人面瘡
1



 歯を埋めるんだよ、と彼は煙管を唇から離し、そう云った。
「――放るんじゃないのか」
 ヴィラルが返すと、彼は腹這いになった布団の上で、くつくつと躯を震わせて笑う。引っかけていた緋の色も褪せた女ものの襦袢が肩からずり落ちた。
「上の歯なら屋根の樋に、下の歯なら、床下に?」
 ちらと横目でこちらを見やる目元のあたりが、かすかにではあるが、情慾を含んでいて、煽られたように、うなずきの声が、喉に絡む。
「ああ……」
 シモンは吸い口を銜えながら、また笑う。朱色の羅宇が細かに震え、ぬめるように光る。
「そんなことじゃあ、生えない。人面瘡は」
 シモンの唇から吐息と共に煙が吐き出される。揺らぐ白い煙の流れを目で追う内に、酔いに襲われでもしたかのように目眩が起きる。胸につかえるようなこの匂い。吸い付ければ、さぞや桃源郷の心地を味わえるというが、どうにも慣れない。
「なんなんだ、その人面瘡とやらは」
「帝大生さまだっていうのに、学がないな」
 小馬鹿にした物言いだが、毒はない。ヴィラルの顔にからかうようにシモンは、ふうっと煙を吹きかける。ヴィラルは眉間を寄せたが、シモンに気にする様子はない。
 白い靄の向こうから声が聞こえ、その息が煙を吹き払う。
「――顔だよ。目鼻口、ぜんぶそろって、話もすれば、喰いもする。そんな顔が躯に生える」
「ぞっとしない話だな」
 ヴィラルは寝返りを打ち、シモンへ向けていた躯を仰向けとする。行燈の光を受けて、天井には影が揺らぐ。
「奇病らしいが、恋しい、愛しいお方の顔が、自分の躯に生えるなら」
 それは、さぞや嬉しかろう。シモンはうっとり囁いた。

 訳あって、冬ともなれば雪深く、人の行き交い絶えるような、鄙びた地に身を置いている。土地の者以外、訪れる者も滅多にいない田舎に思えるが、傷や怪我、虚弱体質に効くという温泉が湧いており、湯治客でそれなりに賑わい、駅前などは小さいが盛り場もある。それでも山へと近づけば、町の騒がしさはどこへやら。
 夜更ければ、鹿の鳴き交わす声すら聞こえる静けさである。
 ヴィラルが訪ねた宿は、町からそこそこ近く、しかし、山や沢はすぐ側、いう立地が幸いしたか、泊まった当初は、満室であったが、一人減り、二人減り、今は、ヴィラルの他は夫婦連れが二組である。それぞれ腺病質の連れ合いのために逗留中だとかで、年代も同じとあって仲良くなったらしく、夫婦二組一緒にいることが多い。 
 自然、ヴィラルは一人になるが、別に人付き合いを求めて、湯治に来たわけではないし、あれやこれやと勘ぐられたり質問されても、わずらわしいだけなので、こちらに構われないのは都合良かった。
 連絡は、母と友人からの手紙か葉書がたまさか届くだけ、携えてきた書物をめくり、宿の周りを散策していれば、まるで隠居でもしているかのような心持ちになる。浮き世のしがらみを忘れられるのはいいが、これでは、いざその浮き世に戻ったとき、惚けたままになるやもしれぬ。
 そんなときは、脇腹を見る。葩びらをつけたかのような赤い傷跡は、笑っているような形にも見える。愚か者、とヴィラルは記憶にある女の声に重ねて、呟いてみる。
 赤い唇から吐き捨てるように漏れた言葉は、まさしく、傷を負ったときのヴィラルの様を現していた。
 地面に倒れ伏し、広がる血潮に身を浸し、見上げれば、黒髪たなびかせて、女がこちらを見据えている。眼差しに凍るほどに冷たい怒りが浮かび上がり、女の細指は、今まさに、ヴィラルが斬り結んだ男の肩に添えられていた。
 男が手首を押さえながら、ため息を漏らす。ヴィラルの腹を切った刀を放り、男は顎をしゃくった。
「俺ではなく、あいつを見てやれ」
「誰が」
「アディーネ」
 宥める声に女は素直に従った。
 ――早くに気づけばいいものを。芸妓が選んだは、青臭い学生ではなく、酸いも甘いも噛みつくした男やもめだ。分かっていてなお、夢を見たか。もしや、まさかと可能性にすがったか。
 相手の男があちこちに手を回し、警察にも新聞沙汰にもならずに済んだ。それが、いっそ哀れみからであればいいものを、今回の沙汰で自分も気持ちが定まったと、女を落籍かせ、礼まで云われたのだから、まさに道化だ。
 思い切れぬ、というよりは、受け入れきれぬ心が、傷の治りを遅くして、医者に勧められるまま、この地を訪れた。
 愚か者は、そのまま抜け殻になって、まだ生きている。息だけが唯一の動きであろうと、腹は減り、躯は汚れ、糞をひねり出す。
 馬鹿馬鹿しいと思いつつ、その馬鹿を終わらせられぬのが愚か者。いっそ、地獄の釜にて油で煮られれば、どれだけせいせいするか。しかし、身を浸すのは現世の温泉。湯の甘さは己の甘さ。肩まで浸り、手足を伸ばせば聞こえるのは、川のせせらぎ、葉擦れに、虫の呼び交わす鳴き声。湯船から零れた湯が、床をぱしゃぱしゃと撫でる音。これに、自分自身の息づかいが混じる。地獄とはほど遠い極楽だ。
 湯船を形作る岩と岩の間に、頭を預け、深く息を吐けば、水面が波立つ。諦念というには苦みの混じったため息を漏らしていると、内湯と露天を遮る引き戸が滑る音が聞こえた。
「一日一日、冷えていくようで」
「山を登った先では、霜が降りたとか、聞きましたよ」
「こういうところは、夏、ときたら、すぐに冬のようなものだ、秋の情緒がない」
 夫婦の片割れ者同士だ。湯船に入ってきた二人に会釈だけして、ヴィラルは身を動かし、その場から離れる。数度ほど、風呂が一緒になったが、挨拶以外、言葉を交わした事もないため、あまり距離が近いのも、互いに気詰まりだろう。
 彼らもヴィラルからは少し離れて、時候やら、どこそこの家の菊がどうのと話していたが、急に声を潜め、ひそひそ話し始める。それを機に湯船から上がろうとしたヴィラルだったが、その動きがかえって彼らの注意を引いたらしい。男の一人が話しかけてきた。
「――お聞きしましたか」
 何を、とも問い返さず、ヴィラルは視線だけを男に向けた。二人いることに気が大きくなっているのか、それとも、湯煙で目つきがいいとはいえぬヴィラルの鋭い目元がよく見えなかったのか、男は続けた。
「離れの客のことですよ」
 意味ありげに、男二人、目配せしあった。
 この宿に一棟だけ離れがあり、そこは、ヴィラルが宿を訪れる前から予約で埋まっていたらしいが、客が来たのは、ここ最近だ。あちらへ通じる道に人の出入りがあったから、仲居に何の他意もなく、話を向ければ、普段ならうんざりするほど、話を膨らませてくれるところが、妙に口が重い。
 よほどの客で、口止めされているようだが、それを追求するほど、他人に興味がある訳でもなく、そうか、で済ませたヴィラルだったが、この二人、いや、おそらくは夫婦二組は食い下がったのだろう。
 返事をすれば、話に巻き込まれようが、かといって、黙っていても、男たちの様子からすれば、会話は続く。ヴィラルは曖昧にうなずくにとどめておいた。
「ご存じないですか」
 否とも諾とも取れぬヴィラルのうなずきを、さほど気にする素振りがないのは、やはり、己が話したいからだろう。
「――あれは男めかけというものらしいです」
 嫌悪と侮蔑とを声に織り交ぜた男は不快そうな表情を作っているが、しかし、どこか話を楽しんでいるように目を煌めかせている。
 湯の流れる音くらいしか響かない浴場で、男二人は声高に喋る。
「なんでも、それしゃ上がりだとかで」
「汚らわしいですなあ」
 世も末だ、とばかりに、片方が首を振る。
「あちらにも立派な風呂があるとかで、こちらには近づかなかったらしいが、昨日あたりから、ここの大風呂にも来ているらしい」
「うちの女房が見かけたんですよ」
 二人大きく、うなずく。息の揃った動きは、なにやら張り子の犬めいて、滑稽だ。
「据え風呂でおとなしくしていればいいものを、またどうしてこちらに」
「――離れの風呂はぬるいからな」
 ところどころがかすれ気味だが、よく通る声が男二人の間に入る。彼らがヴィラルに向けた視線からすれば、こちらが喋ったと思ったらしいが、声はあいにく、ヴィラルとは反対、男たちの後ろの岩陰から聞こえてくるのだ。
 どこに隠れていたのやら。
「こちらの方が、湯も練れていてちょうどいい」
 ぱしゃりと水が跳ねる。
「それに、ここは掛け流しだろう。湯が汚れても、すぐに流れるさ」
 当初の威勢はどこへやら。二人は急に黙りきって、気まずげに顔を拭ったり、手ぬぐいを絞ったりしていたが、やがて、それでは自分たちはこれで、女房たちも上がる頃だからと繰り返して、早々に上がってしまった。
 水音と足音が遠ざかり、脱衣所への引き戸を開け締める音が消えると、今度は別の水音が近づいてきた。
 岩陰からぬっとのぞいた顔は、存外、若かった。
 男めかけと聞いたときから、なぜとはなし、女形崩れを想像していたヴィラルだったが、目の前の男には、そういったやわやわしたものはない。少年期の面影が残る幼顔の青年だが、それでも世知に長けた、どこか老成したものがあり、それを落ち着きと取るか、頽廢ととるかは、人次第だろう。
 それしゃ上がりと囁かれてはいたが、微笑する口元に卑しさはない。
「よお。お前が、無理心中を図った帝大生とやらか?」
 悪気の欠片もない口調だ。
「相手の女は死んだ、死なないと仲居によって、説は違うが、本当のところはどっちだ?」
 頭に置いていた手ぬぐいを支えながら、青年は面白げな眼差しを浮かべている。まったく邪気のない、いたずらっ子のような稚気のある瞳だ。それに毒気を抜かれた。
「――生きている。そもそも、無理心中ではない。恋敵と決闘だ」
 あははと、てらいのない笑い声が振ってきた。
「面白いこと云うねえ」
 濡れ髪の飛沫が、ぽたりぽたりと毛先から肩に落ちる。目を細める仕草が、まるで猫のようだ。青年の顔が引っこむ。ざぷりと音がして、泳ぐようにしながら、青年がヴィラルに近づいてきた。
 大きな目だが、黒目よりも白目の方が大きい。だからといって目つきが悪い訳でもなく、むしろ柔和そうな印象を与える。濡れた髪の毛が頭蓋にぴたりと張りついているから、なおさら子どものように見えた。
「――離れの客か」
「ああ」
 そこで、青年は今、気づいたように、シモンと名乗った。
「お前と同じだ。湯治に来ている」
 湯から出ている肩から上に、傷の一部とおぼしい、赤い痕が見えた。肩上から鎖骨にかけての傷は、まだ続いているようだが、濁る湯の中に消えて、確かめられない。喉にも、丸く、周りの皮膚よりは白っぽい傷跡が二つほど。声が、時々、かすれるのはこの傷のせいか。
「ぬるま湯の方が、長く浸かっていられるものだろう」
 自分も名乗った後、ヴィラルがそう云えば、シモンが首を振った。
「ぬるすぎて、風呂に入りながら眠って、溺れかけた。だから、こっちに来ることにしたのさ」
 莫迦だろう、と自分で笑うのだから、世話がない。
 こちらの表情や素っ気ない物言いにも構うことなく、シモンは話しかけてきて、そろそろ鬱陶しくなってきたヴィラルが湯から上がる素振りを見せると、自分も上がるとついてきた。大股に歩くヴィラルの後から付いてくる足音は、水に濡れているとはあまり思えぬ軽やかさだ。
 脱衣場で浴衣を羽織り、さっさと帯を締める。濡れ手ぬぐいを肩に引っかけ、下駄を突っかけようとして、シモンがいまだ裸体で、躯を拭っているのに気がついた。
 華奢な躯は、湯上がりとあってか、全身、うっすら上気して、鎖骨、腰骨の落とした影が、こちらに情慾じみた奇妙な渇きを覚えさせる。細い腰は女にしたいほどのたおやかさで、手ぬぐいで、肌に付いた水滴を拭う仕草一つが、いちいちなまめかしい。わざとらしい、意識したそれでなく、まったくの無意識だから、知らず知らず目を吸い寄せられている。
 妙な怒りを覚えて、何をもたついているのだと云いかけて、気がついた。
 シモンの左手は、力無く垂れているだけ、右手の動きもぎこちなく、それゆえ、身を拭うにも手間取っているのだ。浴衣を羽織り、袖を通すという、常人ならば、数秒もかからず出来る動きが、いまだ終わらない。
 戸惑う気配が伝わったのか、シモンが流し目を寄越す。
「待っているというのなら、手伝ってくれるとありがたい」
 後ろめたさがあるから、ヴィラルはシモンの言葉に従った。
 並んで立てば、シモンの方が背丈は低い。後れ毛がはりついたうなじを見下ろしながら、浴衣をきちんと着せかけてやる。人に着せてもらうのは慣れているのか、自分で着ようとしていたときよりは、シモンの動きはなめらかだ。
 帯を締めようとすれば、はだけた躯の前がいやでも目に入る。
 近くで見れば、傷跡も鮮明で、さすがにヴィラルも息を呑む。
「なかなかの見物だろう」
 シモンが笑みを含んで、囁く。
 こちらから見た右の肩から左の脇まで、袈裟懸けに斬られたとおぼしい、真っ直ぐな傷。右の手首にも切り傷が幾つか。湯にぬくめられたためか、どの傷も赤みをさらに帯びて、肉の盛り上がりと共に、なんと生々しい。触れれば、今にも血を流しそうにも見える。
「……触りたいか?」
 耳側で吐息混じりの声が聞こえた。
「そんな顔をしているぜ」
 上目遣いでこちらを見て、シモンは唇を舌先でぺろりと舐めた。
「来いよ、ヴィラル」

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