「昼飯はパスタ」
ヤマトはつぶやいた。
「でもスパゲッティって口を大きく開けるから、女性は厭がるって聞いたことあるよ」
向かいのハンバーガーショップに入ったヤマトたちは、奥の座席に案内された太一と少女の姿が見えないか、首を伸ばしている。
「……そんなことも気にしないほど、深い間柄ということも考えられますね」
チーズバーガーを囓りながら、光子郎がつぶやいた。つぶやいて自分でショックを受けたらしく、光子郎のハンバーガーを食べる手が止まった。
「ああ、なるほど」
一人、部外者らしく丈は納得しかけて、ヤマトを見た。
「ヤマト?」
「何だ」
紙コップを握るヤマトの手がちょっと震えている。
「……大丈夫か」
「まだ、我慢できる」
まだ? 丈はとりあえず様子を見ようとコーラを一口飲んだ。別にヤマトの口調が怖かったせいではない――そのはずだ。
「入って三十分。もうちょっとかかるでしょうか」
光子郎は手についた塩を払って、向かい側の店に入り口に目をやる。
「太一、楽しそうだったよな」
ヤマトがまだ手もつけていないハンバーガーを握りしめた。
「誰なんでしょうね。同じ学校の方でしょうか?」
「空じゃないし……あんな髪の子いたか?」
茶色のウェーブがかった髪に、可愛らしい顔立ち。同じくらいの年齢に見える。
「あれ、出てきたんじゃないか」
丈がガラス越しに見えた二人に腰を浮かした。なんだかんだ言っても太一の相手が誰なのか気にはなっているのだ。
入り口のレジで、太一が笑っていた。手を振って、財布をとりだし代金を払っている。
少女が何か言って、太一の腕に手を置いた。
「太一さん、照れてますね」
なんだかむなしさを感じ始め、光子郎はつぶやいた。ヤマトが小さくうなずく。
「……ああ」
肘に当てられた少女の手にびっくりして太一はあわてて店の外へ出ていく。
「仲が良さそうだなあ」
二人に聞こえないように言うと、丈はトレイを急いで持ち上げた。
「行くんだろ、ヤマト、光子郎」
「はい」
ヤマトはむっつりとコーラ以外は手も付けていないセットを黙ってゴミ箱へ押し込んだ。
「今度はどこに行くんでしょうね」
下りのエスカレーターに乗って、太一と少女が降りていく。そのまま百貨店を出て歩き出す二人、それを追う三人。
――タケルは急いでヒカリにメールを送る。
「ヒカリちゃんへ、丈さんも加わりました。気をつけてね……これでよし」
それにしても、とタケルは連れだって歩く兄たちにおかしそうな目を送った。
「どうして気づかないんだろ」
さすがヒカリちゃんだなとタケルは笑い、また兄たちを追いかけだした。
ぶらぶらと太一と少女は街を歩き、楽しそうに話している。
三時過ぎに一度カフェに入り、お茶をした後、今度は海近くの公園へと歩きだしている。
「夕方の海岸」
ヤマトがつぶやいた。
「ムード満点だな」
「ヤマト」
ヤマトをなだめようと丈は肩を押さえたが、光子郎の声にあわてて視線をむける。
「腕を組むみたいですよ」
「ええっ?」
太一がぎこちなく腕をさしだしている。そこで一度、何か太一は文句を言ったようだが、それでも少女が嬉しげに腕をからめた。
丈はヤマトの肩に置いた手に力を込めた。
「頼む、行かせてくれ!」
ヤマトが腕を振り払おうとする。
「落ち着けよ、ヤマト」
「落ち着いてられるか!」
今にも走りだそうとするヤマトを光子郎も引き留める。
「もう少し、様子を見ましょう。とにかく落ち着いて――」
「離せ!」
ヤマトは右腕と左腕それぞれに丈と光子郎をぶら下げたまま、歩こうとする。
「お、落ち着いて下さい!」
「ほら、行っちゃうよ、ヤマト!」
海岸に沿って造られた遊歩道へ歩き出す二人を指さして、丈はヤマトの気を逸らそうとした。
ヤマトはいったん力を抜いて、太一の背中を見つめた。
張りつめた空気が一瞬漂い、そしてヤマトは微笑した。
「分かったよ。行こうぜ」
急に静かな声になったヤマトに顔を見合わせつつ、光子郎と丈はうなずいた。
太陽の光が赤みがかって沈みかけている。遊歩道は開けて、身を隠す場所がないのでヤマトたちは離れた場所から太一たちをのぞいた。
周りはカップルばかりで、気温も高いというのに皆仲良く寄り添っている。もちろん太一と少女も例外ではなかった。
さすがに肩は抱いていなかったものの、少女はしっかり太一に身を預けて、海を指して何か話している。
太一の目が優しく少女を見つめているのが、離れている三人にまで見えた。
「どうしたんですか、ヤマトさん」
ヤマトはそんな太一たちを見ることを、途中で止めて少し虚ろな目で海を眺めていた。
「いや、なんだかむなしくなってきた」
「ヤマトさん」
「太一が誰かとデートしたって、太一の勝手だもんな」
光子郎は眉をひそめ、ヤマトに向き直った。
「ヤマトさん、それ本気なんですか!」
ヤマトはひねた笑みを浮かべようとしたが、泣きそうな顔になっただけだった。
「嫌なんでしょう? 僕だって嫌ですよ。大切な人が自分以外の誰かとデートするなんて!」
「だけど、太一楽しそうだぜ」
「ヤマトさん!」
ヤマトは完璧にむくれている。
むくれたいのはこっちの方だと光子郎は言いかけ、突然響いた丈の叫び声にぎょっとした。
「丈さん?」
「あれ……」
丈が気まずそうに太一たちを指した。
それを見た瞬間、光子郎の顔が真っ赤になった。
太一が少女に顔を傾けている。少女が太一の腕に手をかけ、少し伸び上がって太一の顔が近づくのを待っているようだ。
「キ、キス?」
つぶやく丈の脇をヤマトがすり抜けて行った。ちらりと見えた表情が、白く強張っている。
丈は引き留めようと手を伸ばした。
「ヤマト!」
ヤマトはふっと微笑して、手を振った。
「別に声かけるだけだ」
そんな目が笑っていない笑顔で、挨拶をするなどと言われても信じられない。
丈を無視してヤマトはちょっと振り返った。
「光子郎」
「はい」
「行くぞ」
ヤマトはとまどう光子郎の腕をつかんで、引っ張っていく。
残された丈はあわてて後を追おうと、足を踏み出した。
「あ、大丈夫ですよ」
のほほんとした声と共に丈の肘が引っ張られる。振り返った丈は呆気にとられた。
「タケル君?」
どうしてこんな場所にこんなタイミングでいるのだ。
タケルは丈に笑顔を見せた。
「僕たちも行きましょう。大丈夫です、太一さんがいますから」
タケルが歩き出す。丈は眼鏡を上げ、それからはっと思い当たった。
「タケル君、まさかあの女の子――」
タケルが見せた笑みが、丈の言葉が事実だと物語っていた。
「まいったなあ……」
ヤマトの心中を思って、丈はため息をついた。
「おい、太一!」
太一は打たれたように顔を上げ、見慣れた二人の顔に目を丸くする。
「なんで、ヤマトと光子郎がいるんだ?」
「いて悪かったな。デートの邪魔だったか?」
「デート?」
太一が不思議そうに言い返し、目の前の少女を見下ろした。
「妹と出かけるのもデートって言うのか?」
太一の言葉に合わせて、少女がくるりと振り向いた。
悪戯っぽい笑顔が、きれいにメイクした顔いっぱいに広がった。同時に茶色の髪をつまんで引っ張ると、あっさりとウィッグは取れて、少女の本当の髪型が分かる。
「私はデートのつもりだったよ、お兄ちゃん」
ヒカリは笑って、呆気にとられたヤマトと光子郎の肩越しに見えた丈とタケルに手を振った。
「ヤマト。光子郎」
太一は困ったように先を歩く二人に声をかけた。
「元気出せよ」
返事がない。丈も困ったような顔で太一に肩をすくめて見せた。
太一は頬を掻いて、横のヒカリを突っついた。
「おい、ちゃんと謝れよ」
「どうして?」
「どうしてって……お前が全部考えたんだろ?」
ヒカリは黙って、笑っただけだった。
「あのなあ、ヒカリ――」
「だってこんなに上手くいくなんて思わなかっただもん」
すぐにばれてもいいやとは思ったのだ。なにしろ三日ちょっとはヤマトと光子郎をやきもきさせることに成功したのだから、自分が現れた時点でばれてもいいとは思っていた。
そうならないように一応、タケルにも応援を頼んだのだが、まさか最後まで自分の正体に気づかなかったとは。
ヒカリはまた楽しそうにくすくす笑う。
太一は眉を寄せて、ヒカリの羽織っている薄い上着に目をやる。
「だいたいそんな格好するなよ」
まだ小学生だというのに、少し肌の露出が多すぎる。いや、小学生でなくても、妹にはもっとおとなしい格好をして欲しい。これではまるで下着ではないか。ちょっと親父くさいが、太一は心底そう思った。
「ちゃんと上着着たよ」
キャミソールに文句を付けた太一はまだ不満そうにヒカリの足下に目をやった。
「もっと低いサンダル履けよ」
「お店で一番低いの買ったんだよ?」
「化粧なんかして」
「だって私ってばれたら意味がないでしょ」
ヒカリは横のタケルに笑いかけ、こっそり舌を出した。
太一はそれ以上何も言えず、ため息をついて、ヤマトと光子郎の後ろ姿を見つめた。
寂しげと言うよりも、疲れ切っているような背中が二つ。
「あーあ、まったく」
太一はヒカリの頭を軽くこづいて、タケルにうなずきかけた。
「悪いけど、家まで送っていってやってくれ」
「お兄ちゃん」
「もういっぱい遊んだだろ」
不満そうなヒカリに太一はちょっとだけ怖い顔した。
ヒカリの頬が昔のように膨れかけたところで、太一はほほえんだ。
「――でも、楽しかったな。ヒカリ」
久しぶりに兄妹で過ごした時間を思い出して、太一はヒカリに笑いかけると、ヤマトと光子郎の方へ駆け出した。
「遅くなるって言っといてくれ!」
「お兄ちゃん!」
「まあまあ、ヒカリちゃん」
追いかけようとしたヒカリをなだめて、タケルは首を振った。
「今日はこれくらいにして……またやろう?」
ヒカリが嬉しそうにタケルを見上げた。
「また手伝ってくれるの?」
「もちろん」
ヒカリとタケルはふたたび共犯者の笑みを交わし合った。
「ほら、元気だせって」
暗くなりかけた道を歩きながら、太一はヤマトと光子郎の背中に声をかけた。
「夕飯、奢ってやるからさあ」
返事は返ってこない。太一は並んで歩く丈を見上げた。
「俺、どうすりゃいいんだよ?」
「うーん……」
困ったように丈は腕を組んだ。
「それにしても参るなあ。あいつらがあんなこと考えてなんて知らなかった」
「僕もタケル君から声をかけられたときはびっくりしたな」
もう家に着いているであろうヒカリとタケルの顔を思い浮かべて、太一は複雑なため息をもらした。
「なあ、丈」
太一は丈を困ったように見つめた。
「あいつら、どういう辺りから見てたわけ?」
「……始めからだと思うけど」
確信はないが、一応丈は教えてやった。
「別に俺、変じゃなかっただろ?」
「ヒカリちゃんがほとんど別人だったからね。誤解するのも無理ないと思うよ」
丈に太一はそっとささやいた。
「誤解って……俺がヤマト以外のやつとデートしてたって誤解か?」
「まあ、そうだね」
丈はほほえみかけて、あわてて口元を引き締めた。ヤマト以外、と言う辺りが実に太一らしい。
太一はなんとも言えない表情で丈を見つめ、肩を落とした。
「俺、信用ねえな」
「うーん……」
丈はヤマトの背中を見て、それからそっと言った。
「でも、太一だってヤマトが誰かと出かけるのイヤだろう?」
「別に」
太一は実にあっさりと否定して、
「俺、そんなことで怒ったりしないぜ」
丈は少し考えて、もう一度聞いた。
「可愛い女の子と二人きりで出かけても、いいってこと?」
「ダメだ」
太一は即答した。唇がへの字になっている。
「ほら」
丈は前を歩く二人に聞こえないよう笑い声を立てた。
「ヤマトも、光子郎もヤキモチ焼いていたんだよ」
太一の唇がへの字から、嬉しそうにほころびかけ、あわてて引き締められた。
「――とにかく、どうしたらいいんだよ、俺」
丈は腕を組んだ。本当なら、こういった役割は光子郎辺りがいつも引き受けているのだが、今日は別だ。先輩としてここで一つ、何かいい方法を考えてみる。
ようするに、あの二人は怒っていると言うよりも、脱力しきって声も出ないといったところだろう。
それならば、思い切って――。
「何か、刺激を与えるとか?」
「刺激?」
太一はヤマトと光子郎の背中を見つめ、それから丈の顔をじっと見つめた。
その口元に浮かんだ笑みが、何かをたくらんでいるときのヒカリの笑みにそっくりだと丈が思った瞬間、太一に腕を取られた。
「太一?」
「丈は黙っててくれ」
「へ?」
太一はにやりと笑い、不審に思われない程度に声を大きくした。
「本当に丈の言うとおりだな」
「太一?」
つつかれて、言葉を封じられる。これでも最年長者なのだけどと丈は内心つぶやき、肩を落とした。
「俺もそう思うぜ。やっぱり飯、喰うときは楽しい方がいいもんな」
振り向かない二人に聞こえるように太一は言った。
「そうだな、丈、もう行こうぜ。あいつらは勝手にやるだろ」
太一はあっさりヤマトと光子郎に背を向ける。
丈も背を向けたが、その前にヤマトと光子郎の歩きが止まったのが確かに見えた。
「丈、何喰いたい?」
「え、中華かなあ……」
そこだけ本気で答えた丈ははっと太一の方を見る。
「太一?」
指を後ろに向けるが、太一は首を振った。
「いいよ。何も言わないんだから、来ないんだろ」
「いや、だけど……」
「二人で行こうぜ、丈」
太一が笑いながら、丈を引っ張った。そこで丈はいささか遅くはあったが、太一の意図するところに気づいた。
「……」
なにしろヤマトと光子郎のことだ。絶対に追いかけてくる。
太一と歩く見知らぬ相手が誰かを突き止めようとその後を追うくらいだから、今追ってこないわけがない。
尾行中の怖い二人の顔を思い出し、丈は納得した。確かに成功するだろう。上手い方法と言えば、そうだ。
だが、その場合気になることが一つある。身の危険を感じてしまうのはなぜだろう。
「太一、まさかと思うけど、二人とも変な誤解しないよね?」
「変な誤解?」
太一のきょとんとした顔に、丈は不安になった。
「太一と二人きりになるように僕が仕向けたなんて思わないよね?」
「まさか、そこまで考えるわけ――」
太一は黙り込んだ。後ろから、何か怖い空気がつたわってくる。丈の顔が少し引きつったようになった。
「太一」
「太一さん」
その、かけられた声の低さと迫力といったら。
太一は振り返りかけ、丈の手をつかんだ。
「た、太一」
この期に及んでまたそんなヤマトと光子郎の神経を逆なでするような行動をとるとは――丈の声にも構わず、太一は丈を引っ張り走り出した。
「逃げるぞ!」
「逃げるって……」
太一に引かれるままに、丈も走り出した。ずれそうになる眼鏡を持ち上げる丈に太一が笑いかける。
丈は走りながら器用にため息をついた。
「ちょっと、待て!」
「なんで、逃げるんですか!」
自覚のない二人の怖い声が届く。
さて、どこまで行けるかなと丈は思い、太一とつないだ手に少しだけ力を込めた。
他意はなく、あまりに早い太一の速度についていくための動作だったのだが、後ろから追いかけてくる二人はそうは思わなかったらしい。
「丈!」
「丈さん!」
目聡く、ヤマトと光子郎の非難の声が上がる。
「太一」
息が切れないように注意しながら丈は太一を呼んだ。
「君も大変だなあ……」
「だろ?」
太一は困ったような、それでいて嬉しそうな妙に複雑な顔になった。
ずっと続く並木道を駆け抜けながら、丈はまた訊いた。
「どこまで走るんだい?」
「さあ」
太一が笑う。その笑顔に、なんとはなしにヤマトと光子郎の気持ちが分からなくもない丈だった。
「まあ、いいか」
走るのは得手ではないが、たまには、ヤマトと光子郎をやきもきさせながら、二人で夕食を取るのもいいだろう。
ヒカリに振り回されたヤマトと光子郎、その二人に振り回された自分。少しはいい目を見させてもらってもいいはずだ。
背後からの怒りの声を聞き流しながら、丈は太一に置いて行かれないよう、またしっかりと手を握った。
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