夜指南



 どうしよう、とまず、思った。
 この年齢でこの失敗はない。あり得ない。
 が、失敗してしまったのだ。信じたくない心を抑えて、冷静に現実問題の処理にあたらねばならない。
 幸い、下着が濡れただけのようだ。敷布や寝間着にはついていない。
 腰帯を解き、ファルーシュはひんやりした夜気に下肢をさらした。着替えは用意できるが、この汚れ物をどうしようか。一人きりになる時間がそれほどないファルーシュは考えた。ともかく、寝台の上に放りっぱなしではいけないだろう。まとめようとしたとき、指が下着に触れ、何とはなし、違和感を覚えた。
 もう一度、触れてみる。濡れている部分は、少し粘りがある気もするが、さらりとしている。嗅ぎ慣れないが、しかし、どこか生々しい匂いがかすかにした。
 始めに思っていた粗相とは違うようだった。何だろう。何かの病の前兆だろうか。それとも疲労が溜まると尿はこのようになるのだろうか。
 シルヴァやムラードなら教えてくれるだろうが、戦中でもないので、二人ともそれぞれの部屋で眠っているはずだ。あれだけ職業意識が強い二人であれば、急病だといえば飛び起きて、診てくれるだろうが、それはためらわれた。急な病とは思えないのだ。
 本能的にこれは、リオンには訊ねられないと悟る。ならば、誰に打ち明ければいいのか。
 そうなると、ファルーシュの頭には一人しか思い浮かばなかった。
 彼が帰城しているときで本当に良かった。頼れる相手がいたことに安堵して、ファルーシュは床を滑るように歩き、扉を開いた。
 遺跡の床はひんやりと冷たく、心細さが増すようだ。足音を忍ばせて歩き、彼の部屋の扉をそっと叩く。それほど待たずに扉が開かれ、ゆったりした寝間着姿のゲオルグが姿を見せた。
「どうした?」
「あの……」
 言いあぐねているファルーシュを見て、ゲオルグは部屋の中に彼を招き入れた。
 寝台の側の卓に置かれた燭台に明かりをともす。
 まだ部屋と廊下の境に立ちつくすファルーシュが、膝上辺りから足を露わにしているのを見て、ゲオルグは眉をひそめた。
「風邪を引くぞ」
 石の床から敷物の上へ移動し、ファルーシュはゲオルグをちらっと見上げた。
 どう言えばいいのだろうか。うまく説明しないと、おねしょをしたと勘違いされるかもしれない。それは厭だ。ゲオルグには、そんな勘違いをされたくはない。彼に追いつけるほどの大人ではないけれど、そこまで子どもでもないと思っていてもらいたかった。
 ゲオルグは寝台に腰を下ろし、ファルーシュが手に握りしめた寝間着に気づく。
「暑くはないだろうに……どうしたんだ?」
 早く言わなければ、本当に彼が誤解しそうなので、とりあえず、口を動かした。
「変な……」
「変?」
 ゲオルグが静かに問い返す。眼差しも声も優しかった。
 目を伏せたファルーシュをうながすがごとく、ゲオルグが寝台を軽く叩いた。隣に来いということだろう。足を進めて、ファルーシュは腰を下ろした。寝台の掛布はめくられたままで、彼が仰臥していたぬくもりがまだ残っているようだった。
「変なものが……寝間着の下履きについていて……」
 正体は分からずとも大声で話す事柄でないと感じ取ったファルーシュの声は囁くように小さかった。
「感じからして、粗相ではないようだけれど……よく、分からなくて」
 話している内に落ち着いてきた。横にいる男への信頼感がそうさせたのかもしれない。
 その彼は、何とも不思議な表情をしていた。まるで、どのような表情をしようか迷った挙げ句、今の顔をしてみたが、それに自分自身も違和感を覚えているような、少し戸惑い気味のそれだ。
「――これは病気だろうか。それとも、疲れていると、このような粗相をしてしまうものなのだろうか」
 膝の上で拳を握る。
 ゲオルグが身動きする。自分の方へ体を傾けてくれたようだった。
「今回が初めてか?」
 うなずくと、ゲオルグがふっと息を吐いた。
「フェリドは教えていなかったようだな」
「え?」
 なぜ父の名がこのようなときに、とファルーシュは不思議に思った。
 ゲオルグは微笑し、手を伸ばすとファルーシュの頭を撫でた。
「病気でもなければ、粗相でもない。お前が大人の男に近づいた証だ」
「僕が……?」
「ああ」
 ゲオルグはかすかに笑んだ。少し、面はゆげでもあった。
「年頃になると、男の体というものは子種を作る。これは、子を作るときだけに出るのではなく、眠っているときに出ることもあるんだ。ある程度に体が出来た男なら、自然なことだ」
「そうなんだ……」
 肩から力が抜けていく。病気でも何でもない、あって普通のことだったらしい。
 よかったと息を吐いていると、ゲオルグに名を呼ばれる。
「――ファルーシュ」
 ゲオルグと目が合う。彼は何とも言えない不可思議な目の細め方をした。
「その、な」
 ひそめられた眉や、頬のあたりに、戸惑いがある。
「処理、というかな、まあ……なんというかな」
 ゲオルグにしては歯切れの悪い言い方だった。
「子種はこうして、寝ている間に出ることもあるんだが、自分で出すことも出来る。男なら大抵の者が知っているが」
「……そうなの?」
 今更ながら自分の無知が恥ずかしく、ファルーシュは、はっとうつむいた。結局、何も知らない子どもであることを晒してしまった。
 悔しいのと恥ずかしいのと戸惑いとで、ファルーシュは唇を噛んだ。
「まあ、お前の場合は、環境のせいもあっただろうから無理もない」
 ゲオルグはなだめるように肩に手を置いた。
「驚くし、恥ずかしいとも思うだろうが、男の体とはそういうものだ。何も奇妙なことではない」
「う、うん」
「しかし――」
 ゲオルグは顎に手をやり、口の端をかすかにゆるめた。視線は優しいが、どこか、ファルーシュにはうかがいしれない、不可思議なものも混じる。
 力強くも荒々しさの混じるそれは、ファルーシュの心に、小さな恐れを生み出す。泡のようにすぐに弾けた恐れの意味を知るのは、まだ先だ。
 奇妙な居心地の悪さに、ファルーシュは膝の上で拳を作った。己が男だということを改めて知らされて、何かいたたまれない。
 ぽん、とゲオルグの手が頭に置かれる。大きな手のひらで撫でられ、ファルーシュは視線を上げ、そこにいつものゲオルグの顔を見いだした。
「少し見ないうちに、心ばかりか、体も大人になっていくな」
 照れくさいので、ファルーシュはうつむいた。
「照れんでいいぞ。当然のことだ」
 ゲオルグは笑い、それからあの彼独特のからかうような面白がるような、それでいて不躾にはならない強い視線でファルーシュを覗き込んだ。
 ここで膨れると本当に子どもだ。目をそらすと恥ずかしがっているのが分かる。ファルーシュがそっと視線を返すと、受け止めたゲオルグは微笑した。
 やはり、目を伏せてしまった。膝の上の手が所在ない。上衣の裾を引っ張っていて、ふと思い出した。
 そういえば、あれはどういう意味なのだろう。恥ずかしくはあるが、奇妙なことではない、というゲオルグの言葉を思い出し、思い切って、聞いてみた。
「ゲオルグ、自分で出すって、どうするの? 男ならみんな知ってるって言ってたけど」
 ゲオルグは一瞬、固まったようだったが、気を取り直したように、教えてくれた。
「擦るんだ」
 ファルーシュはまばたきして、また訊ねた。
「手で?」
「手だ」
「ここ、だよね?」
「ああ、そこ、だ」
 ゲオルグが歯の痛みでも堪えているような顔になる。どうしたのか心配になりつつも、ファルーシュは訊ねることを止められない。自分の体のことなのに、知らないことばかりだ。
「……でも、触っていいの?」
 ファルーシュはおずおずと続ける。
「とても大切なところだから、手洗いに行くときと体を洗うとき以外は触らないようにって、母上が……ゲオルグ?」
 言葉の途中で、ゲオルグががくりとうなだれたので、ファルーシュは慌てて、腰を浮かす。
「ご、ごめんなさい。寝ていたところなのに、邪魔をして」
 ゲオルグは片手で額を押さえたが、気にするなというようにその手を小さく振った。
「いや、構わん。分からんことは聞いてくれた方がありがたい」
 言って、ゲオルグはそうだなとうなずいた。
「触ってもいいんだが、確かにそういうときは、手は清潔にしておいた方がいいな」
 ファルーシュはうなずいて、立ち上がった。
「じゃあ、僕、手を洗って来る」
「ああ……?」
 残念ながら、急いで部屋を出たファルーシュには、ゲオルグの幾分、虚を突かれたような滅多にない表情を見ることは出来なかった。


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