太一のことが嫌いになったわけではない。
ただ見てるだけでつらくなる。側にいられない。どうしようもないこの感情をもてあますことしかできない。知られたらどう思われるかがただ怖い。
好きだと言ってきたのは太一からのはずだったのに、いつのまにか太一に夢中になっているのは自分だった。そのことが怖いわけではない。
恋人同士としてキスだってした。 真っ青に晴れた空の下で交わしたキス、赤くなった太一を可愛いと思い、そんな自分が照れくさくヤマトも赤くなった。
怖いのはそれ以上を望む自分だ。
恋人同士という関係になってまだ二月くらいしか経ってない。男同士という壁はまだ厚く感じられるけれど、それでもゆっくりお互いに乗り越えられると信じて太一と付き合っていたはずだった。
太一は焦る気配をまったく見せなかった。ヤマトに自分の気持ちを伝えたときも、気持ちに応えられないと告げたヤマトに笑って、それなら待ってるといったのだ。
(別にすぐに答えがほしい訳じゃないから、のんびり待ってる)
一週間も経たない内に答えを出したヤマトに、太一は嬉しそうに照れた笑顔を見せてくれた。
(――ありがとう)
あの瞬間からいまも太一に恋し続けている。太一に告白される前から太一のことが好きだと気づくのにそれほど時間はかからなかった。
名前を呼ばれて太一が振り返る瞬間の驚いた表情や、ヤマトを見つけて駆け寄ってくるときの笑顔、体操服の下の伸びやかな体、ヤマトと二人きりのときに見せる恥ずかしげな様子、何もかもが胸を締め付けてくる。
我ながら感傷的だと笑おうとしたが、唇が歪んだだけだった。
明日また学校で会える。声を聞こうと思えば電話でもすればいい。太一と切り離されているわけではないのに、どうしてこんなに太一を遠くに感じるのだろう。
太一は健やかだ。その体も心も自分のように暗い考えにとりつかれたことはないのだろう。
(俺はダメだ)
――ちっとも頭に入ってこない英語の綴りを書き写すのをやめて、ヤマトは机から立ち上がった。
冷蔵庫から取り出したウーロン茶をコップについで、一気に飲み干す。
(太一)
ぐっと熱が体を走る。必死に熱をこらえてヤマトは机に向き直った。
再び綴りだした単語はどれひとつとして頭に入ってはこなかったが、それすらも分からないくらいにヤマトの思いは深かった。
「ヤマト!」
廊下で太一がいつものように声をかけてくる。
「ああ、太一」
「……なんだか元気ないな?」
「ちょっと疲れてるんだ」
素っ気ない答えに太一が顔を曇らせる。
「大丈夫なのか?」
「たぶんな」
いつもとはまったく違うよそよそしい口調も疲れゆえかと太一は思い、気にしないようにした。
「じゃあこれ無理だな」
太一の手元にあったのは映画の試写会のチケットだった。
「応募したら当たったんだけど、無理しない方がいいもんな」
「……他のやつと行ってきたらどうだ?」
「いいよ」
あっけらかんと太一は言った。
「俺、ヤマトと行きたいから、これは誰かにやるよ」
「遠慮しなくてもいいんだぜ」
「してねえよ。どうせもう少ししたら公開されるんだし、そのとき行こうぜ」
太一は笑って、ヤマトの肩をこづいた。
「だから早く元気になれよ」
「そうだな」
なるべく普通に笑おうとしたが、引きつった笑みになるのが自分でも分かった。
太一はびっくりしたようにヤマトの笑みを見つめた。
「ヤマト?」
「ん?」
「お前さ――いや、何でもない」
言いかけて途中で止めた太一を気にすることなく、ヤマトは脇をすり抜けて教室へと戻っていった。
「気のせいかな……」
不安そうにつぶやいて太一も教室へ戻る。どんな不安かと聞かれたら答えようがない漠然とした不安が生まれたが、あまり深く考えないことにした。
(早く一緒に映画に行けたらいいな)
だが、太一の不安はその日の放課後には現実のものとなった。
教室で待っているはずのヤマトの姿が見えず、太一は教室で帰り支度をしていたクラスメイトを引き留めた。
「ヤマト、知らない?」
「もう帰ったぜ」
「ええっ?」
ちょっと部活の先輩に呼ばれただけだ。今日は一緒に帰れる日のはずなのに、どうして何も言わず、先に帰ってしまったのだろう。
太一は首をかしげながら、昇降口で上履きを履き替える。
「太一!」
「空」
足音も軽く駆け寄ってきた空は、太一の周りを見回した。
「ヤマトは?」
「先に帰った」
「だって、今日って一緒に帰る日じゃないの?」
「そのはずなんだけどなあ……」
「そっかあ……」
空がやけに沈んだ顔をするので太一は不思議に思った。
「空、ヤマトに用事か?」
「私というか、クラスの子がね」
手紙を渡して欲しいのだそうだ。
「太一が帰るとこだったからヤマトがいると思って来たんだけど、しょうがないわね」
空は笑って、太一に手を振った。
「気をつけてね」
「ああ」
手を振り返して、太一はちょっと複雑な顔になった。
「手紙……あいつやっぱりもてるのかな」
いくらヤマトに何か用事があったとしても、三日も続けて無視されればさすがにむかっとくる。いや、三日も我慢するのは太一としては忍耐深い方と言えた
「おい、ヤマト!」
階段を降りるヤマトを見つけ、太一はその肩をつかむ。
「なんだよ」
「お前、なんで俺のこと無視してるんだよ」
「してねえよ」
ぱっとヤマトは太一の手を乱暴ともいえる仕草で振り払う。太一は怒るよりも驚いたように、ヤマトの目を見つめた。
「ヤマト、どうしたんだよ」
「どうもしてない」
太一から目をそらしてヤマトは言った。
「どうかしてるだろ。らしくないぞ」
「ほっといてくれ」
そのまま太一に背を向け、ヤマトは階段を降りていく。太一は傷ついたような表情を浮かべ、ヤマトを見送るしかできなかった。
それきり太一はヤマトに話しかけなくなった。
もう一度あんな態度をとられたらとてもではないが耐えられない。話しかけないのではなく、話しかけられない。
何かヤマトの気に障ることをしたのだろうか? 何を怒っているんだろう?
今までのケンカとは違う、冷たいものをはらんだヤマトとの距離に太一は混乱する。
ヤマトは意識してその上で、太一を無視してくるのだ。視線を感じて、見上げた先にヤマトがいたことは何度もあった。だが、太一と目が合うと同時にヤマトが目をそらす。
「どうしたんですか? ケンカでもしてるんですか?」
光子郎に聞かれても太一は曖昧な返事しか返せない。
ケンカなのかそうでないのか知りたいのは太一の方だった。
「ヤマト、最近なんだか変」
空の言葉にもそうだなとうなずくしかできない。それは太一が一番分かっているのだから。
確かに肉親を除けばヤマトと一番近い距離にいるのが太一なのかも知れないが、その太一をヤマトは無視しているのである。
(どうしろって言うんだよ)
顔を合わせて話すと話しにくいかもしれない。太一は電話を自分の部屋に持ち込んで、ヤマトの家に掛けてみた。
「はい、石田です」
懐かしい気もするヤマトの声に太一はどきりとする。
「あ、ヤマト? 俺……」
「太一」
はっとヤマトの声が低くなる。
「何か用か?」
「まあそうなんだけど」
「早く済ませてくれ」
「――なんで無視するんだよ」
あまりにぶっきらぼうなヤマトに太一の声にも怒りが滲む。
「俺、何かやったか? やったなら言ってくれよ。悪かったら謝るし、そうでなくてもそんな態度取られたら訳分かんないよ」
「……別に」
とまどうようなヤマトの声。
「なんで口聞いてくれないんだよ」
「話せないんだよ」
太一の受話器を持つ手に力が込められた。
「……俺と、話したくないってこと?」
「ダメなんだ」
ヤマトの声に震えが混じりだしていたが、太一は呆然とヤマトが言った言葉の意味について考えていた。
しばらくの沈黙の後、電話を切ったのは太一の方だった。
「お兄ちゃん?」
ふらりと部屋から出てきて、電話機を戻すと太一はヒカリに声をかけることもなく部屋に戻っていった。
「なんだっていうんだよ……」
ドアを閉めて、一人きりになった太一の口から言葉と涙がこぼれた。
――傷つけた。いや、傷つけ続けていると言うべきか。
苦い気持ちで受話器を置いてヤマトは唇を噛みしめた。
もう一度電話をかけ直そうかと思ったが、そんなことをしても何を伝えればいいのか分からない。
あんなことを言いたいわけではない。もっと別のことをきちんと伝えたかったのに、言おうとした瞬間、言葉は喉の奥で固まってしまう。
(太一)
泣いているだろうか。自分の名を呼んで泣いているのだろうか。胸が締め付けられたように痛んだが、それも短い間だけだった。
太一の泣き顔がゆっくりと別の意味を含んだ泣き顔へ変わっていく。
――想像の中の太一の唇がねだるように開かれ、ヤマトの名をささやく。
部屋へ戻っても、気晴らしにギターを弾いてみても太一のことが頭から離れない。
偶然見た裸のままの上半身、シャツの隙間から覗く肌の意外な白さ。ヤマトに触れてくる手と同じくらいその体も温かいのだろうか。
我慢できない熱がヤマトから生まれてくる。手を伸ばして、ズボンのチャックを下ろす。
ずっとこらえてきた熱に触れて、解放する助けをしながらもヤマトの脳裏から太一の姿が消えることはなかった。
「……太一」
すべて終わった後のいつもの深い嫌悪感と後ろめたさが襲ってくる。
「ごめん、太一」
ため息というには重すぎる吐息をついて、ヤマトはうずくまった。
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