舌にとろける冷たいクリームのように(1)


 ソフトクリームを食べた後、風祭がやけに口元を気にしていたから、どうしたのか訊いた。
「口がべたべたするんだ」
 風祭は何度も唇を手の甲でこすって、ちろりと舐めた。擦ったせいで、赤くなり、小さく舐めたせいで、濡れてしまった唇だった。ふと思い立って、身をかがめる。
「風祭」
 呼んだら、こちらを向いて、俺の目を見た。
「なに?」
 思いがけず、近づいていた俺に対しての驚きはあったが、何かされるかなんて想像もしていない瞳だった。睫毛が触れるくらい顔を近づけて、唇を合わせた。ふにゃっと俺の唇の下で、風祭の唇が柔らかくへこむ。確かにミルク味のソフトクリームと、コーンの香ばしい匂いがした。
「郭君……」
 唇を離した後、風祭がどうしようもない困った照れ顔をしているので、うなずいた。
「大丈夫。誰も見てないから。それにしても、結構甘いね」
「そう、僕も舌に味が残って……違う、そうじゃないよ」
 風祭はぎゅっと眉を寄せた。
 最近はどうも誤魔化しにくいし、話も逸らしにくい。まあ、それだけ俺との時間に慣れてくれた事かな。最初の内は、何をするにしても、風祭は赤くなったし、動きも固かったし、言葉なんてしどろもどろになっていた。
 何か話したり、さり気なく、からかったりしてみるだけで、頬どころか首まで真っ赤にして、ほとんど泣き出しそうになっていた。見つめただけでも、そうなるから、一度、胸に触れた事がある。どれだけ、激しく鼓動しているか、確かめたくなったからだ。
 突然に触れたせいもあってか、風祭の体に治まりきれないくらいに、心臓は早鐘を打っていた。飛び出さないのが不思議なくらいの早い激しい鼓動に、苦しくないの、と訊ねた。
 ――だって、郭君といると、いつもこうなるんだよ。
 風祭は濡れたような目で、囁いた。
 鋭い棘で胸を刺されてしまったような感覚の後、自然に風祭の頬に手を添えて、唇を重ねていた。流れとしては、別にそうなってもおかしくない雰囲気だったと思うし、それが、本当に最初のキスだったけど、その後の風祭ときたら、その後一週間は顔を合わせるたびに赤くなって、会話も出来ないくらいだった。  結人には、何があったか勘ぐられるし、一馬は何を勘違いしたのか、俺の事を信じられないものをみるような目で見て、不潔だ、なんて、今時、聞けないような台詞を言ってくれたりもした。
 あのね、幾ら何でも、付き合い始めて、二週間で手を出す訳ないでしょ。もちろん、誤解させておいた方が牽制にはなるから、いいんだけど。一馬以外にも、衝撃を受けていた人間はかなりの人数だったし。
 もっとも、風祭は俺を見るたび、うっすら頬を染めて、潤んだような目になっていたので、逆効果だったかもしれない。俺を見る風祭の表情といったら、その場で抱きしめて、何をしても後悔しないほど、魅惑的なものだった。
 恋敵が多いのは、最初から承知だったから仕方ないが、やはり自分の大事な人の、そんな魅力を大勢に知られるのは悔しい。しょうがないことなんだけど。風祭に罪はないしね。しいていうなら、風祭だから罪かな。
 あまり速いペースにならないように――そうしないと、風祭の心臓がもたないから――かといって、遅すぎにもならないくらいに、風祭と付き合いを深めていって、今に至るわけだけど、その間に風祭にも成長はあった。俺の前で緊張しなくなったし、すごく無防備に笑うようになった。俺がそれを見て、どれだけ、どきりとするかなんて知らないだろう。
 今だって、うっすら頬を赤くして、一生懸命、俺を諭そうとする風祭が、面白くて、可愛くて仕方ない。
 風祭は人目につくからとか、やっぱり開けた場所だと誰が見てるか分からないとか、色々と理由を並べてくれた。最後に俺に了解を求めてくる。
「だから、郭君、こういう場所じゃ……」
「嫌だったら、もう二度とキスしないけど」
 言葉途中で、さらりと言うと、風祭がまばたきした。不安そうな心配そうな、そんな目が瞬きの後にある。きっと心臓の鼓動も早くなり出したに違いない。
 素っ気なく言ったから、風祭の頭の中では、俺は二度と風祭にキスしない、と変換されているのかもしれない。風祭のこういう思考の流れは、さすがにまだ読めない。読みやすい時は、次の言動や行動なんかが、全部分かるけれど、時々、突拍子もないことをしてくれたり、言ったりする。これが、面白くて、飽きなかったりもする。
 何を言うかなと、ちょっと期待して待っていたら、期待通りの答えを返してくれた。
「する前に、言ってくれたら、大丈夫……」
 風祭は自信なさげに言って、付け加えた。
「……だと思う。頑張ってみる。だから、その、ええと」
 言葉に詰まってる。キス、の一言が恥ずかしいなんて、風祭らしい。キスが口にするのも恥ずかしい単語なら、俺と風祭は、もっと恥ずかしかったり、いやらしかったりする事をしてきてると思うんだけどね。
「――また、してくれる?」
 顔を真っ赤にして、やっと一言。
 何を、と聞き返してみたかったけど、さすがにそれ以上、苛められなかった。俺の心が振り切れたんだと思う。可愛くて、苛めたくて、からかいたいところから、ただいとおしむだけの場所にまで。
「じゃあ、今、するよ」
「今?」
「人もいないし」
 風祭はものすごい勢いで辺りを見回して、ずいぶんと遠くに親子連れが居るのを見つけると、俺の手を引っ張って、木陰に連れて行った。
「ど、どうぞ」
 ぎゅっと目をつぶり、顔を上へ向けて、唇なんて思い切り震えてるし、拳は固く握りしめられて、キスするというよりも、まるで、試練に耐えるような顔だ。
 肩に手を置いて、俺は風祭の方へかがむ。近づいた気配を感じて、風祭の瞼がぴくんと震えた。唇に息を吹きかけて、それから虚を突いて、瞼にキスをした。唇で触れた瞼の下には風祭の瞳が震えていた。
 驚いた風祭が目を開いて、近くにある俺の瞳を、まばたきもしないで見つめる。
「目が落ちるよ」
 あんまり大きく見開いているから、言ってみた。風祭がふわんとした、風祭の特性みたいな照れた笑みを浮かべた。
「落ちないよ」
 耳にかかった髪を指先で掬って、囁いた。
「でも、もしもってことがあるから、もう一回、目を閉じてみて」
 うん、と風祭は素直にうなずいて、目を閉じた。風祭の頬と唇に残っているはにかみが、風祭を驚かせないようなキスをしなくてはと、俺に思わせた。
 そうっと、薄くて歯を立てたらすぐに破れそうな風祭の柔らかい唇に触れる。小さな声が漏れた。声ごと、吸い取って、キスを続ける。風祭が、苦しくならないように、時々、唇を離して、少しずつ深くしていく。唇の向こうにも、風祭の食べたソフトクリームの甘さがいっぱい、残っていた。
 風祭が支えを求めるように、俺の服をつかんできた。肩に置いた手を下げて、腰を抱くと、引き寄せた。すっぽりと俺の腕の中に収まる体、たぶん風祭自身よりも俺は、この体を大切に思っている。
 キスが終わると、風祭は大きく深呼吸して、俺を見上げてきた。外でするには、深すぎたかな。抱いている風祭の体が熱くなってきている。潤みかけた目を見ていたら、俺もそのままじゃいられなくなりそうだ。
「風祭、今から、家に行っていい? ただ、遊びにいくだけじゃない目的で」
 俺の服をつかんだまま、風祭が前髪を揺らした。
「うん。僕も来て欲しい」
 はにかんだように言って、風祭は無意識の絶対的な誘惑の笑みを、俺にくれた。


 家までの道のりの途中で、訊いた。
「お兄さんは、家にいる?」
 風祭は腕時計を見た。
「もう仕事に行ったと思う」
 じゃあ、色々な事が大丈夫だなと安心した。風祭が何か言いたげに俺を見上げてくる。疚しさとか罪悪感とか、感じているんだろうと思った。俺たちは年齢にしては早すぎる関係を持ったし、そこに男同士なんて、問題が絡んでくるから。
 俺は構わなくても、性格の違いもあってか、風祭は時々、気にする素振りを見せる。それは風祭自身の心の問題だから、俺に出来るのは、風祭が、これでいいんだといつか自然に思えるまで、側にいることだ。後は言葉でも態度でも、大丈夫だと示して、不安を小さくしてやることくらい。ささやかでも、ないよりはましだろう。
 風祭の肩を抱いて、笑いかける。風祭が小さく、でも心から笑った。今日の分の不安は消えたかな。それなら、いいんだけどね。
 あまり話さないで、風祭の家まで来た。エレベータに乗って、風祭がボタンを押す。
「郭君」
「なに」
「シャワーだけ浴びさせてもらうね。汗、かいちゃったから」
 そういうのは不意打ちだと思う。別に普通の言葉だけれど、今の風祭が、今の俺にそういう言葉を言うのは。
「風祭」
 俺を見上げるのは、耳たぶが綺麗なバラ色になった風祭。
「俺は風祭の汗の匂いも結構、好きだな」
「ええっ」
「そういえば、前にも言った」
 混乱で視線があちこちに行っている風祭を抱きすくめたところで、エレベータが開く。
「い、言ってたっけ」
 わたわたと俺の腕の中で、もがく風祭を引っ張って、ドアの前へ歩く。一歩、一歩、誰の目にも触れない場所に、二人きりになれる場所へ近づいていく。
「言ったよ。でも、風祭は覚えてられないか」
 風祭にドアを開けてくれと頼む。そうしないと、考えに没頭して、動いてくれそうにない。風祭はポケットを探って、鍵を出すと、鍵穴に差し込んだ。
「郭君が言ったんだったら、覚えてるはずなのに」
 がちゃがちゃ、鍵の音を立てながら、風祭は一生懸命、俺が言った言葉を思い出そうとしている。
「うん。でも、あのときは無理でしょ」
「あのときって――」
 錠が噛み合ったのか、かちり小気味よい音と共に鍵が開いた。同時に風祭が真っ赤になった。分からなかったら、口だけでなくて、指先も使って教えようかと思ったけれど、それは必要なかったようだ。残念。服の間から入れようと思っていた指を、いったん引っ込める。
「言ったの?」
 声が上擦っている。
「確か、一ヶ月前。ほら、久しぶりに会ったし――」
「いい! 言わなくていいって」
「その前、会ったときは出来なかったから」
「覚えてないけど、覚えてるよ!」
「我慢が聞かなくて、ドア開けるなり」
 ドアを開く。一ヶ月前を思い出して、今からを想像して、喉が灼けるような乾きに襲われた。
「郭君!」
「こうしたっけ」
 風祭を抱き寄せて、キスをした。唇は俺の名前を呼んだときの形をしていた。


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