MDに入れた曲を繰り返し聴いて、楽譜を目で追っていたヤマトは、突然暗くなった部屋に顔を上げた。
「ヤマト」
ベッドの方で本を読んでいた太一の声がかかる。
「ああ」
ブレーカーでも落ちたのかとヤマトは手探りでドアに向かって歩き出す。
「他のとこも同じみたいだぜ?」
窓の外が真っ暗なのに驚いて太一はヤマトを引き留めた。
「え?」
窓の側に寄って太一の言葉を確かめる。確かに他のマンションの部屋の明かりも常夜灯もみな消えていた。
かなりの範囲で停電が起こったらしく、ずっと遠くの方に小さく明かりの群が見えるだけだ。
「うわ、なんかすげえな」
太一のはしゃいだ声がすぐ近くで聞こえた。思わず手を伸ばすと太一の体に指先が触れる。
「ヤマト、怖いのか?」
触れてきた指先に、太一は少し笑った。
「怖くねえよ」
一人のときなら、多少驚くだろうが、それだけだ。ましてや今は太一が側にいるのである。みっともないところは見せられないし、見せたくない。何より、太一が側にいるなら、何も怖くない。
「なんだ、つまんねえの」
太一の言葉に苦笑して、ヤマトは窓から離れた。
「懐中電灯、探してくる」
暗い中にいるというのも落ち着かない。居間の引き出しにあったなと歩きかけると、ヤマトの手にあたたかいものが滑り込んだ。
「俺も行く」
太一の手だと思い、同時にヤマトはその手を握り返した。
「なんだよ、お前の方が怖がってるな」
照れ隠しに太一をからかうと、同じ照れ隠しらしいぶっきらぼうな返事が返ってきた。
「うるせえな」
ヤマトは太一と手を繋いだまま、歩き出し、ドアへ向かう。
ドアを開けて、何歩か歩いた途端、戸棚の角に足の小指をぶつけ、ヤマトは呻いた。
「いてえ……」
「何やってんだよ」
急に立ち止まったヤマトにぶつかり、太一は繋いでいた手を離し、ヤマトの背中を叩いた。
「小指が……」
「小指?」
「痛い――」
痛さのあまり、声が出ない。暗いせいで、いっそう痛く感じた。痛みはじんじんと頭にまで響いてくる。しばらく黙って痛みが引くのを待ってから、ヤマトはふたたび歩きだした。
一度離れた太一の手は、ふたたび捜し出して、しっかりと握っている。
「懐中電灯ってどこだ?」
「たぶん、この辺」
手探りで引き出しを開け、中を探るが、どこにもそれらしいものはない。
「あ!」
隣で引き出しを探っていた太一が小さく叫んだ。
「あったのか」
「いや、これ……ロウソクかな?」
「ロウソク?」
そういえば、バザーか何かで購入したロウソクをそのまま引き出しに仕舞った覚えがある。
かなり奥に仕舞っておいたはずだが、太一が引き出しを探る音からして、相当に乱暴に探ったのだろう。
あとの片づけが大変だなとヤマトは闇の中でため息をついた。
「これでいいんじゃないか、ヤマト」
「じゃあライターを探さないと」
ライターは間違いなくテーブルの上に置いてあったはずだ。足を踏み出し、ヤマトは何かを踏んだ。
足の下で転がしてみると、形や大きさからいって印鑑のようだ。
「太一、お前――」
「ライターあったぜ」
すでにテーブルに移動していた太一はライターを見つけたらしい。カチリと音がして、部屋が少しは明るくなった。
ヤマトが足元を見ると、かなりの数、物が落ちたり、散らばったりしている。しゃがんで、床を片づけ始めるとロウソクに火を付けた太一がすぐ側まで来ていた。
「悪い」
炎を消さないようにして、太一もしゃがみ、ヤマトを手伝いだした。散らかしたという意識はあったらしい。
「熱くないか?」
古い手帳を数冊拾い、ヤマトは太一に訊いた。
「いや……わっ!」
太一がうなずいた途端に鑞が手に落ち、太一は危うくロウソクを放り出すところだった。
「何かコップに入れるか」
燭台などという気の利いた物はない。できるだけ長く大きめのコップを探し、ローソクをその中に突っ込んだ。
ロウソクが斜めになったせいで鑞が落ちているようだが、仕方ない。
「ああ、熱かった」
太一が手を振る。壁に写った影が怪しく揺らめいた。
「火傷は?」
「してない」
とりあえず光を確保できたので、火を消さないようにしながら、ヤマトと太一は部屋に戻った。
「まだ点いてないな」
太一は窓に近づいて、外をのぞいている。
ヤマトは机の上にロウソクを置き、鑞がたれても良いように下に雑誌を置いた。
太一がこちらを向く。ロウソクの明かりでいつもとは違う陰影がつき、ヤマトには一瞬、太一がひどく大人びて見えた。
「いつ直るかな」
「……さあ」
寂しさと同時に太一に見惚れ、ヤマトはそっと目を逸らす。
そうやって視線を外したせいで、太一が感心したように自分を見つめるのにヤマトは気がつかなかった。
「電気がつくまで暇だなあ」
ロウソクの光ではどこか心許なく、太一はヤマトに近づいた。
「ラジオでニュースとかやってないか?」
「さあ」
机に寄りかかっていたヤマトは太一の頬でちらちら動く影を目で追った。
ロウソクの揺れに合わせて、太一の顔に落ちる影も揺れる。
太一の唇に影が留まるのを見て、ヤマトは触れたいなとふと思った。なんとなくいつもの太一の唇ではないような気がしたのだ。だが、自分の知らない部分がある太一など嫌だ。
「ヤマト」
太一が妙にぼんやりとした視線で呼びかけた。
「……ラジオか?」
ステレオに手を伸ばしかけたヤマトの手を止めて、太一は首を振った。
「いや」
言葉と同時に手が伸びて、ヤマトの頬を挟む。
「太一?」
「……」
太一は無言でヤマトの頬を指先でつまんだ。力がこもっていないので痛くはない。
ヤマトの両頬を上下左右に太一は伸ばし、小さな笑い声を上げた。
「変な顔だな」
「お前がしてるんだろ」
太一の好きなようにさせておき、ヤマトは太一の顔と唇を見つめ続けた。
いつもそこに自分のそれを重ね、舌を絡め合うような深いキスを交わしたりしている。けれど、そんな妖しい行為をしょっちゅう繰り返しているというのに、太一の唇はちっともそんな気配はない。
自分の唇の方が、汚らわしいような気がして、ヤマトはそっと唇を噛んだ。
太一が頬を挟む手を離して、ふっと横を向いた。
「何だよ」
無視された気がしてヤマトは太一の顔に手を伸ばされたが、太一は見事な動きでその手を払いのけた。
「変な顔してんじゃねえ」
「お前だろ」
なぜか太一を苛めたくなり、ヤマトは太一を振り向かせた。手首をつかみ、力を込める。
「痛えよ」
太一はふりほどこうとしたが、今度はヤマトも許さない。
痛がり、暴れる太一を押さえ込んで顔を寄せた。
「何だってんだよ」
「太一が悪い」
眉を寄せた太一に強引に口づけ、ヤマトは一度顔を離した。
「……なんで、俺が悪いんだよ」
太一の問いに答えないまま、ヤマトはまたも唇を重ねようとした。
「ヤマト」
太一の声が弱い。近くで見れば顔がほんの少しだが赤かった。
「太一」
急に罪悪感が湧いてくる。どうしてこう、衝動的に動いてしまうのだろう。
濡れた唇がロウソクの照り返しで痛々しい赤みを見せている。
「ごめん」
「いい」
伏せた睫毛の影が見えるくらいに太一に顔を近づけ、ヤマトは頬の上あたりに唇を落とした。
手首への力を和らげ、今度は優しく握りしめる。
「俺が……」
太一がつぶやいた。ヤマトの髪がその吐息で揺れ、太一は短いため息をついた。
「変なこと考えたから怒ったかと思った」
「変なこと?」
変なことを考えていたのは自分の方だ。ヤマトは太一の顔へ目を移した。
「お前のこと見てたら、急にむかむかした」
話す太一の目が動いて、ヤマトの視線と重なった。
ロウソクは相変わらず、あたたかい光で二人を照らし、時折ちらちらと揺れている。光でヤマトの髪が微妙に透け、茶色とも琥珀とも付かない淡い色に見えた。
「なんか他の奴みたいに見えるんだよ」
「俺がか?」
太一は何も言わず、またそっぽを向いた。
「太一、こっち向けよ」
太一は横を向いたままだ。子供みたいに尖った唇はもう乾いている。それがやけに可愛らしく見えて、ヤマトは微笑した。
「俺も、お前が知らない奴に見えた」
「お前も?」
太一が不思議そうにヤマトに視線を戻すく。
近くで見る太一はいつもの太一だ。それが嬉しくてヤマトは、太一の額に、わざと音が鳴るよう自分の額を当てた。
「なんか変だな」
太一がようやく笑った。かすかな額の痛みでさえ、太一の笑みに吸い込まれていきそうだ。
「ロウソクのせいだろ」
普段見ない明かりの下で見るから、お互いの顔が違うように見えるのだろう。
「じゃ、消せばいい」
太一は短くつぶやくと、ヤマトを見つめた。
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