獅子と王子の物語
(上)


※元ネタは『今昔物語』の中の一話、「獅子の妻となる王女」です



 昔、昔から始まる話になる――。
 今はサージバーと呼ばれている広大な土地も、その昔、繁栄を期した栄南国の一部であった。そこに伝わる哀れな、恋物語がある。
 
 栄南国の、いずれの王の御代であったのか、その血筋正しく、父王から国を引き継いだ若き王がいた。王には年の離れた弟がおり、王はこの弟をこよなく鍾愛していた。弟もまた兄王を敬愛し、兄弟仲はことのほか仲睦まじく、民人の誉れでもあった。
 王弟の名は将といって、何につけても優れていた兄王の影に隠れがちではあったけれど、優しい、控えめな性格で、闇を切り取ったかのような艶やかな黒髪とまなこに、心を映し出すあどけない顔立ちの少年で、同年の貴族の子弟や側仕えの中には、熱烈な思いを捧げる者も少なくなかった。兄王は人々が捧げる熱情に気づかない、おっとりした、少し浮世離れした弟を心配して、常に傍らに置いて、手元から離さなかった。
 ある日、王は大きな狩猟の宴を開いた。国中の貴族がサージバーの山々に集まり、鹿や狐を追って狩を楽しんだ。見事な大物を仕留め、名誉と、また将からの賛嘆の一言を得ようと、参加した者たちは奮い立った。
 栄南の繁栄を誇るがごとくに、壮大な狩猟の宴であった。将は兄王の側におり、犬たちの吠え声、馬のいななき、笛の合図、弓弦の響き、矢が放たれる音、男たちの上げる勇壮な声など狩の場にはつきものの心騒がせる物音を聞いていた。
 天幕の内で兄王は、次々と仕留められては、捧げられる獲物に鷹揚にうなずいていたが、これは、という大物はまだ誰も狩っていなかった。
 盃に満たした葡萄酒を口に運びながら、王は言った。
「カイワンの山中には、二十もの年を経た鹿がいると聞いているが、これを仕留められる勇者はいないのか」
 狩に参加した貴族たちは、王の不満を感じ、自らの腕の不足に恥じ入って、頭を垂れた。
 それと取りなすように、柔らかな声が響いた。
「もう充分に狩ったでしょうに。この鹿はよく肥えて、角も見事ですし、こちらの狐も美しい毛並みの素晴らしい獲物ではありませんか」
 兄王の傍らで、捧げられた獲物に目を向けながら、将はそう言った。将が褒めた獲物を狩った貴族二人は、王の前に跪きながらも、その誉れに胸を熱くした。
 可愛い弟の進言に、王は苦笑したが、さりとて、めぼしい際立った獲物のない不満は、自らも弓矢を使い、獣を仕留める狩人である王としては、やはり押さえきれなかった。勢子には続けて、鹿を探すように命じた。
 王の命を受け、勢子たちは鹿を追い続けた。日も西に傾きかけたころ、勢子の一人が、怪しげな洞穴を見つけ、気をはやらせ、王にこれを知らせた。王は喜び、それこそ山中の主だと言われる鹿の王の住まいだろうとして、みなを洞穴へと向かわせた。自らは馬に乗り、弟は輿に乗せ、この日一番の獲物の元へと出発した。
 が、洞穴は鹿でなく、獅子の休む穴だった。眠りを妨げられた上に犬をけしかけられ、人の気配を嗅ぎ付けた獅子は怒り狂いながら、洞穴から姿を見せた。
 たなびく黄金のたてがみと何もかもを砕き引き裂く鋭い牙と爪、なめらかに光る毛並み。カイワンの山の主とは、鹿でなく、雄々しく、荒々しい獅子であった。
 たくましい巨体が怒りにうねり、すさまじいばかりの咆哮をもって山の空気を震わせた。ところかまわず、獅子は駆け、立ちふさがる者を爪にかけた。
 たちまちのうちに、人々は恐怖と混乱の渦に巻き込まれ、我先にと逃げ出した。ある者は足を竦ませて動けず、ある者は谷から転げ落ち、ある者は木に体を打ち付けた。馬は無理に走らされた挙げ句に乗り手を放り出して逃げ、犬は逃げ竦み、無闇に吠えたてた。弓矢は投げ捨てられ、剣のきらめきが地にむなしく落ちた。
 貴賤関係なしに人々は、獅子から逃れようとした。中には獅子を討とうとした者がいたが、憤怒した獅子の前ではむなしい抗いにすぎなかった。
 王はどうにか獅子の爪から逃れ、無事、山を下りることが出来た。護衛の兵士に周囲を取り巻かれ、王宮へ戻る中、弟がどれだけ恐ろしい思いをしたのかを心配して、共に輿に乗るため、使いを見舞いの言葉と共に将の元へやった。
 すぐに戻ってきた使いは体を震わせながら告げた。
「王弟殿下の輿が見あたらないとのことです」
 長々と続く行列にふたたびの混乱が起こった。誰に問うても将の行方を知る者はいなかった。やがて、輿を担いでいた者が獅子に追われる恐怖の余り、輿を捨てて逃げたと告白し、王は顔を青ざめさせた。
 岩場を軽々と飛び、斜面を風のように駆ける獅子の姿が思い出された。血塗られたかのような赤い口とそこに光る牙もまた。剣を携えていたとはいえ、いまだ幼い面影の残る弟に、一体、その獅子から身を守るすべがあるだろうか。
 せめて、山へ遺骸なりと探しに行きたかったが、凶暴な獅子が住まう山中へ、王自らが向かうわけにもいかず、兵たちも怖じて行こうとしない。ついに将に思いを寄せていた貴族たちが徒党を組んで、山に向かったが、見つかったのは輿だけだった。輿の帳は獅子の牙によって引き裂かれ、中には少量の血痕と碧玉の腕環が一つ、残されていた。
 貴族たちは腕環を持ち帰り、遺品として王に捧げた。もはや、戻らぬ弟を思い、王は深く、激しく嘆いた。
 王弟の死を受け、カイワンは危険な山として、誰もが足を踏み入れることを厭う山となった。獅子の牙にかかった王弟を痛み、栄南の人々は、サージバーにあるカイワンの山に向かって、日々の祈りを捧げた。
 ――王弟の在処を知る者は、人の中にはいなかった。山に住む獣たちだけが、それを見ていた。

 人々が獅子の恐怖から逃れたのち、山にはようやく静けさが戻っていた。
 獅子はいまだ治まらぬ怒りを抱えながら山中を歩いていたが、その内に大樹の根元にうち捨てられた輿を見つけた。
 近づいて、汚れながらもなお絹の光沢を見せる帳を食い破ると、中には、優しい姿形をした少年が一人、右足に怪我を負い、気を失って倒れていた。
 獅子は驚き、怪しみつつも、王弟の哀れな姿に胸を打たれ、彼を背に負った。その際、王弟の手首から碧玉の腕環が滑り落ち、足の傷から流れた血痕と共に残されたのだ。
 獅子は王弟を山の奥深くにある別の洞窟へと運び去った。
 ――将が目を覚ましたのは、翌朝のことになる。ふわふわと柔らかい褥に、王宮の自分の寝台かと思えば、それは苔の厚く生えた岩肌であった。
 驚いて身を起こす。そこは絹と玉とで飾られた王宮しか知らぬ王子にとっては、まったくの怪しげな場所であった。
 暗い洞穴だったが、天井の亀裂から日の光がわずかなりとも差し込んで、周りが見て取れる。将は地面から巨大な寝台のように盛り上がった岩の上に横たわっており、周囲には骨が散乱していた。獣の臭いが濃く漂う。
 恐れに惑いながら、将は地面に足を下ろし、痛みに息を呑んだ。見れば、足首から脛にかけて、切り傷が出来ている。輿ごと投げ出された拍子に、何かで斬ってしまったのだろう。深くはないが、かといって浅くもない傷は、じくじくと痛んだ。
 将は起き上がり、この洞穴から逃れようと、岩肌に寄りかかり、足を引きずりつつ、歩き出した。
 洞穴は緩やかに弧を描いて、将の横たわっていた行き止まりから入り口まで続いていた。光の差す外へと将はゆっくり歩いた。足下で風に吹かれて入ってきたのか、枯れ葉がかさかさと鳴った。
 洞穴の入り口からは、眩い日の光が差し込んできている。目を細めた将だったが、すぐに顔を強張らせた。
 洞穴の入り口に大きな影が現れたのだ。痛みのため、汗の浮かんだ将の面に恐怖が走る。
 喉の奥での唸りを聞かずとも、それが獅子であることは分かった。将は後ずさりして、洞窟の奥へとふたたび逃れようとしたが、急に足に力をいれたため、右足に激しい痛みが生まれ、その場に崩れ落ちた。
 それを見て、獣はたったの二歩で飛ぶようにして、将の前へとやって来た。ふっふっと湿った吐息すら感じられる。喉笛に噛みつかれ、爪と牙に引き裂かれると、将は覚悟し、しかし押さえきれない恐れに体を震わせ、目を閉じた。
 肌に牙が立てられる瞬間は、訪れなかった。代わりに生温かい濡れた感触が、ちりちりした痛みと共に右足に触れてきた。
 将が閉じていた目を開き、はっと身を強張らせた。獅子が足を舐めていた。丁寧に傷口を辿るように、そっと熱い舌を這わせていた。
 将は驚きに息を止め、獅子を見つめた。獅子は一時、傷を舐めていたが、やがて身を起こし、洞穴の入り口へ行くと、何かをくわえて戻ってきた。
 濃い緑の葉を繁らせた枝であった。獅子は葉をちぎり、かみ始めた。薄荷にも似た香りが漂い、その清冽さに将の意識は澄み渡った。恐れが去り、落ち着きが戻ってくる。将は目の前に巨体を下ろす獅子を見つめていた。少なくとも、今すぐに命の危機があるわけではないらしかった。
 獅子はやがて、将の傷口に口吻を近づけると、いま、自分が噛み砕いた葉を傷口に舌で塗り始めた。痛みは走るが、葉は不思議に冷たさを皮膚に与え、痛みの火照りが引いていく。
 獅子は口中の葉を塗りおえると、またも起き上がった。尾を揺らし、今度は洞穴の外へと出て行く。将はその間に帯を解き、傷口に巻いた。
 ふたたび戻ってきた獅子は、今度も枝を数本くわえていたが、その先には林檎と、もう一つ、名も知らない小さな黄色い実がついていた。将の前へ落とし、獅子はそろそろと後ろに下がった。
 将は果実のついた枝と獅子を見つめていたが、唇を開いた。
「ありがとう……」
 手を伸ばし、枝を持ち上げる。林檎をもいで、囓った。水気をたっぷり含んだ果実は、乾ききった喉を潤し、甘酸っぱいさわやかな匂いで、空腹を満たした。
 果実を食べてのち、獅子は将を背に乗せ、洞穴の奥へ戻った。苔の縟の上に横たえられたとき、将の心に獅子への恐れは欠片も残らなかった。
 
 獅子は幾日経ても、将を喰らおうとはしなかった。朝早くに洞穴を出て、果実や木の実を持ってくる。水は、洞穴の奥に岩肌から染み出て滴り落ちる雫があり、それで喉を潤した。
 果実以外にも毎日、獅子は傷を癒す薬草を携えて戻ってきた。自らの牙と歯でかみ砕き、分厚い舌で傷口に塗り込めるのだった。傷は膿むこともなく、今や、うっすらした赤い痕しか見えない。数日経てば、消え失せてしまうだろう。すばらしい傷薬であった。
 将は一度、獅子が毎朝、施してくれる手当を自分で行おうとした。獅子の止める素振りを押さえて、葉を口にしたとき、そのあまりの苦みに、将は耐えられなかった。獅子は笑うような、案じるような眼差しで、将の頬を舐めた。
 口直しにするようにとでもいうように、差し出された甘い果実を口に入れた将は、この強烈な苦みを持つ薬草を、自らの口中で噛み砕く獅子の心の優しさに胸を打たれ、将はその体を抱きしめた。
「ありがとう」
 獅子はふうっと吐息を漏らし、将の身に猫のように体を擦りつけた。
 獅子との生活は、慣れぬことばかりではあったが恐ろしいものではなかった。山の主である獅子を憚り、鋭い牙と爪持つ獣は他に姿を見せなかったから、将は足の怪我が治ると獅子と共に野山を歩いた。柔らかい足裏を持つ王子を、ときに自らの背に乗せて、獅子は花の咲き乱れる谷間や清涼な流れの沢、すがしい香りに満ちた静謐な森の中をゆくのだった。
 夜、獅子は将の傍らで眠る。いつしか、将は獅子の鬣に顔を埋め、あるいはその前足の間で、あたたかい体に寄り添って眠るようになっていた。獅子もまた、将の体を抱き寄せて、眠った。
 獣と人と、姿形は違えども、心は通じるのか、どちらも互いの願うこと、望むことを察するようになっていった。
 仲睦まじい日々が続いた。将にとっては夢でも見ているかのような、不可思議な日々でもあった。
 将は自らが知る物語を、獅子と過ごす時間のつれづれに、語った。生き別れの親子の情愛を語る話、清らかな恋物語、国の衰亡、時の流れ、獣たちの逸話、精霊や神々と人の関わり、怪しげな影の跋扈する恐怖、自然のおりなす営みの壮大さ。獅子はおとなしく、将の傍らでまどろみながら、話を聞くのであった。
 将は、いにしえの王の名を取り、獅子を潤慶と呼ぶようになった。
 潤慶と名付けられた獅子は、人の名の言霊をもらったからか、それとも、とりわけ優れた獣は人の情を持つからか、いつしか、将を思慕するようになっていた。
 だが、将と獅子との力は違いすぎた。獅子の爪はたやすく将の肌を引き裂き、牙は奥深くに食い込むだろう。力を込めて抱き寄せれば骨は砕け、命は失われよう。
 愛おしむ心とは裏腹に、将に触れるときは、滾るような思いを押さえつけなければならなかった。
 獅子は祈った。もし、将の語る話にあるような神がいるのなら、一片の哀れみを賜い、この体を人と変じてくれないだろうか。
 それとも、将が自らと同じ獅子と化して、共に野山を駆けられたのなら。何も惜しむまい。悔やむまい。同じ姿形となり、一度なりと添い臥すことが出来たのなら!
 過ぎゆく日夜に願いはむなしく冷えていき、獅子は胸も裂けんばかりの悲しみに涙をこぼした。いまだかつて流したことのない猛獣の王の涙は地に落ち、しとどに岩を濡らした。
 どんな存在ですら情けを寄越さずにはいられないその様子に、獣たちの守護者にして、夜の支配者である、冷たくも優しい月が氷のごとき沈黙を破り、語りかけた。
「――獅子よ、何ものをも砕く牙と爪、幾夜駆けても疲れぬ力強い四肢を持ちながら、この上、何を望むか」
「人になりたい!」
 獅子が咆える。
「人の姿が欲しい! あの少年を傷つけず、愛おしめるような姿が欲しい!」
 獅子の咆哮に、月は凍てついたため息を吐いた。どんな犠牲を払ってもよいと思わせる恋情への憐れみであった。
「獅子に戻っても、以前のような力は持てまいよ」
 言葉が終わると同時に、獅子の体は急に軽くなった。それだけでなく、冷えを感じ、獅子は体を廻らせた。毛の無い体が、岩の冷たさを受け、鳥肌だっていた。
 五本の指が見える。手をかざした。かつて、いかなる獣をもねじ伏せてきた前足が、今は頼りないほどに細い。寒さや風雨を弾いてきた毛もない。しかし、五本の指は器用に動いた。
 獅子は立ち上がった。将と同じ、二本の足で。
 喉から漏れたのは、歓喜する人の声だった。獅子は躍り上がるようにして、月光の中を走り始めた。今までの体とは違う、緩慢で頼りない走りではあったが、以前には見られない歓びが充ち満ちていた。
 尾もなく、噛み砕き、引き裂く牙もなく、強靱な四肢もなく、か弱い人の姿で、獅子は走った。一心に、将の元へと駆けていった。

 洞穴で一人、獅子の帰りを待っていた将は、聞き慣れない足音に、起き上がった。ざり、ざりと砂を踏み、小石が斜面を転げていく音が聞こえる。
 獅子は足音を立てない。忍びやかに洞穴に戻り、音もなく将の体に寄り添うのだ。
 その音は人の足音に他ならなかった。将は獅子の身を案じた。狩人ならば、獅子をここから遠ざけねばなるまい。恐れを感じつつ、将は立ち上がり、ゆっくり歩き出した。
 満ちた月に照らされ、岩は濡れたような輝きを見せていた。そこに、背の高い細身ではあるが、しなやかな筋肉に覆われた若い男が立っていた。腰に毛皮を巻き付けただけの姿だ。
 男はしばらくじっと目を細めて将を見ていたが、その精悍な顔に、驚くほどの歓びが沸き上がった。
「将!」
 見る間に駆け寄ってくると、将に向けて、両手を広げた。抱きすくめようとされ、将は混乱し、怯え、竦んだ。この男は何者なのか。
 獅子はいまだ帰らず、不安に胸を詰まらせた将は首を振って、手を突っぱねた。
「離してください」
 言葉すら聞かず、男は将に頬を寄せる。
「将……将」
 唇が頬に押し当てられ、舌がぺろりと将を舐め上げる。大きさの相違はあれど、慣れ親しんだその愛撫に将は抗いを止めた。
 覗き込んでくるその瞳を将は知っていた。
 男が手を伸ばしてくる。大きな掌だった。重ねると、将の手はすっぽりくるまれた。
「……潤慶君?」
 男がうなずいた。
 なぜ、と問うても、人の形を得たばかりの潤慶に上手く語るすべはなく、将の顔に唇を押し当てるいつもの仕草を見せた。
 将はその力強い手足に抱きすくめられている。潤慶の唇が髪をくすぐった。
 囁きが漏れた。
「神様が願いをかなえてくれた」
「かみさま?」
「満ちた月だ。欠けた月でなく、満ちた月は、心も満ちて、やさしい。将のように」
 唇はそれ以上の言葉を紡ぐのを止めた。人の唇で触れる将の体はどこもかしこも柔らかい感触を返してくる。ならば、何も語る必要はない。
 苔の縟が臥所となった。獅子の男は本能が命じるまま、将の体を開き、熱を注ぎ込んだ。もたらされる初めての苦痛と快楽に、将の唇から幾度となく、息がこぼれた。逃れ、求めるような将の手を、潤慶は追いかけ、掬いあげた。
 人でなければ不可能な四肢の深い絡み合いは、潤慶だけでなく将にも深い満足を与えた。
 どこからが夢で、どこからがうつつなのか。どちらでもよい。このときが長く続けばよいと、満足しきって寝入る潤慶の頬を撫で、将はそう思った。

 以来、月が満ちたとき、潤慶は人の姿になり、将と睦み合った。獅子に戻った潤慶は、すでにかつてのような力を失っていたが、それは、彼にとっては何ほどのことでもなかった。
 野山を風のようにさすらう自由は、確かに失っただろう。が、それすらこの恋の前では、枷のようなものだった。
 将と共にあれば、それで満足だった。獅子であるときは、将を背に乗せ、己が領土を駆けめぐった。一時たりとも離れることはなく、二人、ひたすらに昼も夜も寄り添い、慈しみ合った。
 人の形を取ることは、潤慶の心に幾たりかの影響を与えていたのか。彼は、ある日、我が山を行く隊商たちを間近に目にしながら、怒りを覚えなかった。
 昔の潤慶であれば、己の縄張りを荒らす人間の存在を許さなかった。将を得たときでも、それは変わらなかっただろう。だが、隊商たちは、ただ偶然に潤慶と将が午睡を取る岩山を通りがかっただけのようだった。
 近づく気配に気づいて目覚めた潤慶と違い、将はそのかたわらで、安らかに眠っている。この穏やかな眠りを覚ましたくはなかった。潤慶は穏やかな眼差しで隊商たちを見下ろしていた。
 もし、彼らが将や己に向かって攻撃でもしてくれば、一転して、彼らの魂が消し飛ぶほどに咆哮し、襲いかかっただろうが、人々は驚きと畏怖に満ちた目で、潤慶と将を見つめるばかりであった。
 信じられない、あれは精霊なのかと将を指して話す者もいる。その声が聞こえたのか、それとも潤慶のわずかな体の震えを感じたのか、将が軽く身動きして、目を覚ました。
 いつものように小さくあくびして、潤慶の方へと身を寄せた将は、人間の姿を認めてもさして、驚きはしなかった。潤慶が側にいるという安堵はそれほどに大きかったのだ。
 怯える人々に将はほほえみかけ、早く行くように手で示した。彼らは我に返ったように動き始めた。潤慶と将はそれをじっと見送った。
 将は愛おしげに潤慶の鼻先を撫で、口づけると、その背にまたがった。彼らの一人が振り返る前に、潤慶はその場から立ち去った。
 将と共に洞穴に戻ってからも、臭いを辿れば、人々に追いつくのは難しいことではなかった。あの行列の中に身を躍らせ、全員を殺すのは、もっとたやすい。もし、彼らが自分と将を追い求める素振りを見せれば、たちどころに潤慶はそうしただろう。
 だが、そのような素振りは見受けられなかった。彼らは急ぎ足で山を下りていったし、将もそれを望まなかった。だから、何事もないはずだった。


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