雨の間の一休み
2



 しばらくは雨の音が響くだけで、サトシもシゲルも口を開かなかった。
「?」
 シゲルはふと隣のサトシに目をやった。微かな物音がサトシの方から聞こえた気がしたのだ。
「サトシ、寒いのか」
 サトシの体が細かく震えているのに気づき、シゲルは手を伸ばした。唇が真っ青だ。
「触るな!」
 サトシはシゲルの手を強くはたいた。シゲルの手が打たれた衝撃で赤くなる。
 サトシは罰の悪そうな表情を見せたが、謝りはしなかった。
「――待ってろ、火を起こすから」
 シゲルは無表情に言って、洞窟に散らばっていた枝を拾い始めた。
「いいって!」
 サトシはシゲルの手から枝を奪い取ると、放り投げた。
「サトシ?」
 こんなことまでされてもシゲルの声には怒りの調子すら見られない。
「ほっといてくれよ!」
 サトシは顔をくしゃくしゃに歪めて叫んだ。
「俺のことなんか、ほっといてくれ!」
「――ほっとくって……風邪を引いたらどうするんだ」
「どうでもいいよ、そんなこと!」
「どうでもよくないだろう」
 シゲルはさすがに呆れてサトシをたしなめる。
「旅の途中で何が命取りになるか分からないんだから、体には気をつけるべきだと思うよ」
「うるさい!」
 サトシはシゲルを突き飛ばして、洞穴の外に走り去ろうとした。
 しかし、シゲルの手は思いのほか強い力で、サトシの手首を掴む。シゲルに手をしっかりと掴まれ、振り払うこともできない。
「逃げるな、サトシ」
 シゲルが静かに言った。
「僕から目を逸らすな」
 サトシは怯えるようにしてシゲルの方を振り返った。
 真剣な瞳にもはや目を逸らすこともできず、サトシはシゲルに手首を掴まれたまま、シゲルと見つめあった。
 シゲルが近づいてきたとき、サトシは寒さとは違う意味で震えたが逃げはしなかった。
「氷みたいじゃないか」
 サトシを抱き寄せて、シゲルがささやいた。シゲルの腕に包まれて、サトシは緊張したように息を吐き、体を強張らせた。
 シゲルの方がサトシよりも温かい。シゲルの体が触れたところから熱が広がっていく。
 目を閉じて、恐る恐るシゲルの胸に頬を寄せた。耳にシゲルの鼓動が届く。自分と同じくらいに早く脈打っていることが分かった。
「サトシ」
 どうしたらいいのだろう。シゲルの声に含まれた切なさがサトシには感じられた。淡々と自分に接しているように思えたシゲルの感情に触れて、サトシの心も騒いだ。
「逢いたかった……」
「うそ……つくなよ……」
 平気な顔をして旅に出たくせに。マサラを出るとき挨拶もなしに行ってしまったくせに。
「俺のことなんか忘れてたくせに」
 一人で旅をして自分よりどんどん先を歩いているくせに、先に大人になっていっているくせに。そう言ってやりたいのに、言葉が出てこなかった。
 どうして涙が出てくるのかも分からない。
 シゲルがきつくサトシを抱きしめた。
 シゲルの腕に体を包まれて、ゆっくりと自分の中に泣きたくなるくらいに切ない温かさが溢れていくのが分かった。シゲルの体に手を回し、自分でも知らない内に抱き返していた。
 それを受けてシゲルの手がサトシの髪を梳き、額を露わにした。吐息とともに唇が額をかすめ、次いで瞼にあてられる。
 サトシが拒んで首を振ると、かすかに微笑した気配があった。
「怖いか?」
「怖くない」
 瞬間的に言い返し、その後、何が怖いのだろうとサトシは思った。
 シゲルの唇が頬に当てられたとき、怖いのはシゲルの真剣さなのだと分かった。
 自分に向けられるシゲルの深い眼差しを受け止められるかどうか、それが怖かったのだ。
「意地はるなよ」
「うん」
「イヤだったら言ってくれ」
 サトシは目を閉じて、小さく言った。
「――イヤ、じゃない……」
 言葉を言い終えない内に、シゲルが唇を重ねてきた。無意識に体を引こうとしたサトシの腰を抱いて、シゲルは口づけを深くした。
「シ、シゲル……」
 シゲルが唇を離したとき、サトシが聞いた。
「なに?」
「あのさ……俺のこと好きなの?」
 シゲルの目が細められた。
「嫌いな風に見えるか?」
 サトシは消え入りそうな声で返した。
「見えない……」
「じゃあ、それが答えだ」
 マントを下にして、地面に横たえられる。ひやりとした感触に震える間もなくシゲルが自身の服を脱いで、サトシの上に覆い被さってきた。
「シゲル、」
 吸うように自分の肌に口づけてくるシゲルに翻弄されつつも、サトシは言わずにはいられなかった。
「イーブイ……」
「ああ」
 シゲルもはっとする。抱き合った二人の横でイーブイが不思議そうに首をかしげていた。
 さすがにこの目に見つめられたままでは、奇妙に居心地が悪い。
「イーブイ、ちょっとだけな」
 シゲルが手を伸ばして、モンスターボールを取り上げる。イーブイをモンスターボールの中に戻してしまうと、シゲルはふたたびサトシに視線を移した。
「どうかしたのか」
「シゲルってなんだか……」
 しっかりと筋肉のついてきたシゲルの体からサトシは目を逸らした。
「前より、かっこよくなったって?」
「ちがうよっ!」
 以前のようなからかう口調で言われて、サトシは反論してしまう。
「ははっ」
 シゲルが笑って、サトシの額をぴんとはじいた。ちっとも痛くない。
「手が大きくなったなって思ったんだ」
「手?」
 シゲルは自分の手を見つめ、それからサトシの手と重ね合わせてみた。
「ほら」
 確かにサトシの手よりもシゲルの手がいくらか大きい。
「ああ、本当だ」
 指を絡め合って、シゲルはうなずいた。
「昔は同じだったのに。一人だけ大きくなるなよ」
「しょうがないだろう」
 これだけは人それぞれだ。シゲルはほほえもうとしたが、サトシの次の言葉に胸をはっと胸を突かれた。
「一人だけで先に行くなよ」
「サトシ……」
「俺を置いて行くなよ……」
 普段のサトシなら考えたこともない言葉だった。どうしてこんなことを口にしてしまうのだろう。
 こうやって抱き合うには子供のままではいられない。夢をかなえるには立ち止まってもいけない。それでも、サトシは言わずにはいられなかった。
 どんどん先へ行ってしまうシゲルをこの瞬間だけでも引き留めたかった。いつか必ず追いついて一緒に歩いていくために、この時だけその背中にすがりつきたかった。
「置いて行かない」
 シゲルはきっぱりと言うと、サトシの手に口づけた。
「でも――今だけ、だよな」
 シゲルは何も言わず、サトシを見つめた。
「うん、分かってるよ。俺、分かってるから……」
 サトシは目を閉じた。
「今だけは、俺の側にいてくれよ……」
「ああ」
 シゲルがゆっくり身動きした。 それ以上はもう喋らずに、サトシはシゲルの背に手を回した。
 シゲルが優しく触れてくる。
 いくつかの囁きと吐息だけが洞穴に響いた。それ以外は雨の音だけしか二人の耳には届かなかった。

「あ、止んだ」
 シゲルの腕を枕に寝ころんでいたサトシがつぶやいた。
「すぐに晴れてくるぞ」
 シゲルの言葉を待つまでもなく、空は見る間に青くなり、日差しが射してきた。
「体、洗いに行くか」
「うん」
 泥が付いたお互いの体を、見つめあって二人は吹き出した。
「汚いなあ、シゲル」
「サトシだって、同じゃないか」
 ベッドも何もなく、マントを背にしていたのだから、しょうがないと言えばしょうがない。
 先に立ち上がり、サトシに手を貸して立たせてから、二人はとりあえず、ある程度は乾いていた服の上着だけ羽織って、近くの川まで歩いた。
 サトシがかなり歩きにくそうなので、シゲルは少し考え、サトシを抱き上げた。
「お前、軽いな。ちゃんと食べてるのか?」
 同い年の少年、一人軽々と抱え上げてシゲルは笑った。
「食べてるけど、あんまり肉にならないみたいでさあ……タケシの飯、うまいのに」
「へえ」
 シゲルはタケシなる名にほんの少し眉を寄せたが、サトシがシゲルにしっかりつかまってきたので、まあいいか、と微笑した。
 川で体を洗っている内に、日はどんどん明るさを増し、先に水から上がったシゲルは眩しげに手を目の上にかざした。
「サトシ、そろそろ行くぞ」
「あ、うん」
 楽しそうに水とぱしゃぱしゃ遊んでいたサトシはうなずいた。
 裸で岸まで駆けてきたサトシの首に、ぽつんと赤いものがある。それに気づいてシゲルはちょっとまずいなと考え込んだ。
「シゲル、どうかした?」
「いや……どうしたものかな」
「?」
「ま、虫さされと思うだろうし、いいか」
「なに? 虫に刺されたのか?」
「ああ、サトシがね」
「へ? 俺が?」
「そんなとこ」
 くっくっと笑ってシゲルはサトシの肩に手を回すと、干してある服の方へ連れていった。
「なんだよ、教えろよ」
「後で他のやつが教えてくれるさ」
 シゲルはサトシの着替えを手伝いつつ、首に噛みついた。
「痛っ!」
 サトシが首を押さえる。
「なにするんだよ」
「虫が刺したんだよ」
「お前が噛んだんだろ、シゲル!」
 むっと唇をとがらせるサトシに、今度は唇を落として、シゲルは自分の荷物を取り上げた。
「そろそろ、あいつら来るんじゃないかな。カスミとタケシ」
「あ……」
 サトシが途端に沈んだ顔になる。
「シゲル、行くの?」
「ああ」
「ふうん」
 シゲルはサトシの頬をつついた。
「また逢えるから、な?」
「分かってるよ」
 子供っぽいとは分かっていたが、頬を膨らませてサトシは言った。
「浮気するなよ、サトシ」
「――誰とするんだよ、誰と。だいたい、浮気するのって俺よりお前だろ」
「しないよ」
 おや、やきもちだろうか。シゲルは心の中でほくそ笑んだ。
「本当?」
「本当」
 サトシは疑わしげな目を和らげて、ちょっと笑った。
「なら、いい」
「やっと笑った」
 シゲルはほっとしたように言うと、サトシの頬にキスした。
「今、何か言った?」
 サトシが何度も頬にキスするシゲルに赤くなりつつ、聞いた。
「いいや、こっちのこと」
 もっと追求しようとしたサトシだったが、森の奥から聞き慣れた声が響いた。ピカチュウの声も混じっている。
「来たみたいだな」
 シゲルはサトシの頭にぽんと帽子をかぶせた。
「じゃ、がんばれよ」
「シゲルもな!」
 サトシが帽子を押さえて言った。
「俺、絶対お前に勝ってみせるからな!」
「はは、がんばってな」
シゲルは軽く手を振ると、ふたたび森の中に消えてしまった。
シゲルを見送ったサトシは首筋に手を当て、残る片手でこらえていた涙をぬぐった。
(――いつか、きっと……)
 そっと口の中でつぶやいて、サトシは近づいてきたカスミとタケシ、ピカチュウの声のする方へ駆け出したのだった。


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