「俺、今日は用があるから出られないって言っといて」
放課後、部室に顔を見せるなりそう言って、すぐに扉を閉めてしまった太一に部員たちはうなずくしかできなかった。太一の異様なほどの迫力は数人居合わせた上級生にも有無を言わせないくらいの気迫があったのだ。
(あの野郎!)
ヤマトの家を目指す太一は何度も心の中で悪態をついた。たまに声になって出てきたが、どれもヤマトを罵るものだった。
(なんだよ、逃げやがって!)
あの電話の後、太一は泣いて、泣きながら考えた。こうなったらヤマトと正面切って話し合うしかない。
その結果が最悪なものになっても、うじうじ悩んでいるよりはずっとすっきりする。そう思って学校に行けば、ヤマトは欠席していた。
さすがに授業はさぼれず、太一はいらいらしながら放課後まで待った。ホームルームが終わるとヤマトの家を目指して、サッカー部の脚力を発揮する。
汗びっしょりでヤマトの家の前まで辿り着いた太一は、大きく深呼吸し乱れた息を整えてからチャイムを押した。
部屋の中にチャイムの音がこだましていく。
「はい」
「俺だ、開けろ!」
「た、太一?」
ヤマトが帰れと言う前に太一はドアを叩いた。
「開けろ!」
開かないドアを蹴り飛ばす。
「ヤマト、ちゃんと話せ!」
金属の扉を叩き、蹴る音がやかましく響く。
隣に住む女性が文句を言おうとドアを開けた瞬間、石田家の方のドアも開き、騒音の原因を家の中に引っ張り込んだ。
「お前なあ!」
「――会えた」
怒ろうとしたヤマトを太一の声が遮った。
「やっと会ってくれた……」
ヤマトは太一の腕をつかんだ手に我知らず力を込めていた。
「太一……」
太一は安心のあまり滲んできた涙をこらえて、ヤマトを見つめた。
「ヤマト」
ヤマトの目に気圧されて太一は言葉を詰まらせた。
こんな風に鋭く激しい眼差しでヤマトに見つめられたのは初めてだった。目には怒りでもなく、悲しげなあきらめに近い感情が込められている。
「――帰ってくれ。静かにな」
太一から手を離して、ヤマトは言った。
「近所迷惑になる」
「ヤマト!」
「それと、」
ヤマトは太一から目をそらした。
「しばらく会わないようにしよう」
太一の表情が凍った。こうやっていきなり別れを告げられるとは思わなかった。もっと話して、覚悟を決めてからヤマトの気持ちを確かめようと思っていたのだ。
「……俺と、別れるってことか?」
ひび割れたような太一の声にヤマトは顔を上げた。
「そういう訳じゃない……」
「そういうことだろう!」
太一は手を伸ばしてヤマトのシャツの襟をつかんだ。ヤマトは抵抗せずに壁に背をつけて、うなだれている。
「ずっと無視して、俺と話せない、話したくない――今度は会わないようにしよう? 勝手なことばっかり言って……この野郎!」
太一の唇が震えた。拳が固められる。ヤマトは逃げようともせずに拳を受け止める素振りを見せた。
「訳、わかんねえよ」
太一の頬が光った。振り上げられた拳はそのまま下ろされ、太一はその場にしゃがみ込んだ。
「理由を言ってくれよ。俺、何かしたか?」
「違う」
ヤマトはしゃがんで、太一の肩に手を置こうとしたが、わずかに指先が触れただけでヤマトは手を引っ込めた。
その動きに気づいて、太一は顔を上げた。 強張った表情の奥に深い悲しみがたたえられている。
「ヤマト」
胸が張り裂けそうだった。太一とヤマト、どちらの胸も感情の種類は違っても、胸の苦痛は本物だった。
「俺のこと、嫌いになったのか?」
太一が低くささやいた。
「違う!」
太一の言葉が終わらない内に、ヤマトは否定した。首を振って、何度も違うと叫んだ。
「そんなことない!」
「じゃあ、なんでだよ!」
「お前のこと、好きだ」
突然のヤマトの言葉に太一は目を見開いた。その拍子にまだ流れきってない涙がいくつか頬にこぼれていく。
床に涙が落ちきってしまう前にヤマトは手を伸ばして、太一を抱き寄せた。
「好きだ、好きなんだ」
何か言いかけた太一の口を塞ぐ。息する暇さえ与えずに、何度も何度も口づける。
最初、抵抗するように引き結ばれていた太一の唇が甘く開かれていく。
やっとヤマトが唇を離したとき、太一の頬は濡れた唇とは対照的にすっかり乾いていた。
「ヤマト……」
ヤマトは悪いことをしたとでも言うように呆然と唇を押さえている。
「よかった」
太一は笑った。ヤマトの体にしっかり腕をまわす。ヤマトの体がびくりと震えたが、太一はもう気にしなかった。
「嫌われたんじゃなくてよかった。俺、怖かったよ」
胸に太一の頬があてられる。その体から伝わるぬくもりがたまらない。
「太一……」
どうしたらいいか分からず、ヤマトは太一の名をつぶやいた。
「違うんだ」
「何が?」
太一は顔を上げる。さきほどまでの自分のようにヤマトの唇は震えていた。
「お前のこと、好きだ。でも、お前が思うような気持ちでお前のこと好きじゃない」
「――?」
「触りたいんだ……」
太一がはっとヤマトの体の反応に気づく。
「あ……」
「俺ばっかり先走ってる……みっともない」
ヤマトは手で顔を覆い隠した。かすれ声が響く。
「自分で自分が情けない……」
太一はちょっと体をずらして、ヤマトの顔に手を伸ばした。
「――早く言えよ、バカ」
軽くヤマトの手を叩いてから、太一は顔を覆うヤマトの手に自分の手を重ねる。
「そんなの男だから当たり前だろ」
あっさりと悩みを認められてヤマトは太一の手を振り払い、顔を見せた。
自分自身への怒りと太一に知られた恥ずかしさでヤマトの頬は真っ赤だった。
「じゃあ、お前もそうなのか? 俺のこと考えてこうなるのかよ」
「なる。ヤマトの夢見たときとか俺だってなるぜ」
「ウソつくなよ」
「こんなことでウソつくか」
太一はさすがに恥ずかしくなって、うつむいた。
「だけど、自分でしたことないだろ」
「?」
すべてを話してしまいたい衝動に襲われて、ヤマトは荒々しく言った。ほとんどやけくそになっている。
「俺は太一のこと考えて、やるぜ」
ヤマトの歪んだ笑みに太一もちょっと口をつぐんだが、次に出てきた言葉は意外なものだった。
「お前も?」
その言葉にヤマトは眉を寄せる。
「ヤマトも一人でやるわけ?」
「……太一、お前やってるのか?」
「……悪いかよ」
太一はぷいと横を向いた。
「我慢してると、きついだろ」
太一は言って、顔を赤くした。
「太一……」
「別にヤマト一人だけがエッチなこと考えてる訳じゃねえよ。俺だって色々考えたりするし……」
太一の声が小さくなっていく。
「まだ早いかなって思ってたし、それにヤマト、キスするだけだからまだいいのかなって……」
ヤマトはごくっと息を呑む。
「太一、それって……」
太一はうつむいた。耳どころか首筋まで真っ赤である。
「いいってことか?」」
ヤマトはじっと太一を見つめた。太一はうつむいたまま、顔を上げなかったがやっとこれだけ言った。
「俺がヤマトのすることでいやだって言ったことあったか?」
「……けっこうあるぜ」
色々と昔のことを思い出してヤマトは渋い顔になった。
「そうだっけ?」
「そうだ」
太一は本当に忘れているらしい。
「――もういいけどな」
ヤマトは久しぶりに心からの笑みを浮かべた。太一の頬に手を添えて顔を上げさせる。
「……いいんだな?」
「これ以上言わせるなよ」
太一はヤマトの視線に耐えきれず、目を伏せた。
ヤマトはゆっくり顔を傾けると太一にキスした。いつもするようなキスだったので、太一はほっとしてヤマトに体をあずけた。
「親父、帰り遅いから」
耳元でささやかれて太一はうなずいた。
「部屋に行こう」
ヤマトの声は熱っぽく優しかった。太一はうなずきかけて、困ったような顔になった。
「ヤマト、シャワー貸してくれ」
「なんでだ?」
「汗かいてるから、いやなんだよ」
「俺は構わないけど……分かったよ」
太一の目線に気づいてヤマトはうなずいた。
「部屋で待ってるから」
浴室まで案内するとヤマトはそう言い残して、脱衣所から出ていった。
太一は壁に身をあずけて、大きく息を吐いた。なんだか夢でも見ているような気分だった。
嫌だというわけではない。ただ、今までのヤマトとの関係から大きな一歩を踏み出すことに関して、まだ恐怖があった。
服を全部脱いで、浴室の扉を開ける。
シャワーを使って汗を流しながら、太一はなんとか落ち着こうと何度も深呼吸したり、気を紛らわすことを考えようとしたが、全部失敗に終わった。これからのことばかりしか頭に浮かばない。
なるべく未知の時間を遅らせようと、太一は体と髪をゆっくり洗う。
浴室から出てきたときには、入ったときから三十分は確実に過ぎていたようだった。
服を手にとって着ようとし、太一はとまどった。どうせ脱いでしまうのではなかろうか?
「……」
それでも何一つ身につけないでヤマトの前に立つのは恥ずかしいと思う。太一はシャツとズボン、下着だけつけ、ブレザーは手に持つと脱衣所から出た。
居間は静かで、時計の秒針の音だけが響く。
ヤマトの部屋へ続くドアのノブに手を掛けて、太一はもう一度深呼吸した。
もう一度この部屋から出るとき自分とヤマトはどうなっているのだろう。
震えを抑えながら、太一はドアを開けた。
カチャリとノブがまわり、太一が部屋に入ってくる。
ヤマトはさっきからうるさくて仕方ない自分の胸の鼓動が、太一に聞こえはしないかと不安になった。
太一は手にしていたブレザーをどこに置こうか迷うように部屋のあちこちに視線をさまよわせた。
「ここに置いておけよ」
ヤマトの声に太一がはっと体を強張らせる。
ヤマトは太一に近づいてブレザーを取り上げると、椅子の背もたれに掛けた。
部屋はカーテンが閉められ、薄暗くなっている。太一の表情はよく分からないが、かなり緊張していることが気配から伝わってくる。
「太一」
呼んだ声がかすれていたためか、太一はヤマトが怒っていると思ったらしい。
「シャワー、長くてごめん」
「あ、いや……」
長いなどとはまったく思わなかった。太一がドアを開けるまでの時間、ヤマトも色々考えていたのだから、あっという間だった。
「俺、どうしたらいいかな」
太一が泣きそうな声で言った。
「なんか全然わかんないんだけど」
ヤマトだって同じようなものだ。
もちろんこの年だからある程度の知識はある。だが本や雑誌、友人同士の猥談から得た知識と、実践とでは勝手がちがう。
「とりあえず――」
こっちに来いよ、と言いかけヤマトは自分から太一の方に近づいた。
「俺、」
太一が困ったように何か言おうとして、また口をつぐむ。
近づいたせいで太一がいつにないほどの緊張ととまどいを見せているのが分かった。
「太一、俺も同じだから」
そっと肩に手をかける。
「俺もよく分かんないから……なるべく頑張るけど、あんまり優しくできないかもしれない。……でも太一には悪いけど、もうやめられない」
太一が泣き笑いのような表情を浮かべた。
「バーカ、誰が止めろなんて言ったかよ」
ヤマトも少し笑ったが、すぐに顔は真剣なものになる。
「太一、目、閉じて……」
「分かってる……」
ただのキスでなく、これからの時間をにおわせる最初のキスを交わしてヤマトは太一を抱き寄せた。
太一をベッドに横たえて、ほとんど羽織っているだけのシャツのボタンをゆっくり外していく。
器用なヤマトの手がシャツを脱がせ、ズボンにかかると太一は身を引きかけた。
「太一?」
はっとヤマトが太一を見つめる。
ヤマトの目が自分に負けず劣らず、不安そうな色を浮かべているので太一はどうしたらいいか分からなくなった。
「あ、ちがう……嫌な、わけじゃない」
「ああ……」
ヤマトの手がおずおずとふたたび太一の服を脱がせ始める。
「足、上げてくれないか」
腿の辺りで引っかかったズボンに困ってヤマトは言った。
太一はあわてて足を動かして、ズボンを蹴り飛ばすようにしてベッドの向こうにやった。下着一枚でヤマトに見つめられて、落ち着かない。
ヤマトはすぐに太一には触れてこずに、まず自分も服を脱ぎだした。
薄闇にヤマトの上半身が現れたとき、太一はたまらず目をそらしてしまった。
こめかみの辺りで心臓が脈打っている気がする。
ヤマトは太一の様子に顔を沈ませたが、とりあえずズボンを脱いで太一と似たような格好になると、太一の上にためらいがちに体を重ねてきた。
触れあった素肌の感触にどちらもはっと息を呑む。
ヤマトは太一にキスして、それから手をそっと太一の胸に当てた。そろそろと動かしていくが、太一はまさかくすぐったいと笑うわけにもいかず、奇妙な感覚をこらえていた。
ヤマトが指先で胸の先端をつまむ。痛いような痒いような変な感触がそこから広がって、体全体に走る。
気持ちいいというよりもとにかく、むずがゆくてたまらない。ヤマトの呼吸が首筋に当たるに至っては、別の意味で太一は体を震わせた。
「あっ!」
首に痛みが走る。ヤマトがきつく肌を噛んだらしかった。
「悪い」
ヤマトは謝ったが、太一の首に血が滲んでくるのを見ると、どうにもたまらずもう一度そこに舌を這わせた。
焦りと早く太一をもっと自分のものにしたいという思いとでヤマトは頭がいっぱいだった。
「ヤマト……」
ヤマトの手の動きが荒々しくなってきたので、太一の声が少し怯えたようになった。
「ごめん、俺……」
言葉を口にすることすら、なんだか胸がいっぱいでできない。
体をずらして、太一の胸を口で吸うと、太一が切なげなため息をついた。
手を腰からずっと下の方に下ろしていく。 足の付け根までヤマトの手がいくと太一は体を固くした。
幼い頃はともかくとして、人にそんな場所を触られるなんて初めてである。どうしたらいいか分からないようにヤマトもためらいがちに触れてきた。
「……ヤマト」
太一のとまどったような声にヤマトも顔を上げた。
「これから、その……入れるんだよな?」
「ああ……たぶん」
やっぱりそうなのだ。
「痛いかな」
「どうかな……」
なんて無責任なんだと太一はかっとしかけたが、ヤマトの顔が、思わず吹き出すくらいにとまどった表情を浮かべていたので気が抜けてしまった。
「笑うなよ、俺だってわからないんだから」
ヤマトの顔が赤くなった。
「それは俺だってそうだけど、なんかさあ……」
「なんだよ」
「くすぐったいんだよ」
「悪かったな、下手で!」
ヤマトも必死になっている自分がみっともない気はしていたのである。
太一の体の震えもたぶんそんなことではないだろうかと思っていたので、ヤマトはかっとなった。恥ずかしさもあるし、とまどいもある。なんと言っても初めてのことなのだから。
「下手なんて言ってないだろ。くすぐったいって言ったんだ!」
「似たようなことだろ!」
言い争いになりかけたが、お互いに下着一枚で寝ころんでケンカしているので妙に迫力がない。
同時にそのことに気づいて、しばし見つめあった挙げ句、太一とヤマトは吹き出してしまった。
笑って、笑って、笑い続けて気が付いたらごく自然に抱き合っていた。
「――やめるならやめてもいいんだぜ、太一」
「……さっきと言ってることが全然違うぜ。だいたい、お前我慢できるのか?」
太一に言われて、ヤマトは困った顔になった。太一の言葉は今のヤマトの真実を的確に付いていた。
「カッコつけなくてもいいから、」
太一はヤマトの体にしがみついた。
無理して、虚勢を張ってまで自分に気遣ってくれていることは分かる。泣きたくなるような幸福感があった。
怖いのは確かだけれど、それ以上にヤマトとこんな関係になるのを望んでいたのは太一の方だったのかもしれない。
「ヤマトの好きなようにしていいから……もうあんな顔しないでくれな」
「太一」
ヤマトはじっと太一を見つめた。
「――ごめんな、勝手なことばかり言って」
ヤマトは太一の頬を包んで、すまなそうに言った。
「ヤマトは一人で考えるからなあ……。いいよ、もう慣れてるし」
太一は恥ずかしそうに目をそらした。
「そんなとこが好きなわけだし――」
ヤマトが微笑して、太一の髪をかき上げると額にキスした。
「俺も、好きだ」
太一のおおらかさや笑顔にどれだけ心を引かれて続けていたか。
太一が目を閉じた。
唇を近づけていきながらヤマトはたとえようもない愛しさを太一に感じていた。
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