イシダ国のハレムといえば、海を越えた国までに伝わる素晴らしさである。
女たちが、たった一人の男のために仕えるハレム。その規模と質でイシダ国に勝る国などない。イシダ国のハレムには周辺諸国や国を持たない部族などが、人質代わりにとよこした、よりすぐりの美女達が集っている。もちろん王以外の男の立ち入りは禁忌であるからして、その実際を確かめた者はいない。
要するに姫君達に仕える女官の姿を見た者や、面通しに同席した者たちから囁かれる噂なのだが、これには真実も含まれているだろう。宮殿の豪華さと、そこから薫るかぐわしい空気のことを考えれば無理はない。ハレムを支える柱の一本で、小国の民を養えるとまで言われるくらいだ。そして、そこを行き来するのは美女ばかり。そのようなことから考えると他国だけでなく、自国の民の男たちでも羨むくらいのハレムだ。
しかし、一つだけ問題があった。
ハレムの主が訪れないのである。唯一足を踏み入れることを許された国王がハレムに来たがらないのだ。これはハレムの存続にも関わる大問題であった。
王の年齢は数えで十五。たしかに幼くはある。だが歴代の国王の中には、わずか十一で子を為した者もいるくらいだから、それを考えると王がハレムに足を踏み入れたがらないのは廷臣達の悩みの種であった。
人質といっても、公式には王の妃としての地位を持つ姫君達も、肝心の婚姻相手がこないのであれば、恨み言の一つ、涙も添えて言いたくもなる。
なかには生国に泣きついた姫もいるのだから、国際問題といえば、そうなってしまう。もちろんイシダ国は大国だから、そんなことは気にはしない。気にはしないが外聞は悪い。
なにしろ――十五にもなって女に興味を示さない男などいるのだろうか?
廷臣達はいたって気のいい、また大国一つ治めるにふさわしい鷹揚さを持っていたが、みな不思議がった。
ここには少しだけやっかみも混じっている。なにしろ美女と呼ばれる女性のほとんどは召し抱えられて、若い王の元へ行くのだから、同じ男である臣下達から見れば、やはり羨ましい。他に女性の官臣もいるが、こちらの心配も男たちと変わりない。
幼い王とはいえ、国の支配者であるからして世継ぎを作るのが、何よりの大事だ。前の国王が一人の妃に夢中で、その妃との間に二人しか子を為していなかったから、ここはやはりその倍は欲しいところである。いや、四倍でもいいかもしれなかった。
現在、イシダ国の王族というのは王と王弟以外にはいないのだ。
もちろん広い国であるからして、探せば王族はいる。しかし血は遠い。なにしろ、何代か前の王のいとこの子が、嫁いだ先で産まれた子が戻ってきて、イシダ国の貴族の女性と結婚して生まれた子が、今のところ王族と呼ばれている位なのだ。王族といえば王族、違うと言えば、まったくその通りだった。
――とにかく子供というのは多い方がいい。大人になればなったで、王位争いなどもあるが、小さい内は何があるか分からないのだから多い方がいい。
そして姫君を差し出した国から見れば、大国の王の子を自国の女が生むのは、何よりも望ましいことだ。国でも自慢の美女ばかりを差し出しているのだから、それくらいは期待したい。そうしなければ持参金も無駄になる。イシダ国に有利な条約も惜しくなる。
まだ若い王は容姿も端麗で、文武両道、政務も熱心にこなされている。ハレムに入る女達は王に顔を見せるのが規則であるが、王から拝謁の機会を与えられた女達のほとんどは、ため息をつきながらハレムに入る。あの様な方の妻の一人となれて、幸福だと思う者も多い。泣く泣く国から旅立った姫君もいらっしゃるが、今度は王を慕っての涙を見せるくらいであるから、ハレムは王の訪れをそれはそれは待ちわびていた。
ともかく手折られるのを待つ名花がハレムには咲き誇っているのである。それに指一本触れないとなると、畏れ多いことだが、もしや王は房事をいたされない体なのかと噂する者もいる。近きはおそば仕えの者から、遠くは路上で物売りをする人々、上は大臣や貴族、下は出入りの庭師まで、国王様のお好みの女性は、などと噂するのであった。
若い国王の動向は、それほどに注目されているのだ。
――そして、肝心の国王様はといえば、宮殿の東屋などで切ないため息をおつきになっておられる。
この場合の切ないは、臣下たちが毎日のようにハレム通いを進めるとか、姫君達からの付け文が届くとかいうことに疲れた切ないではない。
もっと甘い『切ない』であった。ため息に当たれば、花でさえ震えて涙をこぼしながら散っていくと思われるほど、切ないため息だった。
供はみな遠ざけて、たった一人でヤマトはため息をつくと、つぶやいた。
「太一……」
そうして、またため息をつく。
「太一……」
つぶやいてはため息をつく。これを繰り返す内に時間は過ぎて、やきもきしたお側仕えの者がやって来る。
今日もやはり来た。王は渋りもしないで、立ち上がる。
執務に戻る前にヤマトは東屋の周りに植えられた紅薔薇を眺めた。まだつぼみは小さいが、半年も経たない内に花はほころぶだろう。この薔薇は美しく、匂いも良い品種だ。盛りともなれば、寝台にはこの花びらが、香として撒かれるだろう。王の寝台は、国一番の豪奢さと優美さを兼ね備えていなければいけないのだった。
剣を腰帯に落とすと、ヤマトはため息を堪えて、風通しの良い執務室へ戻った。
王のつぶやいた太一という名前で、彼を思い浮かべる者は少ない。王の学友といえば、そうかとうなずく者が何人かいるくらいだ。それよりも近々ハレムに入るヒカリ姫の兄だと言った方が思い当たる者は多いだろう。
ヒカリ姫の生国、ヤガミ国は小国だが、宝石の産出で潤う豊かな国だった。
小国であるゆえに、この国を我がものにと狙う諸国も存在する。そんなことになる前にと、ヤガミ国の王はイシダ国と同盟を結び、その証にと姫君を后へ召し上げることになった。
この時代の女性にしては、めずらしくヒカリ姫は嫌がったらしいが、やはりそこは王族の女性。国のためにと説得されて、イシダ国へ行くことになった。
だが婚姻が決まったとき、姫はまだ十にもならぬ幼さである。ヤマト王もさすがに、困られて、成長するまでは婚約期間ということで、ひとまず落ち着いた。
しかし、そんなことではいつ同盟を反故にされるか分からないと、ヤガミ国も困り、ヒカリ姫の代わりに王子を送り出した。
公式には勉学のために、であるが、ハレムの女性と変わらず、ようはていの良い人質であった。世継ぎの王子を送り出したところが、イシダ国とヤガミ国の微妙な力関係を顕わしている。
ところが、これにはヒカリ姫が一番反対した。今すぐお嫁に行くから兄を行かせては嫌と、涙ながらに反対した。
そこを王子自身が上手く説得して、太一王子はイシダ国へとやって来ると、ヤマト王と机を並べて、同じ師に学ぶ仲となったのである。
ヤマト王の学友は他にも数名ほどいた。こちらは本当に友人以外の何者でもない。いずれは王の右腕にと期待される人材である。
ヤマト王は、どうしても必要な政務を執る以外はご学友達と過ごされた。弟や友人に囲まれ、楽しい日々であっただろう。その時間では王ではなく、年相応の少年として、ふるまえるのだ。
しかし、ある一定の年齢、それは王がハレム行きを積極的に進められるようになった年齢なのだが、そこまでに至ると王は気づかれた。他のご学友に対する感情と、太一に対する感情の相違に、王はとまどいつつ、気づかれたのだ。
何が違うと言われると、たとえば太一の笑顔に胸が騒ぐということから、お側仕えの目を盗んで皆で騒ぐ中で、偶然に太一と肌が触れ合ったときに心臓が飛び出そうになるとか、そんなことである。
ある暑い日に皆で宮殿内の川で、水遊びをした日になど、ヤマトは頬を熱くした。太陽のせいではない。水に濡れた太一王子の体の線に、どうしようもなくやましい感情を抱いてしまったからである。王はその夜、眠れなかった。
まさかと最初は思う。なにしろ同じ男で友人である。しかも形式的には将来の義兄にもなるのだ。悩みもする。だが、木の実の毒に当たり、三日もの間苦しむ太一を死なせたくないと強く思ったとき、ヤマトは自分の思いに気づいた。
そして、更にまた悩み込んだ。その挙げ句、信頼の置ける友人に相談したくなるのも無理はなかった。その頃にはヤマトの胸には、これは恋なのかという疑問があったのだが。
こっそりとヤマトは一歳上の友人に、この太一を見るたび、思うたびに沸き上がる感情は何なのだろうかと相談した。
西の国からわざわざ船で運ばせた眼鏡とやらをゆっくり押し上げ、王の学友である丈はヤマトの真っ赤になった顔を見つめた。
ごまかそうかと思ったが、それは良くない。誠実が一番なのだと父や兄たちから教えられている。
咳払いをして、丈は応えた。
「恋、じゃないかな?」
ヤマトは首を絞められたような苦しい顔になった。
「恋……か?」
「恋……だと思う」
開け放した窓から花の薫りを含んだ風が入ってくる。卓の上に盛られた果実の匂いもじつにさわやかだ。
ヤマトはゆっくりため息をつき、すっきりしたような、そして新しい苦しみを見つけだしたような、なんとも悩ましげな表情になった。
「……大変だね」
「俺も思う」
王である他に年頃の少年としての悩みまで背負ってしまったヤマトに、丈は心から同情した。
こうしてヤマトは許されないと思われる初恋を抱いて、日々を送っていたが、太一もヤマトが物思いに浸る東屋とは、庭園と宮殿を挟んだ遠い場所にある別の東屋で、ため息をついていた。
このため息は王と同種のものである。つまり恋煩いから来る切ないため息というもので、丈などが見れば、友人のために微笑しながらも一肌脱ぎ、肝心のヤマトが見れば、思い人にこんな横顔をさせた上、あのような切なげな息をつかせる相手は誰だと嫉妬するようなものであった。
一応、太一も一国の王子であるからして、側仕えの臣下などもいる。しかし、太一はどこにでも一人で足を運び、あちらこちらと活発に動き回るので、付いていくのは難しい。供の者は太一の姿を見失い、探し回った挙げ句、元の場所で見つけるということもあった。
今日もまた、そうやって供の者をまいてしまうと、太一はため息をついた。この広く、丁寧に手入れされた庭園と、美しい装飾と典雅な様式の宮殿を越えた先にヤマトがいる。
学友といっても、ヤマトは国王でもあるので、執務で忙しい。もっと幼い内ならば、それこそ一日を共に過ごしたものだが、この年齢になれば、王は王らしい仕事を始めてしまう。それが寂しい。たまらなく寂しい。
寂しいと同時に、太一は間近に迫ったある日のことを考えると、恐ろしいほどの不安に悩まされる。妹がこの国へやってくるのだ。
両親からしてみれば、ようやくという思いであるだろうが、まだ幼い妹を一人残して帰国することと、もう一つ、ヤマトと離れてしまうという思いは居ても立ってもいられない切なさを生むのだった。
大事な妹を預けるにふさわしい男かを見極めてやろうという思いでイシダ国を訪れ、早速のようにヤマトと喧嘩をし、そのあとに仲直りやら、楽しい時間やらを過ごすと、何か別の方向へと、気持ちが流れていくのに気づいていた。
もちろん、妹を預けても大丈夫だという方向ではない。
大国の王と言っても威張りもしなければ、傲岸なところを見せもしないヤマト。きっとヒカリにも優しく当たってくれるだろう。兄としては喜ばしくもある。王子としては、国の行く末も安泰だと安心する。だが、太一個人として考えると、あまりにも切なくなるのであった。
公的な身分では完璧に振る舞うヤマトも、同じ年代の少年達に囲まれれば、長所も短所も露わにする。そんな人間的な部分を見ていると、奇妙なほど胸が騒ぐのであった。同時に哀しい願いも抱いてしまうのである。ヤマトの側にとどまり、彼を守りたいと思う。
ヤマトを独り占めにするという大それた望みは抱かないし、己の立場も分かっているので、たまに思うだけだ。せめて帰国の日まではヤマトを想っていたい。
自分を見つけ出したらしい供の足音が近づいてくる。太一は立ち上がった。
匂った花の香に、ふとヒカリの言葉を思い出す。
妹は予言めいた言葉をたまに発したが、それはよく当たっていた。作物の出来具合から、厨房に勤める女の恋愛模様まで、ぴたりと当てる。尊ばれ、巫女姫にという話しもあったが、王族の女として国を守ることを優先することになったのだ。
そのヒカリは太一が旅立つ前に、いつも不安そうに繰り返していた。
イシダ国に太一が行ってしまえば、王として戻ってくることは出来ないと。
それから、今度は泣き出しそうな顔で付け加えた。その方がヤガミ国が栄えるのだと、涙さえ浮かべながら言った。
予言の意味は分からない。自分が帰らないことで、国が栄えると言われても、帰国の日は、すぐそこまで来ているのだった。
太一はうなだれ、東屋を出ていった。せめて国へ戻る前に、もう少しヤマトと一緒に過ごせればいい。それが願いだった。
身分と立場が恋を阻んでいる。そびえる壁に、いつの間にか掛かる梯子にも気づかない。同じ想いを抱いても、互いの心に行き来は出来なかった。
ここ最近では、顔が見られる日も少ない。会えても、他の廷臣達の目や耳がある席で、馴れ馴れしい口を聞くことなど出来もせず、陛下、殿下の敬称付きで、名を呼び、恭しい態度をとらなければいけなかった。
ヤマトは相変わらず、家臣達にハレム行きを勧められ、姫君達からの文に曖昧な返事と豪奢な贈り物を返し、太一との時間を必死で作ろうとした。
太一は暇が出来ればため息をつき、この国で出来た友人との別れを惜しもうとした。それはヤマトに対し、思い人ではなく、友人として別れるために必要なことだった。
若さと恋ゆえの煩悶に悩む内に、ヒカリ姫がヤガミ国を出立したとの知らせが入り、ヤマトは太一の帰国に思いを馳せ、太一は妹の身と、自分の思い切らねばならない恋に胸をふさがれた。宮殿内の学問所に足を運んで、互いの姿を見て、たまに目線で笑い合うときだけが、幸福だった。
会える日は少なく、相手を想う時間は、あまりにも多い。
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