を寄せて笑う。 別れ話の最中だなんて誰も信じやしない。明るすぎて、普通過ぎて、今までの関係は任務であろうとなかろうと元からまやかしであったとそう言う事なのかもしれない。すんなり話が通って有難いが、何だか口惜しいのもまた事実で。 彼はそんな複雑な心持の僕を見上げながら、挑戦的な目で唇を引き上げた。 「ただ、お前をこっち側にする努力は死ぬ気でするだろうけどな」 「嬉しいお言葉です」 彼は両手を膝に付いて立ち上がり、ジーパンに付いた砂埃を掌で払う。 僕のマンションを出てからほんの30分も経っていないのを袖口から確認した時計で知って、苦笑とも自嘲ともつかない笑みの衝動が喉元に押し寄せる。 「つーか卒業式にでも言ってくれりゃあ良いのによ。なんでまたこんな受験直前に」 「すみません、なるべく早めに言ったほうが良いかと思いまして」 まあ、俺がお前なら確かに開放された瞬間に切り出すな。と騙されて裏切られたはずの彼が僕にフォローを入れる。 まるで人事の様な態度じゃないか。可笑しくて堪らない。大声を上げて笑ってしまいたい。 「んじゃあ、また明日な」 「ええ。普段通りでお願いしますね」 「分かってるよ」 彼は戸惑うことなく僕に背を向けた。その姿が寂しげに見えたとか哀愁を帯びていたとかそんなこともない。 僕の家に来て、帰る。それだけの意味合いしかない背中だった。 しかし彼はひた、と足を止める。そして半身で振り返って一言。 「今まで、有り難うな」 と、そう言って笑った。 諦めたような吹っ切れたような悲しいような慈愛に満ちたような、なんとも言い難い種類の。 ――ああ、こんな顔で笑う人だったろうか。 そんな事を考えて、まるで本当に恋人であったかのような思考をしている事に驚いた。 「いえ、こちらこそ」 彼は背を向けたまま片手を上げ、僕の社交辞令に答えてみせた。 下校時の挨拶となんら変わりない彼が違和感に満ちていたのは、単に僕がもっと修羅場になることを予想していたからなのだろう。殴られる覚悟だって、していた。 *** 彼の姿が見えなくなり、気配さえなくなるまで見送り(これは礼儀としても謝罪としても当然だと思われた)、僕はゆっくりとマンションを振り仰ぐ。ぽつりぽつりと光る窓にどうしてか一抹の寂しさとでも言えるものを感じずにはいられなかった。 ――ああ、きちんと謝っておけば良かったかもしれない。・・・いや、それは彼に失礼か。 利用するだけしてやろうと思うには彼は優しく人が好すぎて、はっきりと事実を告げた後も開放的ですっきりとした気分には到底なれなかった。 「・・・寒くなってきたな」 襟元から入り込む空気に鳥肌を立てた僕は組んでいた腕を解き、両手をポケットに忍び込ませる。 オートロックの自動ドアが開く静かな音を耳に入れながら、僕は牛乳を切らしていたんだったと急に現実的なことを思い出した。別にそんなもの明日でもどうにかなるのだが、思い出した時に買っておかないと忘れてしまうのだ。「そういえば牛乳がなかったんだ」と一週間思い続けるのは面倒なことだ。 それはボケの始まりだぞ、と眉間に皺を寄せていたのは、彼だったろうか。 ちかちかと光る砂粒のような星を何の気なしに見上げて、彼はまだ家には着いていないだろうなとぼんやりと考えた。 スーパーまで歩くよりもコンビニの方が近いと言うのは有難いことだ。 特にいつ何時呼び出されるか分からない不規則な生活を送っている身としては、深夜に空いているコンビニの方が何倍も重宝する。 だらけた足取りで深夜の散歩か。半年前にはとても恐ろしくて出来なかったことだ。 『謎の転校生』というキャラクターとしては、品行方正な優等生的なイメージを崩さぬよう行動しなければならなかった。勿論、二年以上SOS団副団長としてやっていれば彼女がちょっとやそっとのイメージの違いで、癇癪を起こすなどとは到底思えはしなかったのだが。上層部にそんなことが理解出来るはずもない。 『お前本当、雑で乱暴だよな』 当たり前のようにそう言われて、らしくもなく動揺したのを覚えている。 なんて事だ。思い出すのが彼に関するものばかりで軽い自己嫌悪に陥りそうだ。機関はどう考えても僕が心底気に食わなかったとしか思えない。 鬱々とした気分のまま小さな公園の前に差し掛かる。ジャングルジムと滑り台と砂場、・・・ああ箱型のブランコは危険だからとか何とか言う理由で全国的に撤去されたんだったか。薄闇で塗られた赤や黄色の遊具に子供の影がないだけで酷く物寂しい。 「・・・・・・え?」 どこか郷愁を呼び起こすような景色を横目に流していた僕は、植え込みの隙間から見えてしまったものに足を止めた。 無人の公園の真ん中に人がいる。不審者かと思ったがそうではないのはすぐに分かった。 何をするでもなく直立する影。 ――彼、だった。 まるで砂利道に生えた貧相な細木のように、危ういバランスで立ち竦んでいる。 確かめるように一歩近付き、二歩近付き。彼は僕に気が付かない。 「・・・・・・・っ」 風が吹くだけで倒れそうな身体の、その両肩が震えていた。 微弱な震えではなく、不規則に跳ねる肩。 「・・・ふ、うぅ・・・っく」 泣いているんだ。 微かに届いた音に冷静な声が脳にぽつんと落ちた。 子供のようにしゃくり上げては、乱暴に袖で目尻を拭う。 それでも溢れて止まない涙に、彼はついに膝を崩した。しゃがみ込んで顔を腕で覆い、声を殺さずに泣く。 彼が泣くところなんて、想像も付かなかった。 弱弱しく膝を抱えて泣きじゃくる男子高校生、だなんて寒すぎて笑えない。それでも僕には彼を嫌悪する資格がない。 指を指されて笑われるのは、詰られるべきなのは一体どこの誰だ。 平気そうに「やっぱりな」と呆れた声も、「ありがとう」と言った笑顔も、今思い出せばなんて無様なほどに無理をしたものだったのか。 それに気が付かなかった自分は、やはりどこかで冷静ではなかったのだ。 僕は音を立てずに踵を返す。走り出しそうになるのを必死で抑えて彼から逃げ出した。 コンビニも牛乳もどうでもいい。そんなもの。 「―― ッ!」 罪悪感で心臓が痛くて死にそうだ。 彼のことは嫌いではなかった。男を好きな振りをして、触れ合って、キスをして、セックスをして、だなんて吐き気がするほど嫌だったのに、それでも彼の事は嫌いではなかったように思う。彼と毎日ボードゲームをするのは好ましかった。顔を付き合わせて会話をして、事件があればSOS団の一員として動いて、笑い合って。それが任務でも、恋じゃなくても、友人としてであっても。 任務のために、世界の為に、きっと犠牲は必要悪なのだろう。 ――けれど、傷付くのが彼である理由は本当にあったのか。 そんな風に自分を正当化していることに、吐き気がした。 Next→ ※And if I die before I wake = もし目覚める前に死んだなら 1話。機関の命でキョンを取り込んでいただけだった黒泉。 あと、これ確かマザーグースだったような気がするんですけど合ってるのかしら?(確認しろ) (07/06/17) |