めずらしくもない、いつもの迷い道である。タケシは地図を片手にしかめ面、カスミは毎度のことと諦めて、トゲピーと遊んでいる。
サトシは歩き続けたせいで、疲れていたので切り株に座って、休んでいる。
「タケシ、道分かった?」
カスミがあまり期待してない口調で聞いた。
「ああ、完璧に迷っているということは分かる」
「はいはい」
カスミはああでもない、こうでもないとつぶやくタケシから目をそらして、サトシの方に目をやった。
「サトシ?」
たった今まで、切り株に座っていたはずだった。だが、その姿は見あたらない。
「トイレかしら?」
ピカチュウが草のあいだからあわてた様子で顔を出す。
「ピカチュウ、サトシがどこに行ったか知らない?」
「ピカー、ピカピカ!」
ピカチュウは後ろを向いて、今来たらしい方向を前足で示した。
「なに、そっちに行ったの?」
カスミが立ち上がって、走り出したピカチュウの後を追う。タケシも地図を持ったまま、その後を追った。
「なっ!」
「これは……」
ピカチュウが案内した場所まで来て、カスミもタケシも絶句した。
かなり急な崖際だったのだ。そうっとタケシが崖のそこをのぞき込んでみると、下には川が見える。激しい流れではないが、水かさが多い。
「ピカチュウ、まさかサトシが落ちたってこと?」
「ピカピカ」
カスミとタケシは顔を見合わせた。
「こりゃ、やばいぞ」
その頃、当のサトシは川を流れていた。泳ぎつつも、陸に上がろうとしているのだが、両岸とも高く切り立った崖が続いているので、上がるにあがれない。
(この先に滝があるなんて落ちじゃないよな)
流れがそこまで激しくないのだけが幸いだった。今はなんとか泳いでいるが、それも体力が続く限りだ。濡れて重くなった服や荷物が体力を奪っていく。水を掻く手に力が入らなくなってきた。
沈みかけた拍子に水を飲んでしまい、サトシはむせた。体が重い。ゆっくりと水に引き込まれていくのが分かる。
(これって、やばいかな)
ふっと体が持ち上げられた。何かが水の中でサトシの顔をのぞき込んでいる。
(なんだろ……)
息が苦しい。そこでサトシの意識は途絶えた。
ぱあっと目の前が明るくなる。同時に思いきり咳き込んだサトシの背に温かい手が当てられ、優しくさすってくれた。
呼吸が楽になる。サトシは咳のせいで潤んだ目をまたたかせ、自分を助けてくれた人物にお礼を言おうと首を捻った。
「シゲルっ!」
シゲルは微笑し、マントに手をかけた。
「とりあえず服は脱いだ方がいい。乾くまでこれを羽織ってれば寒くないだろ」
「シゲルが助けてくれたのか?」
「僕のゴルダックがね」
シゲルは腰のモンスターボールを指さしてマントを脱いだ。
「風邪引くぞ」
服がまだびっしょりと濡れているところから考えると、水から上がってそれほど時間は経ってないらしい。
サトシが服を脱いでいる間にシゲルが火を起こしてくれた。
シゲルのマントにくるまって、火に手をかざし、暖まっているとシゲルがカップを差し出した。
「体が温まる」
湯気の立つお茶を受け取って啜っていると、シゲルは傍らのイーブイにポケモンフーズを与えだした。
「シゲル……」
なんだかひとりぼっちになった気がし、サトシはシゲルの名を口にしていた。
「どうかしたのか?」
シゲルが顔を上げた。その眼差しや態度は以前マサラで会ったとき同様、落ち着いた大人びたものだった。
「あの……ありがとう」
「気にするな」
シゲルはそう言って、ふたたびイーブイに視線を落とす。イーブイに向ける目はサトシが見たことがないほど、優しく暖かいものだった。
なぜか、それを見てサトシの胸が痛んだ。膝を抱えて、シゲルとイーブイから目をそらすようにしていると、シゲルが話しかけてきた。
「サトシ、モンスターボールは持っていなかったのか?」
「へ? 持ってるけど……」
「ゼニガメがいたんじゃないのか」
「いるよ」
サトシはシゲルの言いたいことがつかめず首をかしげた。シゲルは思わず苦笑する。
「だったら、ゼニガメを出して助けてもらえばよかったのに」
「あっ!」
そうだったのだ。リュックと一緒に置いてあるモンスターボールに目をやってサトシは、恥ずかしくなった。咄嗟の時の素早い判断も優秀なポケモントレーナーの条件の一つだというのに、ただ何もしないで川にぷかぷか浮いていたとは。
「あいかわらずだな」
シゲルは笑ったが、以前のようなからかうような嫌みっぽい口調ではなかった。大人が子供のたわいない失敗を見るときに似たような暖かみさえ感じられる。
「気をつけろよ。いつもそんなだと、命がいくつあっても足りないんじゃないか」
満腹したらしいイーブイがシゲルの肩に駆け上がり、頬をすり寄せる。くすっぐたっそうに目を細め、シゲルはその喉を優しく撫でた。
サトシは一瞬、目の前にいるのはシゲルではなく、誰か別の少年ではないのかと思ってしまった。
サトシが初めて見るような暖かい目や言葉、大人びた態度や雰囲気は、サトシを落ち着かなくさせる。以前だったら、川から助けてくれたところで、嫌みったらしくバカにしてきただろう。
それなのに――サトシはシゲルのマントをかき寄せた。
(あ……)
顔がかっと赤くなる。
(シゲルのにおいがする)
「――サトシ」
「な、なんだよ」
「いや」
ふっとシゲルは微笑した。赤くなった頬を見て、何か思ったのだろうか。サトシはうつむいて顔を隠そうとした。
その首筋にぽつんと冷たいものが落ちた。
「?」
「雨だ」
シゲルがぱっと立ち上がった。素早く用意してあった水を火にかけ、火を消し、その後を足でかき回して完全に消火してしまうと、サトシのリュックと服を取り上げる。
「シゲル?」
サトシはきょとんとしていたが、シゲルがその腕を引っ張って立たせた。
「こっちだ」
サトシの腕を掴んだまま、歩き出す。
「だって、たいした雨じゃ……」
サトシが言いかけた途端、雨が勢いを増した。シゲルがサトシの手を引いて走り出す。
シゲルはこの辺りの地理を熟知しているらしく、迷いもせず森に入った。
木のかげになったせいで、雨の勢いは減ったがそれでも、ふたたび、今度はシゲルも濡れたことは変わらなかった。
小さな洞穴に飛び込む頃には、シゲルの髪から滴がしたたり落ち、サトシの足下には小さな水たまりができていた。イーブイも体を振って水を払う。シゲルはサトシを見て、ほほえんだ。
「また濡れたな」
シゲルは荷物から乾いたタオルを出すと、サトシの頭にかぶせた。
そのままサトシの髪を拭い始めた。
抱きかかえられたような形で側に近づかれ、サトシはとまどった。こんなに背が高くなっていたなんて分からなかった。
シゲルの体から水滴が跳ねて、その冷たさにサトシははっとする。
「いいって、自分でする!」
シゲルの手を払って、タオルをひっつかむ。乱暴なサトシの態度にも怒りを見せることなくシゲルはもう一枚取り出したタオルで、自分の体を拭いだした。
タオル二枚をびっしょりにして、体を拭いて、シゲルとサトシは洞穴の外を覗く。
雨はまだ止む気配がない。
「びっくりしただろ」
不意にシゲルが言ってサトシはびくっとする。
「突然、雨が降ってきただろ? こういう降り方はこの辺りじゃ有名らしい」
「なんでシゲルが知ってるんだ?」
「ああ、しばらくこの辺りでポケモンをゲットしてたんだ。」
シゲルはそう言うと、腰を下ろした。
「まだ降ると思うから、しばらくここで待ってたほうがいい」
サトシはシゲルから微妙に距離をとって座った。
シゲルはそれを横目で見ただけで何も言わなかった。
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