初夜
1



 落ち着かない風呂だった。宿には自分とゲオルグしか泊まっていない。
 宿を決めようというとき、ゲオルグは、心当たりがあると言って、町中の宿を避け、町を見下ろす山へと向かったのだ。
 細い道に入ってみれば、小さいとはいえ、港もあるし、温泉も湧いているので、保養地としても人気がある町の賑わいが嘘のように消えて、静かな山中だった。
 こんなところに宿があるのだろうかと不思議に思いつつ、ゲオルグの後に続けば、細い道の先が開けて、こぢんまりとはしているが、明らかに宿屋の造りをした建物があった。
 ファルーシュの目にはヤシュナ村の温泉宿にも似ているように映る。
 小さな灯籠が軒先にぶら下がっており、花の意匠が刻まれていた。前栽の庭木も、鄙びていながらも、なかなかに趣がある。
 振り返れば、たそがれ時にさしかかった海と町が見えた。帆船がゆるゆると夕日に染められた海面を行き、鳥がものさびしい鳴き声を上げながら、ねぐらへと帰っていく。虫の声もそろそろ大きくなり、静かに薄闇が広がっていく。
「……こんなところがあるなんて」
 しっとりとした情感ある空気にふさわしく、ファルーシュの声は静かだった。
「骨休めには丁度良いだろう」
 ゲオルグの声も、幾分、低い。
「ほんとうに。――ゲオルグは誰かと来たこと、あるの?」
 何気なく聞いた後、ファルーシュは、自分の質問の意味に気づき、はっとうつむいた。
「あの……」
 謝る前にゲオルグが肩をぽんと叩いた。
「噂に聞いただけだ。この辺りに、小さいが良い宿があると」
 ゲオルグがふと視線を変えた。
 人の気配に気づいたのか、戸を開いて、誰かが出てきた。
 ゲオルグがそちらに向き直る。
「宿を頼みたいのだが」
「はい。よう、おいでなさいました」
 しっとりした女性の声が、二人を出迎えた。

 老夫婦二人が営んでいる宿には、ファルーシュとゲオルグ以外、客はいなかった。
 急な泊まりでも、慌てることも厭な顔をすることもなく、夫婦は、部屋を整え、食事の用意をした。山菜と野菜、それに雉肉を使った料理は、丁寧な盛りつけの上に、味も申し分なかった。
 前菜を口に運んだファルーシュが、驚きに目を見張ると、ゲオルグは、お前の舌を満足させるならよほどの腕前だなと笑った。
 側で給仕をしてくれた夫人は、美貌の持ち主が歳月というものを味方につければさもあろうという皺一つでさえ、なまめかしくも美しい面差しで、仕草や物腰には、隠しきれない気品が匂う。
 連れ添う夫の方は、さんざん放蕩し抜いて、酸いも甘いも見極めた後の清廉さを漂わせて、最後の水菓子まで旺盛な食欲を見せる二人に目を細めていた。
 よほどそれがお気に召したのか、飲める口でしょうと二人に酒を勧め、ゲオルグは遠慮無く、その杯を受け、酒の味を覚えたファルーシュも差し出された杯を手にした。
 席を移しての酒宴に夫人も加わって、夜鳴き鳥がつがいを求める声を肴に、四人の間では杯が酌み交わされた。
 夫に促された夫人が、手慰みですが、と恥ずかしげに笑んで、二弦の楽器を手元に引き寄せた。奏でられる、名も知らぬ曲に耳を澄ませ、杯を傾ける。
 老主人は、ここは景観はいいが、街道から少し離れているため、そうそう客は来ないという。来る客も訳ありな者が多く、人目を忍ぶような仲や、道に迷った者、あとは、この宿からの景色が好きだという者といったところで、だいたい、物好きか、幾分、世を拗ね気味の者が多いらしい。
「まあ、ようするに変わり者ですわ」
 自身、仙人めいても見える老主人は皺深い顔を、さらに皺だらけにして笑った。
 夫人もそうだが、二人は決して詮索めいたことは聞きはしない。かといって素っ気ないわけでもなく、じつにさらりとして、柔らかな接し方だった。
 いずれかに名の知れていた二人なのかもしれないと、発音や物腰からファルーシュは感じたが、口には出さなかった。自分たちも訳ありの二人ではある。
 数曲、弾き終えて、夫人はさり気なく席を立つ。ゲオルグはまだ老主人と言葉を交わしながら酒を飲んでいるので、彼に断り、ファルーシュも部屋に戻った。だいぶ飲めるようになったとはいえ、まだまだゲオルグには及ばない。
 ふわふわした酔いを楽しみながら、廊下を歩く。建物は中庭を囲む四角い造りになっており、客部屋は三つ。ファルーシュたちが通された部屋は、二間になっており、これまで泊まってきた宿屋が狭く思えるほどにゆったりとしている。
 棚や台にも花や緑が生けてあり、香まで焚かれている。隅々まで掃除が行き届き、日頃の心遣いが忍ばれる。
 居心地良い部屋の明かりを落とし、窓を開く。
 夜風が虫の鳴き声と共に部屋に吹き込んでくる。夜露に濡れた草の匂いを含んだ風に吹かれ、ファルーシュは窓によりかかった。
 落ち着いていた胸の鼓動が早くなる。
 たぶん、とファルーシュは考えた。この宿で、ゲオルグは自分を抱くつもりだ。
 そう思うと、顔が火照る。嫌な訳ではない。望んでいたことだ。嬉しくさえある。だが、その手の知識も経験もほとんどないファルーシュにはまったくの未知の領域で、だからこその戸惑いと恐れがある。 
 窓は開けたままにして、ファルーシュはふらふらと寝台の方へと歩き、腰を下ろした。
 寝台は広いが、一つしかない。部屋に案内されたときにファルーシュは、ちらりとゲオルグを見上げたのだが、彼はとくに表情を変えなかった。戸惑った自分の方がおかしい気がして、ファルーシュも黙っていたが、気恥ずかしかった。
 今までの宿ではもちろん相部屋だったが、寝床は別々にしていた。といっても、寝台は大抵、一つきりしかない。
 一緒に寝てもいいと旅の始めはファルーシュも言ったのだが、俺の体格を考えろとゲオルグは言って、苦笑した。確かに、と納得して、それからはコインの裏表で寝台に誰が寝るかを決めるようにした。
 後から、彼の苦笑には、また別の意味があったのだと気がついたとき、ファルーシュは申し訳ないのと恥ずかしいのとで、しばらくゲオルグの顔がまともに見られなかった。鈍すぎるにもほどがある。
 寝床を別にするのは、今も続いているが、今日は、まだ決めていない。今までなら部屋に入った時点で、ゲオルグがコインを取り出していたが、その素振りもなかった。
 思い出していると、急に身の置き所がないような気がしてきたので、ファルーシュは、部屋の中を落ち着きなく見回し、窓の前を意味もなくうろついてから、ぼんやりする頭のまま、寝台に寝転った。途中、思い出して、革のサンダルを脱ぐ。
 そのまま後ろになり、ごろごろと敷布の上を転がり、うつむけになり、枕に頬をあてる。
 枕や敷布からは太陽と香草らしき清々しい匂いがした。ひんやりした感触を楽しみながら、ファルーシュは、一体、自分はそのときどうするべきかを考えてみたが、どうも想像できなかった。
 ゲオルグに全部、任せればいいのだろうか。ということは、彼は男相手の経験もあるのだろうか。いやいや、まさか。しかし、世の中は広く、彼は広い世界を渡り歩いてきた男だ。まさかの可能性だってある。でもどちらかといえば、彼は女が好きなはずだ。
 ゲオルグは飄々とした顔をしているが、あれで案外、助平だとファルーシュは思っている。直感もあるが、何より大きいのはスカルドの一言だった。
 旅を始めてから間もなく、彼の元を訪れたのだが、大歓迎してくれたスカルドは、ファルーシュと二人きりの時、なぜだか難しい顔で、殿下あの手の男はど助平なのですよ、と言ったのだ。ゲオルグよりもさらに人生経験のある彼の言うことだ。間違いはなかろう。
 ど助平なら、ど助平に何もかも任せよう。決めて、ファルーシュは訳もない恥ずかしさにぎゅうっと目を閉じた。拳も握った。
 本当に、本当に、どうしようもないくらい恥ずかしかった。そのようなことばかり考えている自分も恥ずかしかった。もっと、柔軟に素直に受け止めたいのに、慌ててしまう自分がみっともなかった。
 気を落ち着かせようとファルーシュは深呼吸を繰り返す。すぐに心が凪いだのは、やはり、この戸惑いがゲオルグゆえだからだ。
 彼はファルーシュの心を波立たせもすれば、こうして落ち着かせてもくれる。不思議な男だ。ファルーシュがどれだけ荒れようと、嘆こうと、すべて受け止め、あれだけの醜態をさらしてなお、大事に思っていてくれる。かけがえのない人だ。この先、二度と、同じような思いを抱く相手は現れようがない。
 幸福感が酔いと混じり、眠気を呼ぶ。なんとも心地よい眠気だった。

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