ハレムへの入宮に対しては、幾つかのしきたりがある。新しい妃のもとへ、イシダ国は使いを送る。この場合、王の妻としての扱いをすでに受けているので、使者は女と宦官である。今回はヤマトの特別な計らいで、太一も同行することになった。
そんな優しさに、身を切られるようなつらさもあるが、数年ぶりの兄妹再会には、沈んだ顔の太一も明るさを取り戻す。幼かった妹の成長ぶりは照れくさくもあるが、やはり嬉しいものだった。
迎えの儀式を国境で終えると、ヒカリは輿で、太一は馬でその横を行く。宿までの道を、使者が眉をひそめるくらいに、つもる数年分のおしゃべりで、楽しんだ。
王宮に入宮し、ハレムの壁の向こうへヒカリが行ってしまえば、兄妹といえど、二度と会えぬ。夜も過ぎて、ヒカリが太一の部屋へやってくるのは、当然のことと言えた。
太一はゆったりした寝間着で、絨毯の上にあぐらをかいている。ヒカリはヴェールを外して、太一に笑いかけた。これで、人目もない、布越しでもない、本当の兄妹再会だ。
干し棗などを囓りながら、太一はこれから訪れる王都や宮殿について色々と語った。ヒカリは父親や母親、故郷のこと、太一の知らない数年分を話す。
ヒカリは終始、楽しげにうなずき、また喋っていたが、どこか落ち着かなげな様子だった。どうしたと訊ねても、首を振る。
東の空が白む頃、ヒカリはようやく不安そうに言った。
「お兄ちゃん」
ヤガミ国の王族は、意外に庶民的な育ちをしている。
「なにか、イシダ国で、変わったことなかった?」
太一はどきりとしたが、そこは帝王学を学んだ身、素知らぬ顔で、何もないと笑った。
「そう……」
うつむいたヒカリの寂しげな表情は、王都までの道のりの中で、もっとも胸に残るものだった。国境を越えて、すでに妃の一人として扱われるヒカリだ。王宮へと入る前には別れなければならなかった。これが今生の別れになる可能性は高い。公式の席で会うことはあっても、私的には会えぬだろう。王に嫁ぎ、ハレムの住人となった女は外出もままならない。
馬上から、輿から、名残を惜しみ、後ろ髪を引かれつつ、太一は馬を駆けさせ、一足先に王宮へと向かった。
妹との別れの後はヤマトと別れが待っている。
どの哀しみか分からない。おそらくは少年時代との決別の涙だろう。恋にも家族にも別れを告げる意味で、太一はわずかな涙をこぼした。
妃が王へ会うのは身を清めてからになる。泉での沐浴と済ませ、神官からの言祝ぎを受け、赦された身でヒカリは王の前へと進む。
列席を許されているのはわずかな人々だけだ。よほど高位の貴族でなければ、王の妃を垣間見ることは出来ない。彼らの口から伝わる噂だけが、海さえも越えて伝わるのだ。
紗が列席した人々の視界をはばみ、魔払いのために香が焚かれ、それがなお広間を薄暗く見せている。
一体、幾度こうして女たちを迎えただろうかとヤマトは玉座で思う。
十を幾つか過ぎた頃からであった。年上の成熟した女たちが艶やかな面で自分に微笑む意味が理解できなかった。
笑みを理解した時はハレムという存在がうとましく思った。その意味では、ヤマトはまだ男ではない。
小姓が扇で起こす風を止めさせ、ヤマトは肘をついた。
銅鑼の音が近づいてくる。開け放された二十もの扉の向こうにほのかな灯りが見えた。灯りは揺れながら、玉座の間へとやって来る。女官が案内する彼女が太一の妹であった。
彼に似ているか、どうかが唯一の興味ならば太一は怒るだろうか。
ヤマトは首は動かさず、視線だけで太一を探し求めた。丈と光子郎が手引きして、太一を広間へ連れてきているはずだった。せめて、あと一度は太一をヒカリに会わせたい。このような公式な席ではなく、私的な時間を持たせてやりたかった。妹と生き別れる形になる太一へ唯一出来るのがこのくらいだ。王とは全能であると同時に、まったくの無力なのであった。
複数の女官に周りを囲まれながら、ヒカリ姫が玉座の間へ足を進めてくる。ヴェールに隠された素顔が、太一に似ているのなら、自分は彼女に惹かれるかもしれない。
太一を見つけられず、ヤマトは視線をヒカリ姫に戻した。
王の視線にも気がつかず、女官が膝をつき、面を伏せたまま、両手を交差させた。言葉を与え、面を上げることをヤマトは許す。女官が告げるヒカリの名にうなずき、手を挙げる。
女官に促され、ヒカリ姫がヴェールを顔から払いやった。露わになる面をはっきりと見据えられるのは王のみだ。
ヤマトはわずかに身を乗り出し、ああと息を漏らした。
太一に似ている。顔かたちだけではない他の部分――もしかすれば魂の形さえも。
太一は妹を見ているだろう。そして自分は太一を見ている。
姿勢を戻し、ヤマトは唇を和らげた。理解は早かった。似ているからこそ浮き上がる違いは、落ち着きに近い諦めを呼んだ。
想いに殉ずる横顔を見せたヤマトは、自らの行動に対する波紋には気づかず、遠路をやって来た己の妃の一人に労りの言葉をかけ始めた。
ヒカリ姫がハレムへと入る頃には、王の微笑は余すことなく、王宮すべての人々に伝わった。お世継ぎ誕生も近いやもしれぬと大臣たちはその夜、祝杯を挙げた。
笑みの意味を知るのは王宮に二人しかいない。ヤマト王とヒカリ姫、二人だけだ。太一を挟む二人だけだ。
紅い月が昇った夜、ハレムに初めて王の渡りがあった。
妃たちは下女を走らせ、宦官を呼びつける。ハレムにはいつも以上に濃い香と脂粉の薫りが舞い、沐浴のための水音があちらこちらでこだました。
王は蜜鑞の甘い薫りが漂う広間で宴を開いた。
女たちの耳飾りがちりりと揺れ、その音が幾重にも広がっていく。楽の音は空気を震わせ、ハレムはたった一人の少年のためにすべてを尽くした。
妃たちのヴェールがたなびき、王の目を引こうと薄い布から金銀の光を帯びた肌がのぞく。影が踊り、光が流れた。王からの酒杯は誰の手にも渡り、誰もが今宵の王の相手であることを望んだ。
神に近くなるために四段高くこしらえられた王の席からは、広間のすべてが見える。
側に控えていた宦官は、ヤマトからの耳打ちにうなずいた。立ち上がり、そこかしこで円座を作り、王へと視線を投げかける妃たちの間を進む。宦官が一人の姫をうながすと同時に、銅鑼が鳴らされ、選ばれた女以外の退出を命じた。
妃たちの嫉妬混じりの囁きが消える頃、ヤマトはヒカリを近くまで呼び寄せた。宦官たちが立ち上がり、下座へと下がる。
ゆらめいた炎に照らされながら、ヒカリはヤマトに促され、ヴェールを上げた。初めて会ったときよりも近く、そして厳しく、ヒカリはヤマトを見つめる。
「太一の……妹か」
つぶやいて、ヒカリの不穏な眼差しにヤマトは目を伏せた。
ヒカリはまばたきし、ヤマトの震える手に気づくと、祈るように目を閉じた。
――王はその夜、ハレムにはとどまらなかった。ヒカリが自宮へと返されたことに、もしやと希望を抱いていたハレムの住人たちは、国王退出の銅鑼の音に、いっせいに息を吐いた。ため息で起きた風は、庭の花をそよがせ、闇の中を行く人の黒衣の裾を揺らす。
わずかな護衛に四方を固めさせて、ヤマトはハレムから去った。胸に一つの決意を秘めて。
帰国まで五日。慣れ親しんだ寝台から離れる日まで、後五日だった。太一は寝間着の上に風よけの上着を羽織り、寝静まった王宮内を忍び歩いた。
祝いの言葉を数人の者から受けている。ヒカリが寵妃に選ばれる日も近いことを、様々な立場の人間から羨まれ、嫉妬されていた。お国はさぞや発展されるでしょうとの当てこすりに太一は唇を歪めただけだった。
国の発展に犠牲はつきものだ。だが、それをよしと受けいれられるほど、太一は清濁合わせ飲むことに慣れていない。そして、その奥底にヤマトへの断ち切れない思いがあることも承知している。
どこからか恋を語る楽人の歌声が聞こえてきた。花の匂いと月の輝きに誘われて、太一は庭園へと足を伸ばす。胸に浮かぶ数多の思いは一時も静まらず、静かな夜の庭園に際だつばかりだった。
夜風の中を歩き、太一は立ち止まった。
月が味方してくれた夜だったのだ。
まさかと思う相手から、太一は声をかけられた。
「太一」
右へ視線を投げれば、丸く刈り取られた庭木の側にヤマトがいた。
面やつれしたヤマトは目に微笑みを浮かべている。月が明るいのか、ヤマトが眩しいのか、太一は分からず、ただ目を細めた。
ヤマトとの思いがけない邂逅に太一は喜んだが、あわてて辺りを見まわした。
「護衛は」
「知らない。抜け出してきたんだ」
太一はため息をつき、そっとヤマトに近づいた。
「ごたごたしているときに、一人で出歩くなよ」
剣を携えていないのが悔やまれた。太一が身に帯びているのは護身用の短剣一つだ。
「騒がしいのは太一も同じだろう」
薄い寝間着と上着一枚だけの太一の姿から、ヤマトは目を外した。
「何が」
「俺だって、噂くらい耳にする。お前こそ、微妙な立場だろう」
ヤマトは庭園に向かって、歩き出した。寝所へはここを抜けていけば遠回りだ。太一が着いてくることを望み、それは叶えられた。
花の匂いが濃い。太一は草を踏みながら、ヤマトの隣りに並ぶ。月明かりに照らされる迷宮に模された庭園がどこまでも続くことをヤマトは心から祈る。
噂とは何だという問いが、太一から出るのを待ったが、太一は何も言わなかった。新しい妃の入宮とそれに伴うヤマトの行動のため、王宮はざわついている。
それを知っているのか、知らないのか。王の寵姫になるのではと噂されるヒカリの兄、太一の沈黙にヤマトも黙った。
水音が近づいてくる。噴水の横へ出て、ヤマトは遅れた太一を振り返った。
太一は鼻の下を擦っていた。寒いのかと思い、ヤマトは自分の外套を太一にかけようとした。太一の寒気に気づかなかったのが恥ずかしい。
太一は首を振り、ヤマトから一歩離れ、噴水の縁に手を置いた。首が傾き、太一の横顔しか見えなくなる。
数日見ない間に、何かを脱ぎ捨てようとするかのように、太一の表情は大人びていた。
「ヤマト――」
迫る別れを、今完全に理解し、ヤマトは何かを言いかける太一を遮った。
「……いつ、国に戻るんだ?」
「五日あと。荷物まとめるのが大変でさ」
「そうか」
太一は噴水の縁に腰を下ろした。小さな金属音がしたので、ヤマトは太一が武器を持っているのに気づいた。きっと短剣だろう。
「ヤマト――ヒカリを頼む」
ぱしゃんと水が跳ねた。この噴水では魚を放していたのだ。
ヤマトは水が降りかかる太一の手を見ていた。その手と短剣で、自分を刺してくれないかと本気で思った。
「あいつ、本当は結構、恐がりなんだ」
太一の声が深くなる。
「噂は俺も知ってる。陛下が初めて気に入られた妃、ってな。……国に帰ったら、俺はヒカリに何もしてやれない。ハレムの妬みは激しいんだ。だから――お前が守ってくれ。頼む」
ヤマトは太一が自分を見つめてくるのを知りながら、応えなかった。うなずけば、太一はほほえむだろう。そんな安堵の笑みは見たくない。
沈黙を破り、太一はふっと淡いため息をついた。
「こんなこというのは卑怯だったな……ごめん」
「ああ、ずるい」
ヤマトは笑うようにして言って、続けた。
「お前の替わりくらい出来る。安心しろ」
本心から、そう思った。だが太一の替わりは誰にも出来ない。誰もいない。
太一が静かに笑うのを見て、ヤマトはさり気なく喉元へ手をやった。迫り上がってきそうな固まりが血なのか叫びなのか、ようとも知れなかった。自分から溢れるそれは、太一の名の形をしている。
「やっぱり大国の王様なだけあるな。今の決まってた」
太一が立ち上がって、くっくっと笑った。
「お前に全部、任せるな。安心して帰れる」
言葉を裏切っている太一の横顔はヤマトには見えなかった。
「そろそろ戻るか。送っていく」
歩き出す太一がヤマトの少し前を通りすぎた。革ひもがくるぶしで交差して、太一をしばっている。夜風に吹かれて、太一の生成りの上着がひるがえっていた。
月明かりが薄い寝間着を透かし、太一の身体の線を一瞬だけ、ヤマトの目に教えてくれた。
失うのだと悟った。得てもいないのに、太一をすべて失うのだ。
「太一」
言葉と同時に手首をつかみ、振り向かせた。
太一の瞳の中に閉じこめられていく。夜の散策がもたらした出会いは迷宮への入り口なのかもしれなかった。
自分は王なのか、それともただの少年なのか。何もかも忘れ、ただ太一を失いたくないと言う思いだけにヤマトは支配された。
「俺は……お前の妹は守る。絶対に、守ってみせる。女達の嫉妬が激しいというなら、ハレムを出て別宮で暮らしてもらってもいい。でも、そこに通うつもりはない」
「ヤマト」
太一の驚いた顔をよく見もせず、ヤマトは続けた。
「ハレムにも二度と行かない」
太一が何か言いかける。ヤマトは手を離さずに、自らの思いを告げた。
「女もいい、子供もいらない。太一がいればいい。誰に反対されてもいいんだ。俺は、お前が……好きなんだ」
沈黙の中で、ヤマトは太一の表情の変化を見つけ、希望ともしやという恐怖に息を止めた。太一の心には喜びと嬉しさの交差があったのではなかったのだろうか。ならば、なぜ太一は目を伏せ、手を払うのだろう。
「立場を考えろ」
太一は長いため息をついた。呆れたとも取れる口調だったが、ヤマトは引かなかった。
「分かってる。全部、知って言ってるんだ」
ヤマトが伸ばした手から逃れ、太一は一歩引いた。
「忘れろ。俺は国に帰るし、お前の周りにはたくさん人間が居るから大丈夫だ。すぐに忘れられる」
「出来ない」
ヤマトは太一に近づく。太一の声が震える。
「お前は、国を治めて、世継ぎを作らなきゃいけない。それが義務だ」
「ああ」
ヤマトの明瞭な応えに太一の顔が歪む。答えは目の前に迫っていた。
「なら、忘れろ。俺も……忘れるから」
戯れを、とはぐらかせることも出来たはずだ。それをしなかった太一を、彼を想った自分を、ヤマトは信じた。
「太一」
伸ばした手の先から、太一は逃げなかった。月光を頼りに、覗き込んだ太一の顔と両手で挟んだ頬の震えは、言葉よりも確かだった。
叶わない望みが、たった今叶えられた不安に揺れる瞳だ。これを見つけたのなら、何も恐れることはない。
ヤマトは小さく首を振って、囁いた。
「もう、無理だ」
抱き寄せた太一の体は思った以上に冷えていた。
「ヤマト」
「お前だって、分かってるはずだ……」
ヤマトの胸を突っぱねるように太一の手が動きかけ、肩が揺れた。太一を抱きしめながら、目を閉じ、ヤマトは願った。一生の願いだ。
「――そうだな。無理だ」
耳元で太一の声が聞こえた。
「俺も好きだ。お前と同じだ」
忘れられない、太一がつぶやいた。
「太一」
喜びが力を湧かせる。ヤマトが両腕に力を込めたので、腕に閉じこめられた太一は声を上げた。
「ヤマト、痛い。少し、押さえてくれ」
「ごめん」
あわてて太一を解放し、ヤマトは太一の腰から下がる短剣を取った。
「これ、邪魔だな」
太一を抱きしめると同時に鞘が腿に当たり、ヤマトも太一とは違った痛みを感じていた。
「親父がくれた守り刀に邪魔はないだろ」
「悪い」
まずいことを言ったとうろたえるヤマトにほほえんで、その手の短剣を太一はふたたび自分の手に取り戻した。
「でも、本当にちょっと邪魔だったな」
言うなり、短剣を握ったまま、ヤマトの首に手を回し、太一は頬を寄せた。体を遮るのは薄い衣服だけだ。お互いの鼓動さえも聞こえてきそうだった。
「これで、いいか」
「……」
ヤマトはおずおずと太一を抱き返し、ふと手を強張らせた。突然に差し出された、思いがけない贈り物に、驚き怯えるとでもいうように。
ヤマトの変化に太一は笑って、言った。
「剣で刺したりしないから、安心しろよ」
「太一、あのな」
ヤマトの声がかすれた。
「薔薇の匂いは嫌いか」
突然の問いとヤマトの声音の意味を掴めずに、太一は曖昧にうなずいた。
「嫌いじゃないけど」
「俺の寝台、薔薇の匂いがするんだ」
「ああ、そうか。今は薔薇の時期――」
太一は意味を理解し、言葉を止めた。
「ご、ごめん。匂いが苦手とか、嫌だったりしたら、俺は別に、いいんだ。……気が早すぎるよな。気にしないでくれ」
小さくなっていくヤマトの声に太一は笑うのを堪え、突き上げてくる愛おしさを言葉に変えた。
「好きだよ」
太一の顔をヤマトは改めて、見つめ直した。
太一がほほえむ。そこには、ヤマトがハレムで見てきた花が開くような、たおやかな艶はない。若葉が芽吹くような爽やかさがあるだけだ。だが、花の香よりも、若芽のそれこそヤマトには好ましい。
「薔薇の匂いもお前も好きだから、行こうぜ。一緒にな」
ヤマトは太一の手を握ると、うなずいた。
「ああ。一緒に行こう」
手を握り合って歩いた道こそ、大人への道だった。未来の明るさも暗さも、幻のような月がかき消してくれた。幸福の靄しか、ヤマトと太一には見えない。旅立ちの時は、それでよいのだ。
その夜、ヤマトと太一は互いの体に花の香を刻み、紅の花びらよりも赤い痕を散らせた。
花の匂いよりも、相手の肌の匂いを愛したのも同じなら、広い寝台で二人して、どんな偉大な王者でも叶わない素晴らしい夢を見たのも同じだ。
夜が明けても、太一とヤマトの唇からは幸福な笑みは消えず、寄り添い、眠り続けた。
※
――無事に初恋をかなえた王と王子がその後、どんな一生を送ったのかは、今ではわからない。
古い記録を辿るのなら、ヤガミ国に太一という名の王が即位した歴史はなく、かわりにかの国は巫女姫を女王に立てている。またヤマト王亡き後、イシダ国の王位を継いだのは、彼の血を引く王子ではないようだ。
残された王族の家系図に、ヤマト王の子供の名は記されていない。イシダ国次代の王の座は、王族とは直接関わりのない、ある少年が継いだ。この少年がイシダ国の発展に尽くしたのは疑いようがないらしい。
ヤガミ、イシダの二国は同盟を結び続け、その後も数百年続く繁栄を遂げたが、やがて内乱や他国との戦に巻き込まれ、国自体が動乱の渦に飲み込まれていった。戦の後に残されたのは荒れた遺跡と朽ちかけた資料のみだ。
イシダ国史にはヤマト王が、空前の繁栄の基礎を築いた王として、またハレムを廃止した王とも記されている。彼が成人した年、ハレムは廃止され、仕えていた女官や宦官、そして姫君達もみな国へ戻されていた。
ハレム廃止については、様々な説がある。大規模過ぎたハレムが国の財政を圧迫したのだとも言われるし、あまりに多くの女性を召し上げたので、男たちの反乱が起きたせいだからという説もある。
けれど、王が王子への恋へ生きた証だと受け取ってもいいかもしれない。今となってはすべて確かめようのない事実なのだから、生まれては弾ける泡のような歴史の中で、ヤマトと太一、彼ら二人が幸せな夢を見たと信じるのも良いだろう。
<<<