いよいよ、お床入りである。――床入りとは、古めかしいが、名前もやや古風な真田一馬にとっては、冗談ではなく、そのような心境であった。他に、思い当たる言葉なら、初夜だろうか。字面に、艶めかしいものが漂うような、そのような言葉こそ、今日の夜にはふさわしい。
思えば、一週間前、将を家へ誘ったときから、今日までの日々が夢の中のことに曖昧だった。すぐに過ぎ去る時間のように思えたが、どうして、約束の日が来るのがこれほど遅いのかと苛立った記憶も、きちんと残っている。
あの日、将は一馬の部屋にいた。
「おい。今度の土曜日、暇か」
一馬が言うと、将は黙ってうなずいた。実を言うと、唐突な話題変換だったために、少し驚いていたのだったが、一馬はそのときは、気づかなかった。
確かに、唐突だった。雑誌を広げた将が、これすごいねと、とあるプロサッカー選手がゴールを決めている写真を見せた瞬間に言ったのだから。将もまさか、一馬からの返事が、来週の予定についてとは思わなかっただろう。
「――暇だけど」
「親父と、お袋が、出かけるんだ」
「真田君も?」
「俺は行かない。……泊まりに来いよ」
一気に重要な部分を口にした方がいいと考えていたので、一馬は口早に言った。
「土曜日」
将は呟いて、考え込むように黙った。
「だめか」
「大丈夫。泊まりに行く」
「誰もいないから」
「うん」
将はうなずいて、ほやっと笑う。一馬は顔を赤くしつつも、気になった。将は本当にこの誘いの意味に気がついているのだろうか。動揺の欠片も見られない。自分だったら慌てる。慌てまくって、頬や腿をつねるくらいはしてみる。
「風祭」
将がまた一馬を見る。名を呼ばれて視線が嬉しそうだ。素直に可愛いと思った。同時に機会を逃してたまるかと思った。
「俺、お前が泊まりに来る日に……」
――なんと言えばいいのだろう。
セックスしたい? 直球過ぎる。
エッチ? やる気満々すぎではないだろうか。
メイクラブ? 冗談ではない、恥ずかしい。
みそ汁を作ってくれ? 古めかしい上に、まだ早いプロポーズだ。
コーヒーを一緒に? 自分の場合は林檎ジュースで誘いたい。
どうすればいいのだと数秒、迷った一馬は、結局、仄めかすでも、そのままでもなく、どことなく曖昧などっちつかずの言葉を口にした。
「風祭と寝たいんだ」
将は呆気にとられたように一馬を見ている。きょとんした顔に、気がついていないと確信した一馬は、頬を真っ赤にして、将に顔を近づけ、ぼそぼそと耳元で呟いた。
幾ら何でもこの言葉の意味を知らなかったら――もし、そうなら一馬は机から保健の教科書を持ってくるつもりだった。
「え……あっ」
思い当たったのか、将が真っ赤になった。近づけた頬が熱い。顔を離した一馬は将の泣きそうな顔に、うろたえた。
「そ、そういうつもりで、俺は……いや、お前が無理とか駄目なら、別に、俺はいいけど、一応、聞いてみたっていうか、その……その――」
二人して真っ赤になり、黙った。将など、手まで赤い。一馬も首まで赤い。
もう少しカッコいい、ムードのある誘い方はなかったものか後悔した。しかし、幾ら言葉を飾っても、辿り着くところは同じなのである。ならば、いっそ正直な方が潔いかもしれない。だが、こんなぶっきらぼうな誘い方では――後悔と立ち直りを繰り返しているところで、将が小声で囁いた。
「土曜日?」
「ああ」
判決を待つ心で、一馬はうなだれた。駄目なら駄目でいい。恐ろしいのは、嫌われることだ。将に嫌われたら――考えるその前に、まず謝ろう。
「ごめ――」
「……行く」
信じられないほどの喜びが訪れた瞬間、人は呆けるしかない。え、と一馬は将を見つめた。嘘だろ、と自分で言い出しておきながら、思った。
「泊まりにいっても、いいんだよね……?」
将がおずおずと訊ねる。一馬はこっくりうなずいた。
「何時くらいが、いい?」
「何時でも……」
「夕方でもいいかな」
「いい」
「五時くらいになると思うけど」
「分かった」
夢じゃないだろうか。一馬は膝をつねろうかと手を上げかけ、将が手に触れてきたので体を震わせた。この感触は夢ではない。
「僕、どうすればいい?」
「え」
「準備とか、してきた方がいいかな」
ここで慌ててはいけないとばかりに、一馬は重々しく、首を振った。
「用意は俺がするから、お前は家に来るだけでいい」
将はますます赤くなり、首を振ってうなずいた。
土曜日が待ち遠しい、たとえ、その日まで我慢するとしても、今ここで抱きしめたい、と思い、一馬はその衝動に従い、将を抱きしめた。
「真田君」
腕の中の将は抵抗しない。羞恥のためか熱っぽい体に、くらくらした。
「俺、優しくする」
「うん」
そのまま唇を激しく重ねた。一馬は土曜日まで、という我慢を押さえきれなくなりそうになったが、よく聞き慣れた声が、大声で彼を呼んだ。
「一馬、ドーナツあるから、取りに来てー」
――母親が用意したドーナツのおかげで、一馬と将は、その日は一線を越えずに済んだ。二人で甘いチョコフィリングのかかったドーナツを囓りながら、将はドーナツってどうして穴が空いてるんだろうね、と口を開き、一馬は一馬で、そうだよな、おかしいよな、とうなずいた。動揺が如実に表れた会話を交わしながら、その日は終わった。
あれから、日にちは流れ、ついに、ついに、待ち望んでいた夜が来た。苦節十年、とまではいかなくても、かなりの期間、耐えた。悶々と膨らむ若い情熱を持て余し、行った行動に、自己嫌悪に陥ったことも相当数ある。そのすべてが報われる日がきたのだ。
重大なイベントだ。大切な記念日だ。一生、忘れないだろう。
ここで、感動の涙を流すのは、何か違う気がするので、一馬は唇を引き結び、ちらりと正座した将の方を見やった。
一馬と同じく、将はほんのり頬を赤らめて、うつむいている。首筋や襟ぐりの大きなシャツから見える鎖骨の辺りも、薄桃色に染まり、かすかに身動きするたびに、湯の薫りが漂ってくる。まだ少し、肌が湿っているようで――それとも、将も緊張のために、軽く汗ばんでいるのだろうか。
触れたときのことを想像して、我知らず、喉が鳴る。膝の上で作った拳にいっそう力がこもる。準備はいいだろうか。落ち着くためにも、一つ一つ思い出す。
歯も磨いた(歯磨き粉の味は爽やかミント)。体も洗った。(肌に優しいミルク石けんで)。髪も洗った。(これは、間違えて母親のシャンプーを使ってしまった)。シーツは取り替えた(薄いブルー色をしている)。ティッシュは枕元(箱を開いたばかり)。コンドームはポケットの中(枕下に一応、予備もある)。ローションはベッドの下(買うのに今ほどではないにしろ、相当緊張した)。
――とにかく、大丈夫のはずだ。必要と思われることは、用意が終わっている。大丈夫だ。言い聞かせる。大丈夫。あとは――足が痺れる前にベッドへ行けばいい。
「お、おい」
「は、はい!」
一馬が、少し甲高い声で言うと、将はうろたえた声で顔を上げた。今から、あの顔に、瞳に、唇に、これ以上ないくらい接近するのかと考え、一馬は息を止めた。
「……なんでもない」
もう一度呼吸を始めるまで、かなりの間が空いたが、それでも、これだけしか言えなかった。
「うん……」
相づちを打って将は、またうなだれた。肩の辺りが寒そうで、湯冷めするのでは、風邪を引くのではと一馬は心配になり、ならばその前に自分が動かなくてはならないと、改めて気づいた。
そこで、心を決める。思い切って、口を開く。そう、このために今日の夜はあるのだ。
「風祭!」
勢いよい声に押されたように、将がびくりと顔を上げ、背筋を伸ばした。一馬が何か言うよりも早く、床に手をついて頭を下げる。
「よ、よろしくお願いします!」
大きな声と、その妙な迫力に押され、一馬も頭を下げた。
「こ、こちらこそ!」
同時に顔を上げ、目を合わせ、やはり二人同時に顔を真っ赤にした。
「ええと」
「じゃあ、その」
「うん」
「こっち」
「そっち?」
「いや、あっちでも」
とりあえず、二人で立ち上がる。心臓が激しく鳴るときは、本当にどきんどきんと聞こえるのだと一馬は知った。シーツの青色がやけに眩しい。
「服」
将がぽつりと言う。
「え」
「服、脱ぐね」
うなずくしかない。そうだ、その通りだ。服は着ていない方が良い。将はシャツに手をかけて、ボタンを外している。一馬が見つめていると、将はまた顔をうつむけた。はだけられていた胸元まで赤くなっている。肌とは色味の違う乳首が見えたので、慌てて目を逸らし、口中でごめんとぼそぼそ謝り、一馬も服を脱ごうとした。
ベッドに入る前に、全部脱いだ方がいいのか、それとも一部、残しておいて、ベッドの中で脱ぐのか。迷うというよりも分からない。すべて脱いでベッドに入るのは楽だが、その前から、やる気を出しすぎている気がするし、かといって、ベッドの中で無事に脱げるのか、脱いだ下着は邪魔にならないのか、という疑問もある。
将は迷うように、畳んだ上着を持ったまま立っているし、一馬もズボンに手をかけたまま、動きを止めた。将の不安そうな目の色に、俺がしっかりしなければと、奮起する。
ベッドに入ってから必要以上に身動きするのは変だろう。ならば――。
「脱げ」
「……」
将の顔がますます赤くなり、目が信じられないものを見るように大きく、見開かれる。
「ち、違う、あ、違わない。だって、脱がないと駄目だろ!」
「そう、そうだよね」
うろたえながらも、うなずいた将は唇を噛んで、ズボンを下ろし、一気に裸になった。服を畳み、床の隅に置いている。そちらは見ないようにして、一馬も全裸になった。体に鳥肌が立つ。
「電気、消すぞ」
将はベッドに上がっている。電気を消すと、暗くなった部屋の中、一馬は自分のベッドに向かった。
「暗いね」
「電気、消したからだろ」
こんなに暗くて、大丈夫だろうかと不安になったが、外からの明かりは、一馬が思う以上にカーテン越しに部屋を照らし出していた。これなら、何とか分かる。
将に気がつかれないように深呼吸を二回。
「目が慣れてきた……」
将が静かに囁く。
「俺も」
少し暗い方が、落ち着ける。顔の細かい表情が見えないからだろうか。一馬は顔は向けないまま、そろそろと手だけを伸ばして、将の手を探す。温かいものに触れると、なぜか、将が低く声を上げた。
「ごめん」
「……大丈夫」
俺は一体、どこに触ったのだろうかと一馬は不安になった。将の返事からは、ほんのりした羞恥が感じられたから、もしかして、と思う。まさか、いきなり、そんなところに触れてしまったのだろうか。しかし、感触が違うようである。もちろん、自分のものに比べてだ。だが、それにしても、今のはいやにすべすべしていた気がしてきた。
将の姿勢と位置を思い出しながら、もう一度、手を伸ばす。シーツの上を滑った手が、今度は手首に辿り着いた。手を上げていき、将の肩をつかむ。将が震えていると分かった瞬間、押さえきれなくなった。
「風祭」
抱き寄せて、腕の中へ閉じこめた。将の手も背中に回る。よく考えれば、初めて、素肌同士で触れ合った。あたたかい。いい匂いがする。
裸の胸を将の髪がくすぐった。同時に柔らかいものが胸に当たる。
「真田君」
吐息が言葉と共に肌に触れる。将が自分の胸に頬を寄せているのだ。肩を強く抱きしめて、一馬は将をベッドに横たえようとした。力の入れ方を間違えて、二人して、ベッドに転がってしまったが、結果的には成功だろう。スプリングをきしませて、一馬は半身を起こし、寝転がったままの将の上に覆い被さった。
体の下で弾んだように、呼吸している将の体温が、わずかな距離で感じられる。将の体の横に手をつき、見下ろすような形になった一馬は、次の段階に進む前に訊ねた。
「ほんとに、俺が、こっちで、いいか」
「こっち?」
「その――」
二人きりとはいえ、恥ずかしい。一馬は将の耳に小声で囁いた。髪から、自分と同じ薫りがした。将も、間違えて母親のシャンプーを使ってしまったらしい。
「あ……」
きっと、将は赤くなっている。
緊張して返事を待っていた一馬の目に将がうなずくのが見えた。
「いいか」
「うん」
将の返事を合図に、行動開始である。
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