ヒカリにその計画を打ち明けられたとき、タケルはちょっととまどった表情を浮かべただけで、あとはあっさりうなずいた。
「いいよ」
理由は簡単だ。おもしろそうだから――あとは兄がどんな顔をするか見てみたかったからだ。
メールで細かい打ち合わせをすることで話を終えて、ヒカリとタケルは微笑みあった。
「絶対、あわてるね」
「そうだね」
悪戯っぽいというには、どこか怖いものを秘めた二人の笑顔だった。
「お兄ちゃん」
テレビを見ていた太一にヒカリは声をかける。ちょうどコマーシャルになったところだったので、太一は振り向いた。
「なんだ?」
「あのね、今度の日曜日、暇?」
「日曜日?」
太一は壁のカレンダーを見上げ、うなずいた。
「空いてる。何か用か?」
「うん。買い物付き合って欲しいの」
「買い物……」
太一はちょっと困ったような顔になった。
まず女性の買い物が、たいてい予定通り終わることは母親との買い物で、既に経験済みである。
それにもうひとつ、つけ加えてもいい。
「友だちと行けよ。兄貴と行くなんて変じゃないか?」
よほど歳が離れているならともかく、中学生と小学生の兄妹が買い物に行くだろうか。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど……」
「じゃあ、いいよね?」
「まあ……ヒカリが構わないなら、いいけど」
太一の言葉にヒカリが嬉しそうに笑う。
「ありがとう、お兄ちゃん」
ヒカリの笑顔に太一もまあいいかと笑った。
「日曜日だな?」
「うん、それでね――」
次のヒカリの言葉に太一は目を丸くした。
「太一!」
登校中に声をかけてきたのはヤマトだった。
「はよ、ヤマト」
そのまま並んで歩いていると、ヤマトが訊いてきた。
「今度の日曜日空いてるか?」
太一はなるべく不自然でないように笑った。
「あ、ごめん。ちょっと出かけるんだ」
「そっか……」
ヤマトは顔を沈ませたが、そういうこともあるさと気を取り直して何気なく、また聞いた。
「どこに行くんだ?」
「えーっと、買い物」
「一人でか?」
「いや――」
ヒカリと、と言いかけて太一はあわてて口を押さえた。
「?」
「と、とにかく、日曜はダメなんだ。ごめんな!」
手を挙げて走り去っていく太一を見て、ヤマトの表情がしかめられた。
「なんだ、あいつ?」
授業の後ででも問いつめてやると決めて、ヤマトは太一を追いかけ始めた。
さんざんな一日だったかもしれない。どこに行くんだと問いつめてくるヤマトから、ほとんど逃げるようにして過ごした一日だった。自分でもヤマトが隠し事をしているらしいと思えば、同じ行動を取るだろうから怒りはしないが、やはりこうしてみるとヤマトはちょっと怖い。
(いや、怖いだけじゃないんだけど……)
厳しい顔もかっこいいなどと考えつつ、そのヤマトに見つからないように帰ろうと放課後の校舎内をうろついていると、光子郎に呼び止められた。
「太一さん」
一瞬ぎくりとして、声が光子郎だと気づき太一はほっとした。
「光子郎。まだ残ってたんだな」
「ええ、日直だったんです」
うなずいてから、光子郎はちょっと照れた様子で、うつむいた。
「今度の日曜日空いてますか?」
「えっと、その……」
太一は頭を掻いた。
「悪い、ちょっと出かけるんだ」
ヤマトさんと? と追求しかけた光子郎だったが、太一の表情が急に引きつるのを見て驚いた。
「太一さん?」
「光子郎、ごめん。俺、帰る!」
「えっ?」
いきなり背を向けて、走り出した太一。逃げ出した理由はすぐに分かった。
「太一!」
ヤマトの声を合図にしたように太一は走る速度を上げた。
「太一、待てよ!」
「いやだ!」
「待てって!」
「イヤだって言ってるだろ!」
太一の後を追って駆けてきたヤマトは、不機嫌さを隠せない様子で太一を追いかけ回した。
結局、とんでもない速度で廊下を曲がっていく太一に追いつけず、ヤマトは息を切らして、光子郎のところまで戻ってきた。
呆れつつも、鋭い視線で光子郎はヤマトを見上げた。
「どうしたんですか? またケンカですか」
「違う」
ヤマトはぶっきらぼうに答え、光子郎をにらんだ。
「お前、ひょっとしてあいつと日曜日出かけるか?」
光子郎が眉を寄せる。
「いいえ。断られました。出かけるって……」
ヤマトは一瞬、安心したような表情を見せたがすぐに顔を引き締めた。
「あいつ、変なんだよ。誰かと出かけるみたいなこと言って、相手が誰か言わないんだ」
今のヤマトの顔を見て、納得せざるを得ない光子郎だった。
思いきり眉間にしわを寄せて、唇を噛みしめ、いらいらと爪先で床を蹴っている。こんな顔で問いつめられて、逃げたくなる太一の気持ちがわからなくもない。
「……やきもち、やかれるからじゃないですか」
「誰にだよ」
「ヤマトさんにですよ」
ごまかそうとしたヤマトだったが、逆に光子郎たずねた。
「……俺がやきもち焼くような相手と出かけるってことか?」
「太一さんが誰と出かけても、やきもち焼くでしょう」
「……」
返ってきた光子郎の言葉にヤマトはそっぽを向いた。
「でも、確かにちょっとそわそわしてましたね」
まるで後ろめたいことをしているような態度だった。
「気になるな……」
腕を組んで、光子郎はつぶやいた。
学校を出て、ヤマトが追ってこないのを確かめると太一は、ほっと一息ついた。
「怒ったかな」
それにしても、どうして出かけることは言っていいのに、ヒカリと行くと言うのはダメなのだろう?
(出かけるって言っていいけど、私と出かけるって言わないで)
よく分からないことを言われて、うなずいた自分がちょっと情けなくなった。
別に妹と買い物に行くくらい言ってもいいと思うのだが、やっぱりヒカリは嫌なのだろうか。
保健の教科書の単語を思い出す。
(思春期ってやつか?)
でも、それならどうして自分を買い物に誘ったのだろう?
「うーん……」
今更、浮かんだ疑問に首を捻りつつ、家へと急ぐ。
「――太一先輩!」
後ろから呼び止められて、太一は振り返った。
「大輔」
嬉しくて仕方ないといった様子の後輩に太一は笑いかけた。
「今、帰りなのか?」
「はい。太一先輩もですか」
大輔はランドセルを鳴らしながら、太一と並んで歩きだした。
影が重なるように太一に近づいたり、離れたりしながら大輔は太一を見上げた。
「先輩、今度の日曜日練習試合するんですけど、応援に――」
太一は頭を抱えたくなった。今日で三回目の誘いだ。
「ごめん、大輔」
勘の鋭いヤマトや光子郎と違って、大輔に先約があると伝えるのは難しくなかった。
かえって素直に残念な心を表情に出す大輔に対して、罪悪感が生まれたぐらいなのだ。
「いいですよ。先輩も忙しいんだし」
気を取り直して元気に話し出す大輔に、今度は埋め合わせするからと言って、別れると太一はがっくりうなだれた。
「つ、疲れた……」
今日は水曜日。日曜日までまだ三日ある。ヤマトの追求をどう逃れるかが問題だ。
「参ったよなあ……」
――それでも、可愛い妹との約束を必死で守る太一だった。
なんとかヤマトと光子郎をごまかし、話を逸らし、逃げ回って、無事に土曜日の夜を迎えたることができた。気まずい一週間が終わるのにほっとする。
「ヒカリ、明日何時に出るんだ?」
「あ、そのことなんだけど……」
ヒカリの言葉に、太一は最初の時のようにまた目を丸くした。
それでもうなずくところが、妹には弱い兄である。
約束の日曜日、太一のマンション前に二人の少年の姿があった。
「ヤマトさん」
「光子郎」
二人は目を合わせ、それからなんとなく逸らした。恥ずかしいところをみられたとお互いに思っている。
「……来たんだな」
「はい。どうしても気になって」
太一が必死に隠そうとする一緒に出かける相手。
「……俺たちってちょっと情けないな」
植え込みの陰に隠れながら、ヤマトはささやいた。
「ちょっとどころか、かなり情けないです」
同じく植え込みの陰にしゃがんで光子郎は言った。
「でも、気になるんだよな」
「そうなんです」
そのまま、太一が出てくるのを待つ二人だった。
「じゃあ、先行ってるからな、ヒカリ」
「うん」
「十時半だから、お前もすぐ来いよ」
「分かってる」
太一は玄関で靴を履く。新聞を読んでいた父が声をかけた。
「なんだ、二人で出かけるんじゃないのか」
「待ち合わせしたいってヒカリが言うんだよ」
太一は軽く爪先をならしてドアを開けた。
「じゃ、行ってきます」
「ああ、気をつけてな」
「太一さん、出てきましたよ」
「しっ」
姿を見せた太一にヤマトと光子郎は静かにささやきを交わし合った。
「どこ行くんでしょうね?」
「さあ……」
太一は腕時計を眺め、マンションをちらりと見上げると歩きだした。
「行くぞ」
「はい」
太一の後をこっそり追う光子郎とヤマトは、自分たちもつけられていることに気が付かなかった。
別の植え込みから姿をあらわしたタケルは、兄と光子郎がまったく自分の存在に気づかないのにちょっと笑った。どちらも太一のことで頭がいっぱいらしい。おかしくもあり、なぜか気持ちが分かる気もする。
カバンからモバイルを取り出すと素早く文章を入力した。
「ヒカリちゃんへ……計画は順調にいってるっと」
メールをヒカリに送信するとタケルは帽子をかぶりなおした。
太一がやって来たのは、人の出入りが激しい百貨店の入り口近くだった。
所在なげに辺りを見まわし、時計に目をやるその仕草は、いかにも誰かと待ち合わせしていることを語っている。
気づかれないように帽子と眼鏡を購入して、ヤマトと光子郎は太一の様子を窺っている。
壁にもたれかかって、たまに辺りをちらちら眺めまわす太一。ヤマトがだいぶ不機嫌さを増した声でつぶやいた。
「……誰を待ってるんだよ」
「そのうち分かりますよ」
光子郎の声も決して冷静なものではない。
時計の針が十時半に近づいた頃、ほっそりした影が右側から太一に近づいた。
太一が横を向く。長い茶色の髪をした少女だ。キャミソール姿に少し底が厚めのサンダル。グロスで甘く光る唇がほほえんで、太一に話しかける。
「あいつか?」
ヤマトがどきりとしたようにつぶやく。
とうの太一は一瞬、不思議そうな顔をしたが、次にその顔が呆れたようなしかめ面を浮かべる。
「遅かったって怒っているんでしょうか?」
「いや、違うみたいだ」
太一が少女の肩を指すと少女はうなずいて、バッグから白い薄目の上着を取り出して羽織った。
太一はまだ不満が残る顔で何か言ったが、少女と店の中へ入っていく。
「……肩を出すなって言ったみたいですね」
「行くぞ」
人の波に紛れ込んで、ヤマトと光子郎は太一と今度はその連れを追い出した。
最初は渋そうな顔をしていた太一だったが、意外に楽しそうに笑っている。
人混みが激しい場所では少女を自分の腕や背中でかばって歩き、歩調も彼女に合わせ、なかなかに隅に置けないエスコートぶりだ。
ヤマトの顔がますます険しくなっていく。
雑貨や時計など最初は男でも入りやすい商品を扱っているテナントを見回っていた二人だったが、女性向けの服を扱うフロアに二人が上がっていったとき、さすがにヤマトも光子郎もためらいを覚えた。
「行けるか?」
「……ヤマトさんは?」
二人は顔を見合わせてから、思い切ってエレベーターに足を乗せた。
上がった先に見えるのは、華やかな色彩とどことなく鼻をくすぐる甘い匂い。男性の姿もあるが、もちろん女性も一緒なのが当たり前だ。
そのままそのフロアに降りず、上の階まで上がっていくヤマトと光子郎。
「あそこは男だけじゃ、入りづらいよな」
気まずげなヤマトに光子郎もうなずいた。
「そうですよ」
あんなところで男二人ばかりでうろうろするなど、考えたくもない。不審者か痴漢を見るような目で見られるのがオチかもしれないのだ。
次の階は子供服を扱っている。子供の賑やかな声を背に、そこもやり過ごして、更に上へ。書籍と文房具のフロアにほっと息を吐いて、どうするか話し合う。
「あいつら上に上がってくるかな」
「見ている限りでは、そうみたいですね」
光子郎は眉を寄せた。
「でも、ここは一度、一階に戻って待っている方がいいと思います。一階のホールだと、エレベーターとエスカレーター、どちらを使って降りてきても確認できますから」
「そうだな」
エレベーターの方へ歩きだしかけて、おもしろそうな声が背後からかかった。
「ヤマトと光子郎だろ。めずらしい組み合わせだなあ」
「丈!」
「丈さん!」
丈は笑顔を浮かべた。
「二人が一緒なんてめずらしいな。それとも太一がいるとか?」
「……いや、いない」
「あ、そうなんだ。でも、なんで――」
聞きかけた丈は、眉を寄せた。
「からかわないでくれよ。太一はあそこにいるじゃないか」
ヤマトと光子郎は振り返り、ぎょっとした。
いつの間にか太一と少女が上がってきている。
「おーい、た……んぐっ!」
手を振ろうとした丈を抑えて、書棚の陰まで彼を引っ張っていく。
「何するんだよ!」
「しっ、いいから見ろって」
文句を言いかけた丈の顔を、CD売場で笑い合う二人に向けさせる。
太一の隣りにいる少女を見て、丈が首をかしげた。
「あの子、誰だい?」
「俺たちが知りたいことだよ」
驚く丈にヤマトは言った。
「とにかく、俺たちに内緒にしてまで、出かけたい相手らしいぜ」
不思議そうな丈に光子郎は今までの事情を簡単に説明した。
「――それで、君たち二人は、彼らの後を付けてたんだ」
「付けるなんてわけじゃ……」
「じゃあ尾行」
同じことだが、丈は気にせず眼鏡を上げた。
「でも、太一に彼女がいるなんてな」
彼氏がいたはずなのに、と丈は微笑してヤマトの横顔に目をやった。
どんな顔をしているか教えたら怒るだろうから指摘はしなかったが、じつにくやしそうなヤマトの顔だった。
「とにかく、あの女性が誰か分かるまで追いましょう」
CD売場を出て、今度は飲食店街へ向かう二人を目で追いつつ、光子郎はつぶやいた。
「行くぞ、丈」
ヤマトが丈をうながす。丈は不思議そうにまばたきした。
「え、僕も?」
何がなんだか分からない内に、追跡隊に加えられた丈だった。
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