獅子と王子の物語
(下)



 獅子が見送った隊商の主である商人は長い間、栄南を離れ、異国を旅していた。めずらかな品々を携え、戻ってきた商人を人々は歓迎した。
 やがて、商人はある貴族の引き立ててで、王も臨席する宴へと参加することになった。
 ここでの立ち居振る舞い次第で、これ以上ないと言うほどの客を掴めるのだから、商人は張り切り、様々な品を携えて、宴へとやって来た。
 運の良いことに、異国からの旅人に、王は興味を引かれたのか、彼を御前へと召した。商人は異国の風土のことなどを面白く、興味深げに語り、その話のつど、異国の品々を王に見せ、献上した。王はそのたびにほほえんだ。それは、幾分寂しげなものではあるのだが、すでに商人はその理由を知っていた。
 三年ほど前に、王が愛し、貴族たちに慕われていた王弟が亡くなったためなのだ。せめて一夜の慰みにでもと、商人はなおのこと口上に熱を入れた。
 酒も行き渡り、人々の腹もくちて、宴はやがて、満ちたりた静けさに包まれ始めた。
 王は、決して乱れることのない、静かな瞳で商人をいっそう側に召し寄せ、口を開いた。
「数々の国を渡る中では、身の危険を感じたことも少なくないだろう」
「それはもう」
「どのようなことが、その身に起きたのだ?」
 商人はうなずいて、盗賊海賊を始めとした様々な悪人や嵐、吹雪、熱波、砂嵐などといった自然に追われた話をまたも物語るのだったが、やがて、これも王の興をそそるであろうかと考えた話を口にした。
「都へ戻る途中でも、私は死ぬのかと思ったことがございました」
「おやおや。そなたは、どこにあっても危険を招き寄せるとみえる」
 くくっと忍び笑う王に、商人も笑みを浮かべた。続けよ、というように、王は酒杯を口に運んだ。
 商人は語り始めた。
「実は、あまり良い噂は聞いてはおりませぬが、都への早道でございますので、護衛を大勢雇い、カイワンの山を通ったのでございます」
 商人の声に、その場が静まりかえった。中には顔色を変えてさえいるものもいる。商人は自分の失言に表情を強張らせたが、王は手を振った。
「いや、構うな。あの山には、みな、よい思い出がないのだ」
 微笑と言うには苦しげな笑みが、王の唇に浮かんだ。王は商人に盃を勧め、話を促した。
「それで? そなたはカイワンで何を見たのだ」
 商人は酒で緊張をほぐし、話を続けた。それは、いま思い返しても、心に残る奇妙な出来事だった。
「私たち一行は山道を行っておりました。荒れた道でもあり、草を払い、藪の中を進む内に、どこへ迷い込んだものか、ふと気づくと目の前に巨大な獅子がいるのです。並の獅子ではございませぬ。毛並み、爪、牙、たてがみ、どれをとっても、あの山の主、いえ、それどころか、獅子の王とも神とも呼んでよいほどの高貴な気配を漂わせる獅子でございました。
 みな、青ざめ剣を抜く間も、弓矢を構えることもなりません。ついにここで果てるのだと覚悟致したのですが、不思議なことに獅子はこちらを襲ってはきませんでした。それでも動けば、獅子が向かってくるのではと、私たちは歩み出せません。
 虫や鳥の鳴き声を遠くに聞きながら、私たちは獅子を見つめております。獅子もまた、私たちをじっとにらんでおります。あの獅子が動くとき、私たちの旅も終わると思い、ならばいっそ打ち違えてでもと、護衛の者に合図しようとしたときです。
 獅子の足下で何かが動きました。よく目をこらしてみると、なんと獅子は前足の間に少年を抱いていたのでした。何一つ恐れる様子無く、少年は獅子の足の間に眠っており、時には寝返りを打って、獅子の腕の中での午睡を楽しんでいるのです。
 驚きのあまり、剣を抜くのも忘れ、私たちは獅子と少年の方を眺めやっておりましたが、やがて少年は目を覚ましました。黒い、澄んだ瞳のそれはそれは可愛らしい少年でありました。
 私どもを見て驚いた様子でしたが、ほほえむと手で行くようにと言っております。悪魔と思うには、邪気のない優しい眼差しでしたので、私は足を動かし、歩き出しました。獅子は動きません。獅子と少年からかなり離れて、振り向くと、少年は獅子の背にまたがっておりました。そして、そのまま森へと消えてしまったのです。まこと、幻でも見たような思いでございます。世には不思議な話もあるもので。人を喰らう獅子が、少年を側に置いているとは、それともあの少年も獅子の化身で……」
 ――商人は口をつぐんだ。
 いつしか、広間は静まりかえっていた。
 貴族たちの中には、商人をにらむがごとく強い視線を送っているものもいる。王もまた同じような瞳をたたえていた。
 獅子と出会ったときですら、これほどではなかったであろう強い恐れを商人は感じた。
 滾るような声を必死で押さえつけたような声音が、王を呼ぶ。
「――陛下!」
「かの獅子は」
「少年とは……」
 気色ばむ貴族達に、商人は思わず、我が身が何の過ちを犯したのかと恐れおののき、その場に平伏した。
 我を取り戻した王は、手を振り、貴族達を静めさせた。
「すまぬな。なんとも、面白い話を聞かせてくれた。感謝するぞ」
 王は商人に望むだけの金を下賜し、様々な品を買い取った。
 ――十日後、王は兵を率い、長らく封じてきたサージバーはカイワンの山へと向かった。商人から聞いた場所を拠点にして、四方を探してみれば、岩の裂け目とも思える洞窟があった。獣の気配はなかったが、数多の兵士たちが周囲を見張り、矢と剣を構えていた。
 選ばれた十人の手練れの戦士が、洞穴へと入っていった。
 狭くはないが、広いともいえない洞穴の奥、そこに、まごうことなき、王弟がいた。苔の褥に横たわり、目を閉じている。痩せてはいるが、以前にも増して、清らかさを増していた。
 すぐさま、一人が王の元へ走った。
 報せを聞くなり、王は側近を止めるのも聞かず、洞穴へ入った。
「将――!」
 震える声でその名を呼び、体に手をかける。抱き上げれば、体は軽く、身にまとった衣ももはや、衣服とはいえぬ形状ではあったが、しかしまぎれもない現し身であるあかしに、人のあたたかさを持っていた。
 思わず、功の目に涙が浮かぶ。
「将! 俺だ、功だ」
 揺さぶる手にも力がこもる。
 将の瞼が震え、目が開いた。何ら変わりのない黒い瞳が功を映し出す。わずかな一瞬に、功は将がひどく意外そうな、まなざしを浮かべるのを見て取った。
「え……?」
 不可思議なつぶやきの後、将は目を開き、はっと息をのんだ。
「功兄」
「そうだ」
 幻ではないと知り、功は将を強く抱きしめた。
「お前が生きていたとは……!」
 言葉にならぬ声は、目に浮かぶ涙と変わる。
 しかし、将の健やかとはいえぬ体が、功の感動を押しとどめた。一刻も早く、医師に診せて、休ませなければならぬだろう。
 将の体に己の外套を巻き付け、功は弟の体を抱き上げた。
「輿を」
 兵に命じ、この忌まわしき洞穴から早々に立ち去ろうと外へと歩み出した。
 将はまるで夢見るかのような瞳で、功を見上げている。
「僕は――」
「悪い夢を見ていたんだ。もう、大丈夫だ」
「夢……?」
「そうだ。眠っているといい。目が覚めたら、将の部屋だ」
「僕の部屋?」
 将は戸惑うように呟いた。
 構わずに、功は薄暗い洞穴から、明るい外へ出た。功の腕に抱かれた将を認め、兵や貴族たちの間からは、驚きと喜びの声が上がる。
 怯え竦むように将の体が強張ったため、功は首を振り、その歓喜の声を静めさせた。輿が運ばれてくる。
「下ろして……」
 功は迷ったが、将が弱々しくも己の胸を押したので、そっとやせ細った体を地面へと下ろした。
 体を包む外套を押さえながら、将は両足で大地を踏みしめ、何かを探し求めるかのように眼差しを遠くへとやった。
「――将」
 その肩を手のひらで包み、輿へと乗るように功がうながそうとしたときだった。
「陛下!」
 兵の鋭い叫びが響き渡った。
 弓弦が鳴り響く。矢が空気を切り裂き、叫び声と、大きな咆哮が山に轟いた。
 功が剣を抜く間もなく、獅子は目の前に立ち塞がっていた。
 殺されるか。覚悟をした功は、獅子のまなざしが、敵意や殺意を欠片も浮かべていないのに気づいた。
 それどころか、獅子は将だけを見つめていた。将も、獅子だけを見つめていた。
 弟が今にも自分の腕から逃れ出しそうで恐ろしくなり、功は将の体をしっかりと抱きしめていた。
 見つめ合いの果てに、やがて、獅子は身を翻し、森の奥へと消えた。将が喉の奥でくぐもった悲鳴を上げた。功の腕の中でもがき出す。
「将!」
「行かないで!」
 功の腕の隙間から将は手を伸ばした。
 だが兄の手は弟の体に強く巻きつき、離そうとはしない。
「行かないで!」
 悲壮な叫び声を上げ、将は半狂乱のようにして、功に抗い、獅子の後を追おうとした。
「将……!」
 獅子の姿が見えなくなっても、将はもがき続ける。
 功は仕方なく手荒い方法で将の意識を失わせた。ぐったりした体を抱き、輿に乗る。
 行列は進み出した。ふたたび、獅子が現れることを警戒しながらの道行きであったが、獅子は二度と、姿を見せなかった。

 いたわしくも獣に憑かれてしまった王弟を人々は同情といたわりの思いで、迎えた。
 絹と玉の褥にて、絹の夜着に身を包んだ王弟は、傅く人々から手厚い看護を受け、窶れを薄くしてはいたが、その面から一抹の翳りが拭われることはなかった。
 国務の合間に、手みやげを携えては、たびたび、王は弟を見舞ったが、将は静かにそれを迎えるだけだった。以前の明るさは影を潜め、唇には物思わしげな笑みだけが浮かぶ。
 いずれ、と自分に言い聞かせる功だったが、体の健やかさはともかく、将の心だけは、誰にも癒せぬようであった。
 午睡を終えた頃合いを見計らい、その日も、また王は、弟の寝所を訪れていた。
 功の訪れを知った将は侍女に支えられながら、寝台の上から起き上がろうとしていた。それには及ばぬと、功は半身だけを起こした将の肩に手ずから、肩掛けを掛けた。
 それほどの長居はしない。将の口数は少なく、功の言葉もまた短い。互いの手にある茶器に満たされた茶はぬるくなり、少なくなった。あと、わずかな時で、王は政務へと戻るであろう。王弟が戻ってからの日常にすでに慣れていた家臣たちは、ひそやかにその準備を行い始めた。
 尊き王の足裏が触れるのは、王家の色に染められた敷布でなければならない。政務の行われる本殿までに敷かれる、緋色に染め上げられた絹の敷布の用意を、家臣たちが調えていると、高位の宦官が足早にやってきて、王への目通りを願った。
 王弟との時間をことのほか、王が大切にしていることは知れ渡っている。それを知ってあえて願い出る宦官の常にはない狼狽えた様子に、人々は戸惑った。
 王もまた、よほどのことがない限り、この時間に自分への目通りを願うことがないと知っていたから、ほどなく、宦官は寝所へと通された。
 すだれ越しに、宦官が訴えた。
「陛下」
 声に混じった恐怖の響きに、功の体は弟をかばうかのような動きを見せた。
「――門を越えて、あの獅子が」
 功は命を下すよりも先に、我が弟を見やった。将もまた静かに兄を見つめた。強い確かな意志が黒い瞳に浮かんでいた。
「――兄上。我が身は、以前のものではありません」
 功は将に手を伸ばし、その体を抱きしめようとした。何があっても、何が起きようとも、血を分けた弟であることは変わらぬ、そう伝えたかった。
 功を押しとどめ、将は首を振り、一抹の寂しさを見せて笑い、そっと告げた。
 伸ばした手をびくりと震わせ、功は目を見開いた。
 将はわずかな衣擦れの音と共に、立ち上がった。素足のまま、将は部屋を飛び出していった。
「殿下!」
 おっとりした普段の所作からは想像できない、王弟の姿を見て、女官や高官たちが呼び止めようとしたが、誰の声にも将は振り向かなかった。
 寝台の傍らで功は立ちつくしていた。王の命を待つ人々の伺うような眼差しから、彼は目を伏せたままだった。何ができるというのか。
 やがて、外からのざわめきが、いっそう強く響くと同時に、空気を震わせるような咆哮がこだました。震え上がる人々とは対照的に、功は苦しげに息を吐いた。
 なんという哀しみの叫びであろうか。長い衣の裾を揺らしながら、功は露台へと駆けた。
 見下ろせば、槍を持ち、剣を抜いた兵たちに取り囲まれた獅子が、空へ向けて、咆えていた。毛皮は土埃と泥に汚れ、ここにたどり着くまでに追った傷から流れる血と汗に濡れている。獅子が咆えるたび、吹き出す血潮はその体躯を赤く染めた。
 功のいる露台から見える城壁や宮殿の窓、屋根には大勢の弓兵が弓を構え、獅子に狙いを定めている。
「陛下、まもなく、弓兵たちが矢をいかけましょう。流れ矢に御身、傷ついては大事。どうか、お部屋へ」
 跪いて、訴える護衛兵に、功は首を振った。
「それには及ぶまい」
 功が見守る中で、天にまで届くかのような叫びが轟いた。どうっと地面を揺るがせながら、獅子が倒れ伏す。激しく腹を上下させ、舌を出しながら、なおも四肢を動かし、立ち上がろうとするが、起き上がることはかなわない。
 もがく獅子に剣と盾を構えた兵士たちがゆっくり近づいていく。合図あらば、いっせいに獅子に剣を振り下ろし、とどめを刺すであろう。
 ――そして、そのときが訪れた。功は瞠目し、露台の手すりを握る手に力を込めた。
 どよめきと共に、戸惑いながらも兵たちが道を開ていく。その間を素足で歩んでくるのは、将である。
 広がるざわめきを押さえつけるように、功は露台から身を乗り出し、叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
「将! 行くな。行かないでくれ!」
 将は兄を見上げ、首を振った。瞳の端に涙が光った。
「ごめんなさい」
 軽い衣一つの姿で将は、獅子の元へと駆けた。傷つき、うち臥した獅子は、将の姿を認め、今度こそ、ゆっくりと、起き上がった。
 その体を撫で、顔をしっかりと抱き、将は自らの頬を寄せた。将の涙が獅子の顔を濡らした。
 将は獅子にぴったりと寄り添い、歩き出した。途中、獅子は将を背に乗せ、駆け出した。
 王弟の身を案じて、兵士たちはただその場に留まるしか出来ない。獅子の姿はみるみるうちに、小さく、かすんでいく。
 すべてを露台から功は見ていた。見つめるしか叶わなかった。
 冷えた背中に、貴族達の声がかかる。
「陛下、追わなければ」
「やつは手負いです。あの怪我では、そう早くは駆けられません」
「今なら、充分追いつきます」
 進言に功はゆっくり首を振った。
「もう二度と……掴まるまい」
「山中です。王弟殿下のお体が」
 それでも、将は選んだのだ。
「将は、獅子を愛していると、そう言った」
 功は噛みしめるように言い、東の空に光り始めた星々を見やった。遙か彼方のその星よりも、すでに弟の心は遠くにあるのだった。

 ――十年を経て、ふたたび、商人が栄南の都を訪れた。王は彼を懐かしみ、ある予感にも導かれ、側に召した。
 王の思うとおり、商人はふたたび、獅子の目撃談を語り始めた。
「山中で、またあのときの獅子らしき姿を目にしました」
 王は高鳴る胸を押さえ、話を続けさせた。
「それが、見違えるほどのやせこけた姿で哀れなほどでした。奇妙な石塚の側に寄り添って、離れようとしないのです。あのままでは、飢えか渇きで死ぬのではと思い、供の者に肉などを投げさせたのですが、見向きもしません。ただ、石塚を自分の体で抱き続けているだけなのです。まこと、不思議な光景でございました」
 商人の話を聞いた王は心に兆した不安を払えず、自ら山中へと赴いた。商人から聞いた通りの場所に、不格好な石塚があり、獅子もその側にいた。
 が、獅子はすでに息絶えていた。皮に張りつくほどに骨が浮き出て、肉も何も残ったものではなかった。風だけがつやのない毛を揺らしていた。
 獅子の死の理由を王は悟っていた。石の塚は、獅子が築いた王弟の墓であった。獅子は将の最期まで寄り添い、後を追ったのだ。
 王は獅子を将の横へ手厚く葬むり、廟を作らせた。廟は獅子憐廟、あるいは獅子恋廟とも呼ばれ、栄南が滅びた今も、この伝説と共に残っている。
 参る人々が灯す線香の煙が途切れることなく、捧げられる花々も絶えることなく、獅子と王子の儚い恋を人々は悼み続けている。
「むかし、むかし、人の王子に、獅子が恋をして……」
 そうして語られる物語が、サージバーには残るのだった。


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