人面瘡
3



 頼りがないのを嘆く母親に、ヴィラルは手紙をしたためた。短いが、近況と怪我の治り具合を記して封をする。宿に使いを頼み、手紙を出してもらっても良かったが、内容の短さに加えて、それではあまりに不孝かと、ついでに土地の品でも送ろうと、町に出た。出かけ際、離れに立ち寄って、何か要るかとシモンに問えば、酒、と無粋な答え。
 返事を聞いたヴィラルの顔に、シモンは目を細める。
「じゃあ、玳瑁の簪でもねだろうか」
 女郎めいた戯れ言。この短い髪のどこに挿すやら。
「馬の爪でいいなら買ってきてやろう」
 云って、背を向けると、シモンの笑い声が見送ってくれた。
 町で所用を済ませた後は、酒屋に寄って、酒を一瓶、選び、旅館まで届けるように頼む。小間物屋の前を通りがかり、外から見える色鮮やかな簪にふと足を止めたが、そこまで戯れる気持ちもなく、結局、通り過ぎた。
 昼下がりの田舎道、人気はなく、埃っぽい道だけがどこまでも続く。獣道を踏み固めたがごときの細い道に入ったのは、散策のつもりではなく、この道を行った方が、離れに出るには早いからだ。
 夏ならば、両側から生い茂った草で隠される道も、秋も深まる今頃には、歩きやすい道となる。土地の者に教わったとはいえ、道が分かれるところでは、目印替わりの小さな道祖神を確かめる。迷えば、深い山の中。踏み込んでしまえば、戻れると云われても、戻りたくはなくなろう。
 山からの誘いを退けつつ歩んでいれば、これもまた、身を沈めればさぞや冷たく気持ち良かろうという沼が右手に見える。立ち枯れた草の間に確かに、人影が見えて、ヴィラルは立ち止まる。
 熊よけの鈴がちりりと鳴るが、これを拳に握りしめ、目を細めれば、やはり、あれはシモンの旦那に違いなかった。
 やはり、まだ帰っていなかったのか。
 思い詰めた横顔に、身投げでもするかと眺めていると、男は草をかき分け、さらに水際へと近づく。芦苅り、すでに終わって、見通しの良い畔に立ちつくし、男は何やら懐から黒い小袋を出して、左手のひらに中を空けた。何が入っていたのか、小さくて、ここからは見えぬ。
 右手で一つ、つまんで、沼に放る。風が吹けばかき消されるような、かすかな水音を立てて、水面が円のような波紋を描く。よほど小さなものらしく、投げられる物の影も見えなかった。
 放る横顔が、引きつったかのように歪んで、今にも泣きそうな、それでいて憤怒の相が浮かんでいる。幾つあるのか、手のひらからまた、つまむ。右手に握る、放る、その一連の動作一つ一つが、押さえきれぬ衝動に溢れていた。
 ああ、そこにかつての自分がいると、ヴィラルは思った。恋に狂えど、叶うことはなく、止める理性も焼き切れて、ただ心は燃え上がる。我が身を焼く苦しみもまた恋の歓びだ。そして、消し炭と化したその後の、世の何とむなしく、味気ないものか。
 放り投げたものと共に、心の荒ぶりも投げ打ったか、悄然とした歩みで男が立ち去った後、ヴィラルはそちらに近づいた。
 放る男の手のひらから、その動きの激しさに押されたかのように、一、二個、こぼれ落ちたのを、目の端に留めていた。
 このあたりか、と周囲を見回せば、ほどなく、白っぽい小さな固まりを、草の間に見いだした。
 拾い上げ、ヴィラルは眉間をひそめた。丸っこく、象牙色したそれは、間違いなく、人の歯だった。うち捨てようとし、止めた。これで生えるというのなら、それも一興。

 岩を平らにした底の浅い湯船にシモンは全身を浸し、目を閉じていた。湯の流れがあるのか絶え間なく揺れる水面に、シモンの躯も揺らぐ。どこから落ちてきたのか、炎のように赤い葉が十枚ほど浮かんでいた。
 冷えた空気が流れてヴィラルの気配に気づいたのか、シモンは瞼を重たげに開いた。
「……お前も入るか」
 ヴィラルへ差し伸べた手に、ぺたりと濡れ紅葉が張りついて、そこだけ火傷を負ったようだ。濡れた床の上を歩き、ヴィラルは湯船まで行くと、膝をついて、紅葉をシモンの肌からつまみ上げた。
 飴がけしたかのように、紅葉はてらてらした光を放っている。シモンは紅葉を持つヴィラルの手首をとらえ、自分の口元に引き寄せた。小指を噛まれた。
 甘えるように、歯が幾度も肌にやわやわと食い込む。上目遣いの眼が微笑んでいる。
「湯船からあがれ」
「いやだね」
 お前が来い、とばかりにシモンは首を振り、ヴィラルの手を引く。
 紅葉を水面に落とせば、我が身も墜ちた。

 濡れた髪も乾けば、寝床にて、シモンは煙管を銜える。甘く爛れた夢に兄貴とやらは、現れるのか。現れることを夢に見るのか。
 隣に身を横たえて、呟く。
「――人面瘡」
 シモンはこちらに目を向ける。
「覚えていたのか」
 笑う目に、前髪がすっと流れる。
 指先でそれを掻き遣りながら、ヴィラルは問いかけた。
「待っているのか」
「もう、ずっと」
 閉じられた瞼が、ひくひく震え、横顔が苦しげに切なげに歪んだ。
 待って、焦がれて、なおも待つ。このときばかりは、夢も見られぬ。
「反魂の秘術をするにも、骨の一部、肉のかけら、髪の一本すらない」
 法師も仕損じた術を、する、とたやすく口にして、シモンは息を戦慄かせた。
「何より、また離れることがあっては、哀しく切ない」
 ――ならば、この身に兄貴を宿そう。我が身を抱くように、シモンは腕を曲げる。
「そう思ったのさ」
 返事は返さず、シモンの銜えた煙管を奪い、自分が口に銜える。
「ひどい男だ」
 なじるシモンの目がどろりと淀んでいる。どちらが、とヴィラルも詰って、シモンの口を吸った。歯を舌先で撫でて、離すと、絡んできたシモンの躯を押し離す。
「手を出せ」
「このまま銜えさせてくれれば」
 唇を開いて舌先を出し、煙管を返せとせがむシモンに、首を振る。
「阿片なんぞより、もっといいものだ」
「大層なことを云う。……ああ、玳瑁の簪を買ってきてくれたか。それとも、起請文でもくれるのか」
 戯れてくるシモンに、再度、手を出すよううながして、差し出されたなめらかな手のひらに、それを置いた。
 シモンがまばたきして、手のひらに載せられた歯をじっと見た。まるで、子どもが思いもかけぬ、眩い美しいものをもらったような、いとけない驚きが表情に満ちた。
「これ、あにきのだ……」
 シモンは、歯を天にかざして、声を立てて笑った。
「あにきの歯だ。嬉しいなあ」
 ふふと笑いながら拳に握りしめ、頬にひたと当てる。
「やっと、やっと、見つかった」
 目を閉じ、ほほえみ、幾度も頬ずりして、シモンは、うっとりと目を開いた。
しばらく胎児のようにシモンは身を丸め、歯を包んだ拳を頬に押しあてていた。そのまま、いつの間にか、微睡み出す。
 その寝姿が霞むのは、煙が視界を包むからか、それとも夢が始まったからか。
 指を伸ばせば、短いはずのシモンの髪が指に絡むほどに、伸びている。濡れたようにつやつやと輝く黒髪は、手のひらに、二度、三度、巻きつけてもなお余りあり、ぐいと引けば、こちらに顔が傾く。シモンのはずがシモンでなく、女のようだが、女ではない。
 触れるは蒼白く、冷たき乳房。骨を包む皮膚のなめらかさ、脂の柔らかさよ。指が肌えに喰われれば、躯も沈む。
 どちらの名を呼んだのか、己でも分からぬ。にいっと唇の両端、上げて笑う薄い唇は、やはり彼かと思わせて、玉虫色の紅を乗せたそれに変わる。
 笑んだ唇から、ぽろ、ぽろ、と歯が落ちる。こぼれ落ちた歯は、肌に呑み込まれ、躯を苗床として、双葉を芽吹かせる。茎が伸び、葉がそよぎ、蔓がうねる。現れる蕾に色などないが、七色の輝きだけは分かる。
 葩が咲く。葩が笑う。揺れる花弁の中央に見えるのは――。

「――ヴィラル」
 名を呼ばれ、肩を揺すられた。夢に浸りたがる躯を起こし、垂れていた髪を払う。かすかな痺れが節々に残る。
 何だとばかりに、シモンを見返せば、無造作に差し出される短刀。総銀金具に金の蒔絵が描くは菊に蝶。殺生に使うには、あまりに見事な誂え。
 しかし、シモンは己の左腕、肘と肩の真ん中ほどを示して、ここがいい、と云う。
「浅い傷はだめだ。歯がこぼれ落ちるから」
 鯉口切れば、光が零れる。ぬらぬらと油を流したように照り光る刃は、誰の手による業物か。
「さあ」
 ヴィラルの手をシモンの指が握り、導く。
「ここに」
 肌に刃をあてれば、さして力も入れぬのに、赤い線が生まれた。赤い雫が一粒、二粒。
「もっと、強く」
 閨でねだるようにシモンが囁く。誘われるように、一閃。
 笑むように肉が裂けた。
 右手に持った歯を、シモンは切り口に押しあてた。二つに裂けた肉が、まるで口のように蠢いて、歯を呑み込んだ。
 傷口を愛しげに撫でて、シモンは横たわった。深い安堵のため息が漏れる。
「やっと、会える。呼び戻せるよ。兄貴は怒ってるかもしれない。だって、俺、兄貴を一人にしてしまったんだもの」
 どこまでも一緒だと誓ったのに。
 声と共に溢れ出る血潮が、目の前を染める。浮かび上がるのは、青年と少年の舞い姿。
 青年は背中一面の刺青を露わにし、ぎらりと光る抜き身の刃を振りかざす。
 少年は目尻に紅差し、草冠に白い薄布垂らし、白い単衣に朱の袴。白い指には榊の枝握り、巫子のような出で立ち。それもそのはず、二人が演じる演目は、鬼神が巫子を奪う荒御霊の物語。
 鬼神は、巫子に心奪われ、その身を奪う。穢れた我が身を恨み、鬼神を憎み、巫子は隠し持った短刀で鬼神を刺すが、血に濡れてなお鬼神は巫子を愛おしむ。鬼神の熱い血を浴びて巫子は、秘め隠されていた己の心に気づき、ついに狂れる。
 旅の途中で見かけた奉納舞を、見よう見まねで踊り、俗気を混ぜ、猥雑な語りを入れた、これが大当たり。遠くは、山深い郷から、祝儀ははずむから是非にと呼ばれるまでになる。
 招くは、土地内のどれでもいい、そこらの山に登って周囲を見渡せば、すべてが持ち山、という大層な財産持ち。ここの跡取り息子が、末は博士か、大臣か、と期待される秀才で、今春、大学に上がる。郷を上げての合格祝いの余興にと、帝都でも評判の芸人を呼び寄せる親心、裏目に出るは、奉納舞を大衆劇にした芸人呼んだ報いか。
 騒ぎも酒宴も大嫌い、という生真面目息子が、無理矢理、連れられた宴の席で、舞い踊る巫子に、鬼神のごとく、心奪われた。
 ――恨めし、憎らし、愛おしや。狂れるほどに愛おしや。
 兄貴が踊る。刀を抜いて、唄に合わせて舞う。敵討ち、果たし合い、心中立て、戦もの、望まれれば何でも俺たちは唄い、舞った。
 舞いに使う刀は金貝張りであるものか。真剣でこそ、俺たちの舞いだもの。怖ろしいどころか、兄貴が持てば、それだけで愛しいものになる。数えきれぬほど、ともに舞い、奏で、唄い、夜ともなれば、睦みあい、唇を重ね、手足を絡めた。
 世の道理など、弾かれ者に意味はなく、少年の柔い、細い躯に、青年はありったけの熱を注ぎ、拓いていく。綿の寝床も絹の布団も、夜露に濡れた互いの手枕にはかなわない。
 相手のために自分があった。それ以外、何を欲する必要があるのだろう。
 兄貴のためならば、この身など、幾千幾万の刃に貫かれようと惜しくない、痛みもない。
 一人、呼ばれた座敷の中、これを、と見せられた手配書。見慣れて見飽きぬその面、心憎いほどに特徴そのまま、描かれていた。男二人殺したばかりか、盗みに強請、かっぱらい。生きるために為した悪行は語るに尽くせぬ。
 耳側で、死罪、と断じられれば、囁いた男へと目を向ける他ない。聡明な額が示す通りの理知的な面立ちが、今は昏く沈む。こちらを見据える目に浮かぶは執着。何を望むか、欲するか。悟れぬほどに幼くはなく、伸ばされた手を拒みはしない。
 その命、その自由、その心をそのままに、在りてとどめるためならば、我が身は鬼にも邪にも差し出そう。兄貴がくれたこの命。兄貴が生かしてくれたこの躯。兄貴のためにのみあるこの心。
 兄貴を生かすために捧げるのは道理。それほど想い、それほど焦がれ、それほどに慕った。
 新しい名を与え、異国へ渡らせよう。外国でならば、彼も自由に生きよう。
 男を信じたのか。いや、兄貴のためならば、何も惜しくない。ただ、それだけ。この身は男の元にとどまろうと、魂はあくがれいでて、必ずや兄貴の側に。
 いよいよ迫る、我が身しか知らぬはずの別れの日。前夜、来い、と言葉も短くうながされ、明日の演舞のことかと付いていけば、いきなり撲ち据えられた。
 一人で逃げろとは、巫山戯たことを抜かしやがる。
 手ひどく撲たれた驚きよりも、初めて向けられた憤怒には、怯え戸惑うばかり。贄となったのを、誰が知ったか、告げたのか。痛みに疼く頬を押さえれば、それこそ自分が撲たれたように顔を歪める兄貴の顔が。
 お前一人、置いていくものか。行き着く先が地獄でも、お前とならば極楽浄土。
 こぼれる涙は歓喜のそれに変わる。比翼連理とはいうけれど、天地どころか、地獄までの契りとは。
 離さぬ、離れぬ、繰り返した夜が明ければ、逃さぬとばかり、用意された舞台周りには、制服脱いだとはいえ、常ならぬ数の官警が取り巻く。
 今すぐに生け捕りに来ないのは舞が終わるまでという慈悲なのか。しかし、男の裏切りは詰らぬ。つまらぬ現世にかまけるよりは、これから辿る道筋を思う。
 右に見えるは血の池地獄、奥に光るは針の山。風の唸りは餓鬼の悲鳴。星かと思えば、鬼のかざす包丁。肌を嬲るは亡者を焦がす灼熱業火。皮を剥がされ、切り刻まれて、手足を引きちぎられようとも、ああ、嬉しやな、楽しやな。お前がいる、それだけで、そこは極楽、浄土に他ならぬ。
 兄貴の目がこちらを向いたとき、嬉しくて、俺は笑ったよ。どこに居ても、どこに在っても俺たちは二人きり。天と地には二人しかないのだから。
 振り下ろされる刀から兄貴の優しさが伝わった。のけぞり倒れながら、俺は笑い、血飛沫浴びた兄貴も笑っていた。すぐに俺も行くからなと囁く声を確かに聞いた。
 兄貴は返す刀で己の腹をかっさばき、二人の血潮混じった刃を、そのまま喉に突き立てる。
 どう、と倒れるその口元から血は溢れたが、やっぱり兄貴は笑っていたよ。俺は確かに見たもの。
 兄貴の側に這い寄って、手指を絡め、唇を重ね合う。血が混じりあい、兄貴は俺の、俺は兄貴の血を互いに啜り合った。交わりの果ての一時のそれでなく、永劫に一つになれる悦びは、たとえようもない。
 ああ、それなのに。
 憎らしや、恨めしや。
 二人の躯うち捨てて、野風に晒し、蛆の湧くまま、喰うままに、してくれていれば良いものを、絡めた小指も引き離されて、俺の躯は病院へ、兄貴の方はどこへやら。無縁仏の墓に葬られ、墓標もない土饅頭は草が繁るに任せていたとか。
 素足、寝間着で、病室を抜け出て、兄貴を捜し、目につく墓を掘り返す。爪は割れ、足は泥まみれ、血まみれ、包帯はほどけ、傷口からは血が噴き出して、それでも兄貴は見つからず、死ねぬ我が身が恨めしい。男に飼われて、生かされるこの身が憎らしい。
 望みは一つ。愛おしいものもただ一つ。
 恨めし、憎らし、愛おしや。狂れるほどに愛おしや。
 廻り廻ってやって来る来世とやらを待てはせぬ。今生で逢えぬのならば、黄泉路の果てより呼び戻せ。
 ふつふつと血が泡が噴き出して、周囲の肉が盛り上がる。瘡蓋の上に、肉が瘤を作る。血膿が弾けて、散った粘液が赤黒い染みとなり、ぶくりと膨れあがる。
 ああ、とシモンが嬌声を上げる。兄貴が生まれるよ。
 滲み出た漿液が肌を伝って流れ落ちて、シモンは喘ぐ。俺の中に兄貴が来ているよ。交わった時のように内側から、俺を焼いてしまうようだ。
 溢れる涙は快楽のためか。幾つも膨れあがり、瘤を作っていた肉は、やがてうねり、膨れ、伸び上がりながら、一つに溶け合っていく。肉の溶け合う部位が、盛り上がる部位が、人の顔を形作っていくのは、阿片が見せる夢か幻か。
 表面はやがて、赤黒く固まり、血管が浮き出たかのような細かな筋を無数に走らせた。喘ぎ、震えていたシモンは、その合間も、兄貴兄貴と繰り返し呼んでいたが、やがて一言。
「カミナ」
 甘い囁き声が消えたとき、表皮に亀裂が走った。叫び声は産声にも聞こえたが、やはり一言。
「――シモン」

 目が覚めれば、横にシモンはいなかった。血を含んだ布団だけがある。触れれば、ぬくみがまだあり、遠くには行っていないはずだと、ヴィラルは身を起こす。
 外からの光がやけに眩しく、もう明け切っているのかとヴィラルは、障子を開く。
 強い風が吹き込んできて、染みて乾いた血は、赤い葩びらとなって、宙を舞う。ひらひらと躯にまとわりつく葩びらに誘われるようにして、外に出れば、赤いはずのそれが、白くなり、目を打った。
 儚くも冷たい。ふたたび、目を開けば、一面の白い雪が光を受け、目を眩ませるほどに輝いている。足裏をふんわり包む雪は、冷たいはずが、まるで真綿のような柔らかさだ。
 庭木の上には雪が積もり、こんもりとそこかしこに白い山を作っていたが、それも座敷から遠ざかるにつれて、平らかになっていく。遮る壁も生垣もなく、果てもない雪原だけが広がっている。
 清らかなまでの新雪の上には足跡。そこにも、血が変じた雪が降り積もり、埋めていく。
 彼は、どこに、誰と在る。問うように視線を巡らせば、雪に足を取られることもなく、軽やかに歩く人影が一つ。顔は傾き、左腕に向けられている。
 その肉が盛り上がってはいないか。蠢きはしなかったか。笑ってはいやしないか。
 ヴィラルは眼を細めるが、細かに降る雪は、徐々に視界を奪っていく。吹きつける風が声だけを運ぶ。
 ああ、嬉しい。
 シモンが笑い声を上げる。無邪気に明るく笑うたび、雪の勢いは増す。
 やっと会えたね、兄貴。ずっと待っていたんだよ。もう、これからは離れることもなく、ずっとずっと一緒だね。
 声が重なる。シモンの声と、男の声と。

 お前とならばどこまでも 心中して地獄の釜の中までも
 とこ いとやせぬ かまやせぬ――。

 姿が雪の中に消え果てても、唄声を聞いたのは、己が口ずさんでいたからか。
 
 地獄の釜はまだおろか 極楽の 蓮華の花の上までも
 とこ いとやせぬ かまやせぬ。

 ――散る雪は、まさしく極楽蓮華の葩びらに似て、兄弟二人の道行きを祝う。

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