いないせいで(下)



 目を覚ましてみれば、体には布団がかけられていた。将は驚いて、身を起こす。部屋は暗くなっていたが、ドアの隙間から明かりが漏れていた。消し忘れている訳がなかった。寝室に来たのは外も明るい昼下がりなのだから。
 将は慌ててベッドから降り、ドアを開けた。
 キッチンに、包丁を操る潤慶がいた。眠っている間に三日過ぎたのだろうかと将は目を見張った。
「あ、起きたんだ」
 潤慶は、顔を上げて、にっこり笑った。手を拭いて、将の側に近づいてくる。
「布団かけて寝ないと風邪引くよ」
「ユン君、どうして」
 カレンダーの日付を眺める将に潤慶は笑みをまたも深くした。
「あいたくって、来ちゃった」
 嬉しさに息もつまる将だったが、はっと自分の痴態を思い出し、焦った。終えた後は、すぐに服の乱れを直したはずだが、ゴミがある。匂いもあったのではないだろうか。考えるほどに頬が熱くなる。
「……いつ、帰ってきたの?」
「うーん」
 潤慶は可愛らしく首をかしげ、時計を見た。
「二十分くらい前かな。買い物して来たから」
 一応、嘘ではない。荷物を片づけた潤慶は、実際、買い物に出かけていた。
 露骨に安堵した顔を見せた将の頬を潤慶はつついてみた。
「あれ、何かしてたの?」
 可哀想なくらいに将は赤くなった。
「な、な、何でもないよ」
 どもりつつ言い返すところが、何かあったに違いないと事情を知らぬ者でも思わせる。
 ましてや、しっかり目撃している潤慶である。そうなんだ、とうなずきつつも、溢れてくる笑みはごまかせない。
「どうして笑ってるの」
 将に訊ねられ、あははと潤慶は笑った。
「そんなの将に会えて嬉しいからに決まってるよ」
 本気で言った後は、いよいよ、お楽しみの始まりである。

 夕食は潤慶が作った。途中から将も手伝ってくれたので、スムーズに、二人の食欲を満たす量の料理が出来上がる。
 潤慶は適当に結構な量、あえていうなら、三日間、買い物に行かずとも、充分、三食食べられる量、間食に最適な食べ物ももちろんのこと、酒だってたっぷりと買い込んでいたから、韓国料理だろうが、スペイン料理だろうが、日本料理だろうが、何でも出来た。潤慶と将の二人がこの食材料を使う。
 元から料理の基礎は出来ていた将、一人暮らしを始めてから、プロとしての自分の体も考えて、腕は上がっている。そこには料理好きの若き日本の守護神の影響と指導もあるだろうが、とにかく手際も良く、味付けも文句ない、というところで、大方の意見は落ち着く。ついでに、一生、食べてみたいと思うところでも、大方の意見は落ち着く。なので、潤慶にとっては最高の料理人である。一生、食べられて幸せ、というところだろう。
 その潤慶の自炊の腕は、というと、そこそこである。適当に見えて、そうでもなく、計算されたようでそうでもない。気まぐれなのだが、いつも食べられるほどのおいしさに仕上がる。将の場合、そこに恋のスパイスがふりかけられるから、何よりのご馳走になるのだ。
 仲良く、材料を切るなり、茹でるなり、炒めるなりして、潤慶は将に貸してもらった黒いエプロンを、将は青のストライプのエプロンをして、キッチンに二人で立っていた。
 ついつい伸びそうになる手を引っ込めながら、潤慶は笑顔を振りまいていた。たまに、わざとらしく偶然をよそって触れると、将はもう、本当に素晴らしい反応を見せてくれた。
 行き着くところまで進んだ関係だというのに、この初々しさ。自然、ゆるむ口元が、明日も一緒にいられるという幸福を噛みしめきった言葉を発する。
「明日は僕がパエリヤ作るよ」
「うん」
「ワインはそのとき開けようね。おいしそうなの買ってきたんだ。今日はビール」
「いいのかな」
「いいの。ぼくが帰ってきたお祝い」
 将はうれしそうにほほえんだ。潤慶もにっこり笑った。誰のために世界があるのかといえば、この二人のためにとしかいえない。
 夕食の席では、主として互いの職業でもあるサッカー談義に花が咲いた。話に熱中する将の顔をにこにこと見つめつつ、潤慶は、やはり彼は同じプロとして決して、侮るべき存在ではないと、これもまた何度目か分からない再確認をする。
 あとは惚れ直していた。潤慶は将といるときは十回くらい、惚れ直している。将は、たぶん十五回くらいなので、いい勝負になるだろう。
 将が握るとお箸もかわいいなあと思いつつ、潤慶は混ぜご飯を食べている将の口元を眺め、動いている唇もかわいいなあと考えていた。そこに、きっかけともいえるものを見つける。
「将、ご飯粒、ついてる」
「え? どこ?」
 お約束通り、反対側の唇の脇を探る将に手を伸ばす。将の指を握り、ご飯粒のある場所へと動かす。
「ね?」
「あ、ほんとだ」
 将がうっすら頬を染めつつ、うなずいた。
 潤慶は笑い、ご飯粒がついたままの将の指へ唇を寄せた。ほんの少しだけ舌を出して、ご飯粒を舐めとった。将の指には、ちりりと火傷のような疼きが残される。
 潤慶はゆっくり指を離した。その際、将の手首の内側をそっと撫でた。
 二人の関係、とくに肉体を絡めて考えれば、積極的なのは潤慶の方であり、誘うのもほとんどが彼だ。将の場合は、無言というか、雰囲気で誘う。なので表面的には、毎回、潤慶が誘う形になる。
 こういったことにも向き不向きがあるのを潤慶は承知していたので、とくに不満には思わなかった――第一、始まってしまえば、思いの外、将は大胆なのだ――が、見られるものなら自分を誘う将を見てみたいのは本当で、今回をいい機会にして挑戦してみた。
 もちろん、面と向かって将があっさり言えるとは思っていない。きっかけがいるだろうということで、潤慶は誘いをかけてみたのだ。
 将はかすれた声を出した。
「ユン君、今日は、その……ええと」
 将の顔がみるみるうちに赤くなる。瞳が濡れたような光を帯びる。唇がほんの少し、開いて、舌先がちらりと見えた。これは別に誘っているのではない。全部、無意識である。
 自分の幸運と辛抱強さ(それだって数時間の予定だが)ついでに、将に思いを寄せる者への同情を潤慶は抱いた。あんな顔見たらひとたまりもない。
「あの……夜」
 もし、将が、してほしい、とか、したい、とか言ったら、この場でかぶりつかないでいられる自信はなかった。が、どちらにとっての幸か不幸か、将は、肝心の一言は言わなかった。
 将は自分の浅ましい姿を思い出し、咄嗟に言い換えた。
「夜、良かったら、一緒に、ビデオ録画してある試合を見ない?」
 潤慶は、うう、と泣きたい思いで、しかし顔に出さず、首を振った。
「今日は疲れたから寝るよ」
 将は、はっと息を呑んで、頬を赤く染めたまま、うなずいた。
「そうだね……それがいいよね」
 耳たぶまで赤くなる将の横顔は、寂しそうで、潤慶は内心、悶えた。いや、まだだ。まだ、駄目だ。ぎりぎりまで我慢しなければ。追いつめて、追いつめて、とにかく、我慢なのだ。
 それだというのに、将の瞳は、いつもよりも熱っぽく、かすかに潤んでいるようにも見える。触れなば落ちん花の風情である。上げ膳据え膳、空腹をいっそう刺激させる匂いを上げながら食べて欲しいと訴えている。
 僕って、こんなに理性があったんだなと潤慶は我ながら感心する。将に関しては、えらく薄い理性だと思っていたのだが。
 その潤慶のさすがの辛抱も、風呂上がりの将を見て、切れそうになった。欲求をたたえた将は、直接、体に訴えてくるほどの衝撃がある。いやもう、これは最終兵器の勢いである。
 息も止まる潤慶を眠たいのだと思ったらしく、将はため息の口調で、そっと言った。
「じゃあ……お休みなさい」
 寝られるわけないじゃん、と叫びたくなる潤慶だった。

 将だって、そうだった。寝られるわけがない。会いたくて、触れたくて、触れられたくて、待ち焦がれていた相手は隣で健やかな寝息を立てている(それは将の勘違いで潤慶は起きている訳だが)。疲れていたからだろうと将は思い、そんな彼に自分の欲望を晴らして欲しいと頼もうとした自分が情けなく思えた。
 それでも身近で気配を知り、ぬくもりを感じ、匂いに包まれていると、頭の芯が痺れたようになってくる。体中がざわめいて、中心がうずいてくる。このベッドで幾度となく、行われた行為を思い出して、体が火照ってくる。
 寝返りを何度も打って、そのたびに隣の気配に耳を澄ませ、知らず知らず、潤んでくる目をこする。気を抜くと、ため息がこぼれそうになる。昼間、なまじ、中途半端な慰めを得たために、ここにきて、いっそう体に火がついた。
 将はついに耐えきれなくなった。潤慶の名を呼ぼうとして、口をつぐむ。疲れた、という彼の言葉が重石のようにのしかった。この辺は、潤慶の失敗といえよう。
 将は震えるように息を吐いて、そろりと起き上がる。いよいよか、と思った潤慶だが、将は足音を忍ばせて、部屋を出て行く。
 恋人のあまりの控えめさと奥ゆかしさに、潤慶は呆れ半分、嬉しさ二割、残る三割悔しさで、心がいっぱいになる。一言、いや、名前を呼んでくれるだけでいい。そうしたら、望むこと全てかなえて、満たしてしまおうというのに。
 でも言えないのが将なんだよな、とベッドで見せる姿態を思い、潤慶はふっと笑んだ。
 ここで将を放っておくような聖人的な態度を取るつもりは、まったくなかった。潤慶は起きあがり、鼻歌でも歌うような顔つきで、将の後を追った。どこへ行ったのかは、音が教えてくれた。
 かすかな水音が響いている。潤慶は浴室へ向かった。

 ぬるま湯から、段々と温度を下げていく。だが、うねりは冷たいシャワーを浴びてもおさまってくれない。むしろ、煽られたかのように、将の体を支配しようとする。そこに触れれば、刺激を待ちわびていたのか、なおも熱を孕んだ。
 耐えきれなくなった将は決めた。
 一度だけだ。一回だけ。そうしてこの熱を治めてから、ベッドに戻ろう。
 シャワーの温度を上げ、体に浴びながら片手で握る。その途端、背筋を怪しいわななきが走った。長い息を吐き、将は空いた手を壁に付けた。
 うつむいて、目を閉じる。水音が心臓の音と重なって、どんどん早くなっていく。指が、将自身が望む細かな動きを始めた。時折、鋭く短い吐息を漏らした。
 一度でこの熱を収められるだろうかと自分の激しい反応に将が、恐れにも似た思いを抱いたとき、ドアがノックされた。
 将は一瞬、空耳かと思ったが、磨りガラスの向こうには人影があった。誰なのかは、分かり切っている。将はくらくらする頭で、体を隠すものを探してみた。
 あるといえばある。洗面器や体を洗うスポンジだ。もちろん使えない。将はただうろたえた。見られたらどうなるか。厭がられ、いやらしいと思われるだろう。そう思った。
 潤慶の将に対する貪欲なまでの愛情を考えれば、それがどれだけ不可能なことであるか、分かるのだが、周囲の人間全てが分かるこの事実を、将だけは分かっていなかった。
 どうしようと足を竦ませ、壁に指を置くばかりだ。
「――将? どうかしたの?」
 我ながら白々しいと思いつつ、潤慶は問いかけた。
「なんでも……ないよ」
「シャワー浴びてるの?」
「あの、寝汗、かいて」
 しどろもどろになりつつ、将は言い訳する。内側からは、なおも溢れようとする蜜のごとき欲望が、外からは理性を思い出させるような潤慶の声が、将の体を二つに割る。
「汗? こんなに涼しいのに?」
「あ……」
 もとより嘘だから、将に言い返すすべはない。たたみかけるように潤慶が続ける。
「ドア、開けるよ」
「それは……」
 将は自分の体を見下ろし、もうどうしようもない状態に陥っているのを、今更ながら、情けなく思う。けれど、男の摂理はすでに理性を痺れさせている。
「将」
 どことなく、かすれた熱っぽい声で潤慶に名を呼ばれた。聞き覚えのある声だった。そうして、潤慶は腕を伸ばしてくるのだった。すでに、瞳にも体にも、欲望を溢れさせながら。
「また、一人でするつもり?」
 官能的な響きに、ぞくりと将の体中に震えが走った。
 同時に潤慶がドアを開けて、入ってきた。冷たくも見えるくらいに目が細められ、すっと将の体を視線がなぞっていた。
 背を向け、前を隠そうとした将は潤慶に腕を掴まれ、動けなくなった。何もかもが、潤慶の視線の中にある。上気した肌も、今まで将自身の手で愛撫を与えられていた箇所も、探るように見られた。視線に触れられている気さえして、将は知らず身を震わせていた。
 潤慶は微笑を浮かべている。舌がちろりと唇を舐めた。その瞬間、将の耳からは音が消えた。
 潤慶は出しっぱなしのシャワーを止めることもせず、将に近づいた。
「ここ、こんなにしてる」
 指が伸び、触れた。ぬめりをすくい、さらにそれをなすりつけるようにした。将はひくりと息を呑み、思わず、目を閉じてしまう。
 潤慶の手はそろそろとじれったいくらいの動きで、形をなぞり、触れる指を一本、一本、増やしていく。ひっと声を上げた将は唇を噛んだ。
 潤慶は笑みを深くし、今度は手の平につつみこんだ。やんわりと刺激を与えながら、将の耳に囁く。
「どうして欲しい?」
 頬や首筋に潤慶の吐息がかかる。その熱さがすぐに将の体にたまり、形になる。この正直さに将は恥ずかしがり、潤慶は笑む。
「あっ……」
「言って、将」
 やや早口で潤慶は言うと、耳元でいたずらっぽく忍び笑った。
「言わなきゃ、僕は分からないよ」
 言うなり、潤慶は自分の腰を将にぴたりとくっつけた。伝わってくる熱い感触に、将はびくりと身を竦ませる。潤慶は昂ぶったさまを隠さず、将へ押しつけてくる。ぐいっと当てられ、体中に震えが走る。
 将には嘘つきとなじる余裕もない。
「……したい」
「何を?」
 将は潤んで赤くなった目で、潤慶を見上げた。惹かれ、恋し、愛してやまない彼の瞳が将を見下ろしていた。
 強く思った。潤慶に抱かれたい。おもうさま蹂躙して欲しい。そうしてともに快楽を分かちあいたい。
 唇が言葉を口にした。言葉の余韻だけで頭が痺れてしまう。そうされたい、そうしたいと、帰宅した潤慶を一目見たときから思っていたのだ。将はやっと理解した。
 響きが残っている内に、潤慶は将の口を塞いで、舌を搦め、つよく吸い上げた。将に触れていた指が、追い上げるための優しく強い動きを見せた。
 あっという間に達した将だったが、まだ熱も冷めない内に、潤慶はふたたび手を伸ばしてくる。膝を割られて、将は怯えと甘い予感を感じた。
 忍び込んできた指が探していた場所を見つけると、もぐってきた。それだけで、ふたたび将の体は熱を帯びた。片手が、またも伸び上がってきた部分を包んで、やんわり擦る。
 将の喉が鳴った。
「欲しい?」
 うなずく将の目尻から涙が落ちる。
「何が欲しい?」
 ささやきながらも潤慶は、自分も体をぴたりと寄せてくる。そこさえ、ぬらついて将の体を濡らすというのに、まだ焦らされる。どうしてこう意地悪なのだ、でもそんなところまで恰好良いからいやになると将は思い、潤慶の体にぴったり張り付いているシャツを握りしめた。
「おねがい、だから」
 腕の中の将を見下ろして、潤慶は目を細めた。これだから、焦らすのは楽しいのである。少しずつ、溶けていく将は、毎回毎回、そそられてならない。
 潤慶は自分の服をつかんで離そうとしない将の手を握り返して、将がおねがいと呟くそこへと持っていった。
「これ?」
 将がこくりとうなずいた。潤んだ瞳がまばたいて、自分を見上げてくるのを目にすれば、そこで潤慶の我慢も限界に来た。
 将の腰を掴んで、後ろを向かせると、自分も前をくつろげ、一気に貫いた。
 あっとかすれた将の声が、彼が感じた一瞬間の痛みを伝えたが、潤慶が腰を動かし始めるとすぐに甘い声に変わった。
 将の腰を抱いた潤慶の動きがいささか性急だったのは、我慢と若さのせいだ。もちろん、後で名誉挽回するつもりだった。今日から、幾らでもチャンスはある。潤慶は荒々しいともいえる動きで、将と自分を満足させた。
 始まってから終わるまで、長いとはいえない時間だったが、試合中のように息が乱れ、汗が浮かんでいる。将も同じだ。胸が大きく上下していた。その背中を吸い、足の間の湿りをぬぐってやりながら、体を離した。
 名残惜しげな肉の感触が潤慶の血を騒がせたが、これ以上、蒸気に包まれながら行為を続けるのは、きつい。続きは寝室でだ。
 シャワーで体を流し洗い、浴室から出た。
「体、拭かないと」
「いいよ」
 タオルに伸びた将の手を握りこんで、潤慶は唇を塞いだ。それだけでは足りない思いで、強く抱きしめる。
 これから始まる時間を思うと、わくわくしてくる。潤慶が唇を離し、将の顔をのぞき込むと、まだ恥ずかしそうな恋人がそこにいた。もっと、そんな顔をさせるつもりの潤慶は、ほほえんで、寝室へとうながした。
 床が濡れようが、家具がずれようが関係ない。
 潤慶は将をベッドに倒し、自分の濡れきった寝間着を脱ぎ捨てると、組み敷いた。何度か視線を合わせ、指で伝えれば、言葉での承諾はいらなかった。
 将は三度目、潤慶には二度目の頂点を迎え、焼け付くような飢餓感は治まった。まだ息が落ち着いていないが、触れ合いたくて、唇を重ねる。一休みも兼ねた口づけだったが、段々と焦れったくなる。
 ここで休憩終わりといこう。自分の唾液に濡れる唇を眺め下ろし、潤慶は、浴室でのいじわるを再開することにした。合図代わりにと、将に触れる手の動きを変えていく。
 敏感になっている体に、これはきつい。たちまち、将の額に新たな汗が浮き出した。濡れている生え際に、唇を当てて、潤慶は毒にも思える蜜を含んだ声で訊ねた。
「将。今日、一人でやらしいことしてたね」
 潤慶に触れられる将の体に、大きく震えが走った。瞳が見開かれる。強張った体に、今までの快感を取り戻すと、潤慶はさらに、言葉を続けた。
「僕がいるのに、一人でここ触ってただろ」
 身を引こうとした将を押さえ、潤慶は愛撫を続けた。楽しいったらない。顔はどことなく嗜虐的な表情を浮かべているが、内心、緩みっぱなしである。
 どうしてこう、ベッドの上でも、将はいじめがいがあるのだろうか。これで状況が違うなら、さんざんいじめた後に、潤慶は将に頬ずりして思い切り抱きしめるのだが、まだやらない。今は、いじめなくてはいけないし、他の楽しみもある。
「こんな風に手を動かしてたね」
「あっ、ん」
 自分で頂点を得るのが目的なのだから、そんな焦らすような触り方はしていないと将に言えるわけがない。
「こっちも触ってた」
 潤慶の指が沈み込む。中で動かすたび、濡れた音を立てるのは、潤慶が吐き出した名残のせいだ。
 さらに煽り立てるような音と指の動きに、将は息を押し出した。
「自分一人で、気持ちよくなるなんて、ずるいよ」
「見てたなんて、ひど……あっ」
 指が将のとくに弱い部分をなぶり、離れていった。それきり、触れようとはしない。
「――僕も、あっちで将のこといっぱい考えてするよ」
 指は体の線を辿りつつ、上へ向かう。
「将が唇と舌をつかって……僕のをいっぱい舐めてくれたときのことや」
 将の唇を舌先でなぞり、自分の唇でもなぞる。舌を絡め、息を止めさせるほどの激しさで口づけ、潤慶は長い息を吐く将の耳元へ、またも唇を近づける。
 指が下がり、濡れて赤色に染まった乳首をつまむ。
「ここに触ったり……噛んだり、舐めたりするときのこと」
 言葉通りに、愛撫を加え、潤慶は将の胸の上で微笑した。かかる息すら愛撫に思え、将の方は笑う余裕もない。ただあえぐばかりだ。
「それから、この中に入ったときのことも」
 指が入り込み、かき回した。将の唇からは、もう切ない声しか漏れない。自然、腰が揺れ出した。
「想像して、一人でする。いっぱいしてるよ」
「そんなこと、いわないで……いあっ」
 潤慶は素早く、指を引き抜いて、さきほどから将の瞳と同じように涙をこぼしている箇所へと指を絡め、数度なぞると、膝裏を持ち上げた。
「でも、やっぱり――」
 潤慶の言葉のあと、将はのけぞって、喉を見せた。
「本物の将が一番、好き」
 ゆるやかに腰を使い、潤慶は将を責めていく。
「今日は嬉しいな。将の中にずっといられる」
 将に頬を寄せ、潤慶はささやいた。これ以上ないくらいの心境の吐露だった。と、素晴らしい返事が、途切れ途切れにも返ってきた。
「ぼくも……嬉しい。ユン君、いっぱい、ぼくのなかに、ああっ……」
 途中から、言葉が切れたのは、潤慶の喜びの動きのためだった。現在の体の状態でこんな言葉を聞かされては、いよいよ滾るばかりである。
 涙いっぱいためた瞳で潤慶を見上げ、将は彼を抱きしめた。そのまま、足を潤慶の腰に絡める。潤慶にあわせて、腰を揺らし始めた。そればかりか、意識的か無意識的か締めつけられもして、さすがに潤慶も呻き声を上げた。
 将は潤慶が教え、また自分でも見つけたやり方で、潤慶を追いつめていく。負けじと潤慶も将をいっそう責める。手も足も、まるで自分のそれが、互いのものに変わったように絡み合って、これがほどけたときが、快感の終わりだと思えば、離すことも出来ない。
 幾度目かの頂点の後、ふたたび昇りつめていく中で、将は潤慶が自国語を口にするのを聞いた。彼は快楽に溺れきったとき、こうして、一番馴染んだ言葉で睦言を呟く。将の名前は、日本語で呼ばれるよりもいくらか、違う響きを帯びてしまう。それが余計に欲情をかき立てる。
 将は潤慶のしめった髪を指先ですいて、自分の方へ引き寄せた。唇を開いて、自分から舌を絡める。誘われて、潤慶も唇を開き、舌を預けた。自分の全身が相手のものになった歓びが体中を満たした。落ちていくとも昇っていくともつかない感覚が続く。繰り返しそれを味わって、ようやく、相手を離せるところにまで落ち着くことが出来た。
 長いため息をつき、潤慶は将へ体を預けた。重みを受け止めて、将も長い息を吐く。
「もー、だめ。これ以上は無理」
 低い声で潤慶が言えば、将もかすれた声で答える。
「ぼくも、無理」
 潤慶は空腹を満たした肉食獣が笑うなら、さもあろうという笑顔を見せた。
「すごく、気持ちよかった。将は?」
 将ははにかんだように目元で笑った。返事がなくてもそれだけで充分だったが、将はきちんと言葉で伝えた。
「とっても気持ちよかった」
 思わず、もう一度、頑張りそうになってしまう潤慶だった。
 それでも、もうだめだよという、誘いにも転びそうな将の優しいあらがいに従い、今夜はこれで打ち止め、おとなしく寝ようという運びになった。
 もっともそれまでに、潤慶の方が手が大きい、将の方が髪の色は濃い、ほくろの場所や擦り傷の具合等々を、視線を交わす合間に話し、ほほえみあい、この余韻ともいえるひとときを充分に楽しんだ。
 これに加え、潤慶としては将の寝顔を堪能するつもりだったが、ここにきて、事は彼の思うようには進まなくなった。
 試合も含めた今までの疲れが体を覆い尽くし、まぶたにのしかかってきたのだ。たいていのことには無敵を誇る潤慶だが、睡魔との戦いには負けた。
「将……」
 キスしてよ、という言葉は眠気のあまりに、消えてしまった。
「――ユン君、おやすみ」
 言葉にほほえみ返せたか自信はないが、眠りにつく前、潤慶は将が自分の望みを叶えてくれたのを感じた。
 あとは幸福な夢に支配されるだけだった。

――翌朝、潤慶の眠りを覚ましたのは、小憎らしいことに、携帯電話の着信音だった。そういえば、昨日も真っ最中に鳴っていた気がする。
 音に眠りを破られそうになっているのか、将が少し、身動きを始めたので、潤慶はしょうがなく電話に出た。
「もしもし?」
「……お前、誰だよ」
 聞き覚えのあるような、ないような、誰かの声が向こうから聞こえてきた。将の隣にいたような、いなかったような相手だろう――とりあえず、恋敵としては弱い立場の相手だと潤慶は思い出す。
「李潤慶です」
 歯切れ良く名乗る。
「なっ、なんで、お前が出るんだ!」
「なんででしょう。一、恋人だから。二、なにしろ恋人だし。三、やっぱり恋人。さあ、どれでしょう。でも、とにかく、将は出られません。僕も忙しいから切るね。もうかけてこないように。じゃ、ばいばい」
 鼻歌と共に潤慶は電話を切った。ちょっと考えたが、電源は切らず、毛布でぐるぐる巻いて、クッションの下に入れておいた。案の定、耳を澄ますとバイブの振動がなり始めていたが、潤慶の耳は、将の声がどれだけ小さくても聞こえるが、そのほかの音には、きわめていい加減であるので、気にも留めない。
 それよりもいま隣で、ごそごそし始めた気配に、五感は釘付けになる。
 将の寝起きの顔、というのは潤慶が愛してやまない表情の一つなので、見逃すわけにはいかない。他には、振り向いたときの顔や、試合中の凛とした顔や、恥ずかしがったときの顔等、数え切れないほどあり――要は全部である。
 潤慶は手を伸ばして、シーツを少しずらしてみた。
 タイミングはばっちりで、将はうっすらと瞳を開いたところだった。夢から意識を戻すまでの、無防備な少年の面影濃い表情に、潤慶は見入っていた。
 やがて、ふうっと将は長い息を吐き、潤慶に気づいた。はにかむように、目で笑いかけてくる。照れの混じる笑みに、潤慶の目尻が下がる。鼻の下もたぶん、伸びているだろう。それでも、見るのは将であり、そんな潤慶に将は惚れ直すのだから、無問題なのだ。
「おはよう」
 将の頬が赤くなった。
「おはよう……」
 昨日、あれほど大胆に、積極的に、潤慶を求めたというのに、この恥ずかしがりよう。不満と満足とを同時に味わうという奇妙な喜びを感じながら、潤慶が笑みを深くすると、将はさらに照れた。
 その照れから抜け出す恰好の言い訳を見つけ、昨日から落ち着くことのない心臓をなだめようとする。
「僕、シャワー浴びてくる」
「あ」
 止める間もなく、将は手をついて、起きあがろうとした。とたんに肘ががくりと折れて、ベッドに沈み込んでしまう。
「あれ?」
「無理だよ、僕だって立てないもん」
 潤慶は笑った。
「昨日、将に絞りとられちゃったからさ」
「ユン君!」
「だから、今日は一日、ベッドでいちゃいちゃしよう」
 将の返事は、潤慶の唇のせいですぐには出来なかった。将が目を開けば、潤慶がすぐ側で笑ってる。
「返事は?」
「うん……」
 でも、約束があるなどと不穏なことを言い出した将の口を再度、封じてから潤慶は言った。
「だって、将は立てないし、僕も立てないし、そしたら出かけられないよね」
「それは……そうだけど」
「じゃ、決まり」
 将の鼻先にちゅっと音立てて、キスをして、潤慶は極上の笑顔を見せた。
「うれしいな。今日も一緒」
 とろけるような眼差しでそう言われれば、将に逆らえるはずもなかった。

 ――将の携帯電話に出たせいで潤慶の滞在は皆に知れ渡った。が、彼が将の家で何をしているか、ということも全員たやすく想像できたため、逆に邪魔することも出来なくなった。
 再会した恋人同士。何が燃え上がるか言うまでもない。扉の向こうには、潤慶によって開花させられた将がいるのだ。見たいといえば見たいが、見たくないといえば、これほど見たくないものもない。自分の手でなく、他人の手で、色々なことを知っちゃった彼。
 純粋だった頃の将を思って涙する者もいるにはいたが、あのころの君は帰らず、しかし、大人の階段を上った君もまた、というところで、感情は落ち着き、久しぶりだししょうがないということで、みな静観の構えを取った。そこは、さすがに成長したことがうかがえる。
 それでも帰国する潤慶の見送り時には、同世代の若手選手がずらりと揃い、二度と来るなとっとと帰れ帰れと言う呪いの視線を韓国の虎に送ったが、次の瞬間、全員、床に突っ伏して、泣きたくなった。
 じゃあね将、とさすがに愁傷な顔で言った潤慶に、将はそれはもう、寂しさと健気さと信頼と愛しさをありったけ込めた笑顔を見せて、言ったのだ。
「今度は、僕が会いに行くよ」
 李潤慶、完全勝利の瞬間だった。


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