風祭将は後悔していた。テレビ中継なぞ見るのではなかった。しかし、見なければいっそうひどくなっていたかもしれない。どっちを選ぶべきだったのか、それは永遠の謎になる。
が、潤慶の不在は事実であり、不在を埋めてくれるのが、彼の出場する韓国と日本代表の試合だったのだ。観るしかない。そして観てしまうと、もういけなかった。歯止めがきかなくなった。色々な意味で我慢がきかなくなった。
ビデオに撮った試合を将は五回、観ている。残念ながらこの試合、将は右足の不調で代表から外されてしまい、顔見知りやら友人やら先輩たちが、グラウンドを駆けめぐるのを見ているしか出来なかった。競技場へ行かなかったのは実家に戻っていたからだ。
表面頑固、内実過保護の父親は、久しぶりに次男を迎えて、非常に喜んだ。将のついでに帰ってこいと素直でない父に言われていた長男も同じく戻り、家族四人、楽しい時間を過ごした。それでも試合時間となれば、将の頭からは家族団欒も、父の小言めかした愛情表現も、母のさり気ない優しさも、兄の包むような視線も、何もかもすべて吹っ飛んだ。
風祭家の末っ子が試合観戦に没頭することは想像されていたので、家族皆、邪魔しないよう、それぞれ将を放っておいてくれた。が、さすがに試合が終了しても呆けたような表情で、コマーシャルを映し出すテレビ画面に見入っている弟を見かね、兄が声をかけてきた。
「将、どうしたんだ? 風呂、入らないのか」
三秒ほどして、将ははっと兄の方を振り向き、なぜか頬を赤らめ、うなずいた。
「うん、入るよ」
将は落ちつきなく、慌てたように功の前から去った。
居間で功は一人、首を捻る。
「どうしたんだ?」
日本が負けたわけでも、韓国が負けたわけでもない、白熱した良い試合だった。現役の選手である将が試合に見入り、羨ましいと思うのは理解できるのだが、あの顔は一体、何なのだろう。
――思い当たる節がないわけではないが、兄としてはあまり考えたくなかった。なんといっても、いつまでたっても『お兄ちゃんの将』でいて欲しいのだ。
「あいつも年頃だからな」
とりあえず、それで自分を納得させた功なのだが、折しも、テレビに試合中の映像が流れ、韓国代表の主将が映し出された。元ホストの目から厳しく、あら探ししてみても男前である。
こんちくしょうという思いと共に、功はリモコンを取り上げ、テレビを消した。
兄が薄々理由を悟っているとは知らず、将は困っていた。サッカーをしたい、という思いと、潤慶の不在から生じる寂しさとが、複雑に微妙に絡み合って、ある種の方向へと流れてしまったのである。
実家では、両親と兄がいたため、上手く紛らわせることが出来た。しかし、一人暮らししているマンションに戻ると、いけなかった。くわえて、この部屋に潤慶がいたのを思い出したために、いっそう危なくなった。下手に刺激すると、溢れてしまいそうだ。肌身に刻み込まれた熱は薄れるどころか、今、将を焼き尽くしてしまおうとしている。
将はカレンダーを眺めた。帰国する前に、一日泊まりに来ると言っていた。その日まで、三日ある。
長い、と将はため息をついた。これなら、会えないままの方がいい。我慢できる。一度、満たされることを知ってしまえば、あとは乾く一方でしかなかった。
その世代の選手としては韓国ばかりか、日本でも知られている潤慶が出場しているため、試合中、テレビカメラは彼をよくアップでとらえた。じつにカメラ映えのする容姿というせいもある。女性人気が高いこともある。
将にとっては世界で一番近い距離で様々な表情を見ている男の顔だった。そんな男の表情が、にくらしいくらいに映る。解説者の褒める声も耳に入って、自慢したいような気恥ずかしいような、そんな思いも生じていた。
それが、あちらの方向へ行ってしまったのだ。
彼のせいだと将は、恨めしく思う。なにしろ、部屋を出なければいけないぎりぎりの時間まで、潤慶は将を離さなかった。
予定を早めて来日すると、あれほど好きな買い物も観光もせず、真っ先に将の元へやって来て、会えなかった分の時間を埋める勢いを見せていたのに、まだ足りないとでもいうように、将の体を開かせ続けた。
将の部屋にあるダブルベッドは、こういう時のために使用される。ちなみに購入の際には潤慶が半額出している。理由としては、自分も使うから、である。
――だから、大きくて立派で壊れにくいの買おうね。そんな台詞と共に買われたベッドは将の部屋で一番、立派で高価な家具だ。
そのベッドに将は腰掛けた。頭が熱でぼんやりとして、目が霞がかったようになってくる。駄目だ、と思っても手が伸びる。何度か拳を作り、手を引いたが、いうことを聞いてくれない。シャツの裾から指を忍ばせ、乳首に触れた。痺れたかのような快感が走り、堪えきれないものが下半身に集まり出した。
将は諦め、というよりも、ほとんど無意識にズボンの前をくつろげた。空気に触れた瞬間、電気でも走ったように将は震え、目を閉じた。恋人に見せるときよりも、少し甘美なものが漂っていたのは、罪悪感のなせるわざであったのかもしれない。
李潤慶は幸福だった。もちろん、勝利を得られなかった不満はある。熱戦の末の引き分けは、まれに見る好試合と言われたが、勝てなければ、プロ選手としては意味がないのである。それに潤慶としては勝っておきたい試合だった。
対戦した日本代表の顔ぶれは潤慶にとってはおなじみだった。もちろん従兄弟殿もいた。それはもう、寒気がするくらいの視線と迫力を試合前から漂わせていたものである。これが英士だけでなく、他に出場した日本代表選手もそうだったのだから恐ろしい。
前半戦、日本が押し気味であり、先制点を取ったのは、この時点で韓国選手が迫力に押されていたせいもある。
さて、日本選手の殺気だった雰囲気の理由とは何なのか。
――潤慶である。押しと引きの見事な駆け引きと情熱で、鈍いのもいいところの将をついに陥落させた潤慶は、将と同世代の者が多い日本代表にとって敵であった。ましてや、将が出場しないこの試合、私情も交えて、徹底的に叩いておきたかったらしい。早めに入国した潤慶が将の元へ泊まりにいったという情報も、それに拍車をかけていた。
日本代表の怒濤の攻撃、鉄壁の防御。見事な一致団結ぶり。さすがに潤慶も驚いた。まきこまれた形になる仲間たちも戸惑い、たじろぎ、怯えた。
その裏にあるのが、とある青年をめぐる恋の鞘当てと知ったら泣くかもしれない。そのあどけない少年の面影が強い某青年を知れば、これまた事情は変わるだろうが。
そのような、幸か不幸か本人さえも知らぬ、とんでもない魅力の恋人を持った潤慶を救ったのは、やはり、スタジアムにはいないがテレビの向こうで絶対に自分を見ているはずの当人である将だった。
あの恋人の前で敗北するのは嫌だ。それに潤慶は約束していた。場所が場所、状況が状況で、将の方は息も絶え絶えに、ねだるような声しかあげられなくなっていたから、覚えてはいないだろうが、まあ、幾度、惚れ直させていても損はなかろう。
私情もいいところだが、それが選手の心身に好影響を与えるというのなら悪くない。それが敵地競技場からの歓声と拍手がわき起こったシュートに繋がったのだから。
ある意味においての潤慶対日本代表の試合、おそらく、一馬身ほど潤慶がリードした。もっとも、そのゴールが理由で、将が体に熱情を湛えるようになったのだから韓国の虎も罪である。
試合後、早速ラブコールをしたかったのだが、やたらに邪魔が入った。次から次に途切れることなく彼らはやって来た。
報道関係者はこう伝えた。
「互いの健闘を讃えあい――」
あれは間違いなく、邪魔である。求められた握手には怨念がこもっていた。とくに主将も務めるゴールキーパー殿の握力はポジション的な理由もあって並の握手のそれではない。
「日本選手は好敵手に惜しみない、賛辞を送り、とくに李潤慶選手への――」
あの眼差し、あの表情、まるで呪いである。将と話をさせてたまるかという執念である。
お前らみんな、馬に蹴られて死んでしまえと潤慶は言いたかったが――この言葉を教えてくれたのは従兄弟殿である――もちろん言わなかった。にこにこと笑顔で相手した。その笑顔に寒気を覚えたのは韓国選手と日本選手の何人かであったが、そんなものでたじろぐような日本代表ではない。だてに恋敵を務めているのではないのである。
潤慶だって負けていない。合法的かつ、じつにしたたかな方法で、将の元へ帰る日を三日早めていた。つまり、将と過ごせる時間が三日増えているのだ。
しかも、まだほとんどの者にばれていない。ばれる頃には将は潤慶の腕の中であろう。
潤慶は完全勝利を目指し、将の住むマンションへと向かう途中であった。
この時間なら、将はまだ、夕飯の支度をしていないだろう。一人だから、将は適当にすませてしまうのかもしれないが、自分の顔を見たら喜んで、二人分の料理をしてくれるだろうし、自分も大喜びで、将と共にキッチンに立つ――支度中の悪戯というすばらしいおまけがついてくるのだし。いや、外へ食べにいってもいいのだが、それならデリバリーで済ませたい。秘密が漏れる危険は侵すべきでない。
それに、将が手ずから作ってくれる料理ほど、潤慶を喜ばせるものもない。潤慶も韓国生まれの韓国育ちであるからして、自国料理が一番好きだ。
しかし、将の料理は別格だ。本人同様、素材の持ち味を生かした、じつにいい味の品を作る。手料理を食べて、将を食べて、将と一緒に過ごせるとは、自分以上の幸せものはいないと改めて確信する。
歩む足取り弾むよう、ほほえむ唇とろけそう。今回の試合相手たちが見れば、嫉妬と羨望で潤慶を焼き尽くしかねないほど、幸福感が漂っている。
そして、この高揚感はそのまま、欲望へと繋がっていた。ちりちりと体中を這う火花のような熱を潤慶は心地よく感じていた。
どういう風に楽しい時間を過ごすべきか。もはや、それだけが問題だ。やるべきか、やらざるべきか、そんな、どこぞの古典劇の王子の問いのような言葉を発して迷うような、複雑な心は、この点に限って潤慶は持ち合わせていない。
行う、それだけである。あまり、無理をさせてしまうと、将の体にもよくないし、かといって名残を残しすぎても、これからまた離れてしまう二人にとってもよくない。
七十二時間、将と何をしようかという、それは楽しい、心躍る考えをめぐらせつつ、潤慶はエレベータに乗った。
鍵はもちろん持っている。将が一人暮らしを始めたとき、潤慶は祝いの品を贈った。そのお返しをしたいという将に、早速、合い鍵をねだり、そんなのいつだってあげるのに、と頬を染めた将もくっつけて、もらったのである。
そんな幸福の象徴の鍵を鍵穴に差し込む。将もすでに帰ってきているはずだ。さぞかし、驚くことだろう。そのびっくりした唇をまずは塞ごうと決め、そっと錠を開き、扉を開けた。
部屋の気配に耳を澄ませる。将がいるのは間違いなかった。履き慣れたスニーカーが、本人の律儀な性格を表すように、きっちりと玄関に置かれている。
ただ、問題なのは、ベッドのきしむ音だった。時々、かすかな悲鳴のように聞こえてくるのだ。潤慶はいぶかしみ、足音を忍ばせて、部屋に上がった。奥に近づくにつれ、声も漏れ聞こえてきた。
潤慶にとっては、なじみ深い、つい最近、耳元で聞いた声だった。せわしなく、体の熱を押さえつけるような、将のあえぎ。その堪えているさまを、突き崩していくのが、潤慶にとっての楽しみだった。
今、まさにそれが行われている。体中の毛が逆立つような感覚が走った。
将は自分を裏切りはしない。それは、潤慶にとっては確信であり、真実だった。ここに至っても、その思いは変わらない。だが他人にとっては違うだろう。
なんてことだ、と潤慶は憤怒を宿し、しかし相手には悟られぬよう忍び足で寝室に向かった。嫉妬の赤と怒りの黒とは心を塗り潰そうとしたが、それでも潤慶は冷徹な白さを失っていない。
唇を噛みつつ、部屋の扉を薄く開き、中をのぞく。途端に、潤慶の頭は落ち着きの白さでなく、驚愕と艶やな喜びの桃色に染め上げられた。
確かに将はベッドにいた。ただし、想像していた相手はいない。いわゆる、一人でのお慰みの真っ最中であるらしい。
潤慶は手で口元を押さえた。
がっかり? 衝撃? とまどい?
――とんでもない。いやはや、帰ってきた早々、予想もしない眼福である。
韓国の虎などという異名を取り、スペインでも素晴らしい活躍を見せているサッカー選手とは思えないゆるんだ表情で、潤慶は恋人の艶姿に魅入る。まあ、不満といえば、そういう姿を自分の前で見せてくれないところだろうか。恥ずかしがって、日頃、明るいところではなかなかさせてくれない恋人なのだ。
さて、将の方は、潤慶の視線に気づきもしない。サッカーに関してはすさまじい集中力を見せる彼であるが、今回もその集中力は発揮されていた。自分の指がもたらす快楽に、溺れつつある。
自分でしたことは何度もあった。潤慶と離れている間は、どうしたって孤閨をかこつ訳であり、他人との情事で発散などとは思いつかない将にとって、当然、一人で満足を得る行為に行き着くしかなかった。
それだって、何とはなしに罪悪感や後ろめたさがあるのだ。しかも、今回はあと三日待てばいいだけだ。待てない自分が、ずいぶんといやらしく思え、その背徳と罪悪感が、なおのこと快感を呼ぶのである。
シャツをはだけ、すっかり浮き上がった乳首を片手の指でつまむ。残る手は足の間で、絶え間なく蜜をこぼすものをしごきあげている。それだけでは足りない。
「うっ、んっ」
駄目だと思う場所に指が伸びていく。こんな場所に触れなければ、体はもう満足してくれないのだ。
恥ずかしさに目がくらみつつ、浮かぶのは潤慶の姿である。埋められない寂しさと不満が、己の指に変わって、体に快楽を与えた。
潤慶の名を呼んで、果てた後、将は鼻を啜った。浮かんだ涙をまばたきしてはらうと、体を起こしてティッシュを数枚取った。手を拭い、体液が散った場所を拭く。まるめて、ゴミ箱に捨てる。量がいつもより多いのが、妙に恥ずかしい。体すべてで、潤慶を待っているようだ。
服の乱れを直し、はあとため息をついて、将はベッドに横たわった。むなしさと寂しさが込み上げてきて、寝返りを打つ。潤慶が部屋にいたときに眠る側だった。彼の残り香がまだあるように思えた。くすんと鼻をすすり上げて、将は深いため息をまたついた。
「ユン君……」
早く帰ってきてよ。
切ない、恋しげな呟きであった。
――潤慶としては、帰ってきたよ、と顔を出したいところだった。その心をぐっと堪えたのは三日分の余裕がなせるわざだ。これが当初、予定していた日の帰宅なら、今すぐベッドに飛び込んでいる。
どうしようかなと、もう一度、のぞいてみると、何と将は眠っていた。身を丸めて、寝息を漏らしている。
潤慶は荷物を置いて、部屋に入り、そっとベッドの上に上がった。
将の寝顔が、普段眠らせている距離に対する罪悪感をかき立たせる。遠い国に離れている今の状態は将と自分が選んだ道の結果であって、後悔はしていない。だが、会えない寂しさというのは、時々、感傷を呼び起こすのだ。
将の額を撫で、頬に口づけた。汗が冷えた冷たい肌を抱いて、このまま隣で眠ろうかとの誘惑に、どうにか打ち勝ち、潤慶はベッドから起き上がった。
「さてと」
とりあえず、荷物を片づけに行く潤慶だった。
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