最終段階だった。流れから行けば、クライマックス、感動の一瞬である。この場合、幾つかの条件を満たさなければ、一つになれたという実感も感慨も味わうことが出来ない。
同性同士、という事実はどうしても変えられるものではないので、情事では女性的立場に当たる将の、これもまた、無理をさせてしまう部位を慣らした。
将が涙声になったのも、その狭さやきつさにも、一馬はくじけなかった。ここまで来て、退くことこそが臆病なのだ。今は突き進むのみ。
それでも、ごめん、ごめん、ごめんと、逆に痛いと、言った将が申し訳なくなるくらいに謝りながら、一馬は作業を終えた。後は、実際に試すしかない。九浅一深、死往生還、右往左往の心だと、自分に言い聞かせ、真新しいコンドームに手を伸ばす。将にも使わせた方が良いだろうか――いや、終わった後、風呂にもう一度、入ろう。それでいい。
瞬時に判断し、一馬は自分の膝を多少開き、体を強張らせた。今までは、将の方にばかり集中していたせいで、気づかなかった。
さきほどの自分のようにごめんなさいと頭を下げている。重力に逆らっていない。こういう場合、もう少し、自己主張してもいいはずだが。先走りすぎるのも困りものだが、控えめなのも困る。
あまりに、通常時と変わらない状況に、混乱しかけ、落ち着けと自分に言い聞かせる。大丈夫だ。少し、待ってみればいい。脳裏に、自らを奮起させる記憶を思い浮かべる。最新の映像と音声も加えてみる。だが、どんな想像にも反応しない。
Alea jacta est。賽は投げられた。もう後戻りは出来ないのだ。
He can who believe he can。出来ると信じれば出来る。
その心意気で頑張れ、頑張るんだと気合いを込める。しかし――気合いで何とかなるなら、この手の問題で悩む男性はいなくなるはずだ。
「……」
「真田君?」
将の細い声で呼ばれた。すぐには返事できなかった。この衝撃が尾を引いている。まさか、最後の最後で、こんなことになるとは。ああ、これが本当の意味の役立たずだ。役に立たないとは、よく言ったもの。漢字は違うが、まさしく、これだ。
将が気遣わしげに訊ねてくる。
「気分でも悪くなった?」
「違う」
「じゃあ――」
茫然自失のまま、呟いた。
「……ないんだ」
「たたないって?」
恋人の口から、悪気無く言われても、さすがに応える。一馬はうなだれた。
「だから、俺のこれを、風祭のそこに入れる訳だけど、そのためには、これが、こうなってなくちゃいけなくて……つまり、さっきのお前みたいにならなきゃいけないんだけど、ならないんだよ」
電気を消していて良かったと感じた。間が持てないため、早口で、妙なことを話す自分も自分だが、じっと見つめる将も将だ。見られて、なお萎縮した。
時間が流れ、将が怖々と、呟いた。
「やっぱり、僕とじゃ無理――」
「違う、それは絶対違う!」
そこのところは、はっきりさせなければ。何よりも、その辺りが二人の関係においては重要なのだ。
「俺は風祭と、したかった」
過去形ではいけない、違うと一馬は首を振る。
「今だってしたい、すっげえしたい。だけど、今日は、ちょっと、その……」
肝心なところが、肝心なときに、役目を果たしてくれないのだ。
口ごもった一馬の目に、将が起き上がるのが映った。
「僕もしたい。真田君としたい」
「風祭……」
言葉は嬉しいが、悲しいことにその期待には答えられない。落ち込みかけた一馬を将の恥ずかしげな、それでも優しい一言が、なんとか絶望の穴に落ちるのを踏みとどまらせた。
「今日が無理なら、また今度……しよう」
「いいのか」
「うん。大丈夫そうなときは、言ってね」
一馬は、子どものようにこっくりうなずいた。将が笑ったのが見えた。将の手が伸びて、一馬に触れた。軽く汗ばんでいた肌が、一馬の体に当たる。
二人で抱き合って、少ししたとき、将は、あのね、と小声で囁いた。
「さっき、すごく嬉しかった」
「え」
「真田君が、僕としたいって言ってくれて、本当に嬉しかった」
将は顔を伏せて、呟いた。
「僕、真田君のこと、このまま好きでいていいんだって思えた」
「そんな、お前……」
将は一馬から体を離す。手が目を擦ったのが、確かに見えた。
一馬が声をかけられないままでいると、将は明るい声で言った。
「一緒に寝よう?」
「ああ」
将は裸のまま、ごそごそと布団に入る。一馬も同じように、将の隣に横たわった。話しかけたいような、しかし、言葉が見つからないようなあやふやな気持ちが胸一杯に広がっている。
将は、おやすみ、と言って、目を閉じてしまった。背を向けられなくて良かったと、小さな事に安堵する。そうして、そんなことで安心するくらい自分の中で、自信が小さくなっているのを知る。
明日から、今まで通りに出来るだろうか。将だけでなく、誰かに何か気づかれないだろうか。並み居る強敵は、今も健在だ。こんな隙を狙われては、修復できない傷が出来るかもしれない。たとえ、鈍くても、自分をどれだけやきもきさせても、将と別れるなどとは、一馬にとっては恐怖でしかなかった。
たとえ、将がどんな言葉をかけてくれても、今回の件は、尾を引きそうだ。一馬は唇をきつく噛みしめた。
今夜のことは忘れる。また新しく始める。気にしてはいけない。そう思う側から、どぎまぎしながら、ベッドの上に起き上がった自分、それを見つめていた将を思い出してしまう。あんなことや、そんなことまでしておいて、結局、最後の最後で駄目だった。
本当は、将は呆れたかもしれないのに、自分を傷つけたくなくて、あんな風に言ったのではないだろうか。そんな疑いまで抱いてしまう。疑心暗鬼に陥る前に、一馬は将を自分の方へ引き寄せた。ゆっくりとした動かし方だったので、将は起きなかったようだ。
片腕の中に抱き、聞こえていなくても、ごめん、と謝った。将が、泣き出しそうなときに、そう言えれば良かった。自分は大事なときに何も出来ない。今だって、将を腕の中に抱きしめているのに、まるで将に包まれているようだ。
甘やかされて、甘えっぱなし。頼りにならない。ぐるぐる、同じ所を回りっぱなしだ。底なしの泥沼にずぶずぶはまりながら、一馬は、俺だって、こんなに好きなのに、と泣きたくなった。
確かに明日はある。機会は、また訪れるだろう。だが、今という時間は、本当にこの瞬間しかないのである。
そっと将の髪を撫でる。指を走らせ、将の顔を見つめる。閉じられた瞼、自分に向けられた寝顔、静かな呼吸。手の平を滑らせた肌の感触が思い出され、一馬はため息をついた。
そこで――気づいた。欲望が形になっている。じわじわと、存在を主張し始めている。どうして、今頃と、うろたえた。
将の隣でごそごそ身動きし、静まらないか待ってみたが、きつくなるだけだ。今までで一番、苦しいかもしれない。この上は、トイレへ行くしかないだろう。
一馬は起き上がろうとした。わずかな間に、痛いくらいに張りつめてきている。そろそろと布団から抜け出す前に、将の声が聞こえた。
「真田君?」
「何でもない!」
びくりと一馬は振り返るなり、叫んだ。これでは、何かあるとばらしているも同然だ。
将が起き上がった。裸のままなのが、今の一馬には苦しい。これが、もう少し前だったらと思わずにはいられなかったが、ともかく、今は誤魔化さなくては。
「寝てろ」
「……どこか行くの?」
自分の体のタイミングの悪さに、一馬は頭を抱えたくなった。あんな気まずさの後、自分一人出て行くのを、将がどういう意味で取るかくらい分かる。違う、違うんだと本当に泣きたくなった。終わってまで、自分が格好悪いとは、情けなさ過ぎる。
こんなはずではなかった。もっと、いい時間を過ごして、恥ずかしくても、明日の朝は幸福に迎えられるはずだったのに、すべてが空回りだ。
黙りこくっている一馬の側に、将が寄ってくる。ぐっと手で前を隠し、一馬は体中を強張らせていた。
「……最低だろ。笑えよ」
やけくそと悔しさが滲む、自分でも格好悪いと思う声だった。
「今頃になって、興奮して、馬鹿みたいだ」
「興奮?」
はっと将が息を呑んだ。伸ばされた腕を振り払い、真田は立ち上がる。これ以上、醜態をさらしたくない。
「トイレ行ってくる」
「真田君!」
将が腕を掴んだ。
「なんだよ!」
荒々しい一馬の怒声を、将の静かで、ほんの少し緊張の見える声が受け止めた。
「僕は、ちゃんと言ったよ」
将がこちらをじっと見つめている。沈黙の内に、言葉が伝わってくる。
将が、何を言ったか思い出した。同時に自分が今、何をすればいいのかも知った。
「……」
「……」
一馬は将にそっと手を伸ばした。顔を近づけると、将が目を閉じた。瞼が閉じるときの、普通なら聞こえない音まで聞こえるくらい、胸の中が静かになっているのに気づく。
触れるだけのキスを終えて、将の体に手を回した。将の手も一馬の体に触れた。二人で抱き合いながら、ベッドに横たわった。
やがて、二つの長い吐息が床に落ちていった。シーツの上に置かれた手の平に、上から別の手が重ねられ、指先がしっかり絡まった。将にとっても、一馬にとっても、一番長い夜が始まる。
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