枕元で淡く光る時計を見ると、すでに日付は変わっていた。

眠気は一向に訪れず、太一は手の中でデジヴァイスをころがした。

右手から、左手に移し替え、何度も握りしめ、そのたびにヤマトのことを思いだした。

一度、伝えてしまえば後は楽だった。ヤマトを見なくとも、三日は平気な顔をしていられる。

ただ限界は三日だ。たったの三日で、太一の自制心は崩れてしまいそうだった。

ヤマトを見ようとする目を伏せ、追い求めようとする心を抑え、必死で三日をこらえた。

廊下ですれ違う度に足が震えるのをこらえるのも、もう限界だ。

明日はどこで会うのだろうか。

ヤマトの姿を見かける場所が最初から分かっていたら、そこには近づかないで、ずっと遠くから見つめられるのに。

ヒカリの持っている少女漫画には、失恋した後の話はほとんどなかった。

失恋でさえ、次の恋のきっかけになっている。

けれど、太一は次の恋など考えられなかった。ヤマトがいい。ヤマトでなくては嫌だ。

もう答えは聞いたはずなのに、なぜ待ってるなどと言えたのだろう。

精一杯の虚勢だったということか。

ベッドに転がっても、浮かんでくるのはヤマトのことばかりだ。

想いを伝えた後はもう少しすっきりするのかと思ったがとんでもない。

以前よりももっとヤマトのことを考えている。

ヤマトがいい。ヤマトでなくてはダメなのだ。しつこい執着はうとましがられるだけなのに、もうヤマトのことしか考えられない。

気がつけば姿も性格も癖もすべてをひっくるめてヤマトを見ていた。

どこが好きだと聞かれれば、幾つだって答えられる。 どんなところも、どんな部分にも惹かれた。

たとえ涙もろくても、ブラコンでも、意地っ張りでも――ヤマトがいい。ヤマトでなくては嫌だ。

もう友達には戻れないだろう。戻れる日が来ても、嬉しくない。

どうして、子供のままでいられないのだろう。

ヤマトとずっと友達でいたいと思えたときのままでいられれば、良かったのだ。

手の中のデジヴァイスは光らない。ヤマトと友達には戻れないように、太一の心を変えてはくれない。

握りしめていたデジヴァイスを太一は時計の横に置いた。

もう寝なければ明日は泣いたように目が腫れてしまうだろう。

太一は目を閉じた。 ヒカリの寝息が聞こえてくる。

それを数えながら、太一は瞼に浮かんでくるヤマトの横顔をはらい続けた。

 

「行ってきます」

「行ってきます」

重なった兄妹の声は、兄の方が小さい。連れだって歩く二人の子供を見送ってから、母は部屋の掃除を始めた。

子供達の部屋を掃除しようと掃除機を持って、ドアを開ける。

朝のあわただしい空気が残る子供部屋を一目見て、母は驚いた。

「あら」

めずらしいこともあるものだ。太一の机の上もその周りもずいぶんと整頓されている。

軽くカーペットの上に掃除機をかけ、ふとその先に当たった固い感触に眉を寄せる。

「何かしら……?」

掃除をしていたのはベッドの下だ。確か以前、そのまま吸い込んだ物が、めずらしいコインか何かで太一に文句を言われたことがある。

見かけは整理されていても、こういうところは、やはり男の子だと母は腰をかがめた。

「まったく」

少し埃っぽい床に手を伸ばし、指先に触れた冷たいものを引き出す。

白い、一見したところ時計のような小さな機械。ヒカリも持っている。

確か名前は――。

「デジボイスだったかしら?」

いつも持ち歩いているようだったが、今日は忘れたのだろうか。

帰宅した太一が見つけやすいように、机の上へそれを置くと母はまた掃除を続けた。

「石田」

校庭を眺めていたヤマトに面白がるような声がかかった。

少し顔を傾けて、横を見ると友人がドアの方を指さしていた。

「呼ばれてるぜ」

太一か、と思いすぐに振り返ると、三、四人ほどの少女達がこちらを見ていた。

「今月初めての呼び出しだな」

からかう友人の足を踏んで、ヤマトはもう一度校庭を見てみた。

いつもは昼休みになると、真っ先にサッカーゴールへ走ってくる太一の姿がなかった。

朝はヒカリと学校へ登校するところを見かけたので、休んだ訳ではないはずだが、どうしたのだろう。

ヤマトは浮かない顔でゆっくりドアの方へ近づいていった。少女たちの視線が痛い。

友人に囲まれた少女の赤く染まった頬を見て、ヤマトは唇を引き締めた。

 

「石田君、ひどい!」

駆け去る少女を、一人が追いかけ、残る二人がヤマトに詰め寄った。

彼女たちはだいぶ離れた場所から、告白する友人を見守っていたのだが、駆け去った友人を見て、ヤマトに近づいてくる早さは
逃げ出すのも間に合わないくらいに早かった。

「石田君のこと、由菜はずっと好きだったんだからね」

言葉に困って、ヤマトは眉を寄せた。この辺が少女達の不思議なところだ。

本人に責められ泣かれるのならともかく、ついてきた友人に怒られるのは、ちょっと納得がいかない。

――それももう慣れたというのはむなしい話だが。

「いや、だけど俺――」

ヤマトはどう言おうか迷った。その間に二人の少女が代わる代わるヤマトを責める。

「好きな人とかいないんでしょ」

「ああ、まあ」

「なら、友達から始めたっていいと思う」

「でも」

どこからが友達で、どこからが……恋人だというのだろう。

「だいたい石田君、はっきりしないとこあるから悪いよ」

「武ノ内さんとか、五年の太刀川さんとかとは喋るのに、他の子とはあんまり喋らないでしょう」

それは一言では説明できない事情があるのだが、もちろんこの場合最初から説明することなど無理だ。

だいたい喋ると言ってもそれほど気安く話しているわけではない。

何とか二人の少女をなだめようとしたが、二対一ではなかなか口を挟む隙がなかった。

「いつも断ってばっかりだけど、それって好きな人がいるってこと?」

「だったらはっきり由菜に言ってあげてよ」

ヤマトの断り文句は知れ渡っている。

――悪いけど、まだそんなこと考えられないから。だいたいこの一言だ。

それを知った太一は素っ気なさ過ぎる、だからヤマトは氷の男とからかわれるんだと言った。

氷の男などと馬鹿なことを言い始めたのが自分なのをすっかり忘れているようだった。

それにしても、彼女たちの言う付き合いとは何なのだろうか。一緒に買い物に行ったり、遊園地に行ったり、映画を見たりするそんなところなのか。

友人とだってそれくらいするだろう。

ヤマトはポケットに手を突っ込んで、少女たちを見た。

自分自身のことでヤマトは手一杯なのに、彼女たちは友人のことを心配しているらしい。

太一は――ごめんと言った。急にこんなこと言って悪かったと、震えた声でつぶやいた。

少女達の言葉を受け流しながら、ヤマトは唇を噛んだ。

ヤマトに告白してきた少女は断ると、すぐに涙を見せた。

ふっくらした頬を流れた涙は止まる気配もなく、それを見てもヤマトはきまり悪い思いをしただけで、胸は痛まなかった。

太一のときはあんなに胸が痛んだというのに、なぜなのか。

太一の顔は泣き顔ではなくて、笑顔の方が好きだ。自分をからかう、たまに呆れるほどばかばかしいことを言う太一の笑い顔の方がいい。

つられてこちらも笑い出したくなるような笑顔が好きなのだ。

――不意にヤマトは少女達の間を突っ切って歩きだした。

「石田君――」

「悪い。俺、やっぱりダメだ」

先ほどのものとはまったく違う鋭い目のヤマトに二人の少女は怯えたように目を見合わせた。

「その、由菜って子に言っといてくれ。俺、やっぱりダメだからって」

答えも聞かず、ヤマトは駆け出した。太一を探さなくてはいけない。

胸がざわめき出す。話さなくなって、もう四日目だ。我慢できない。見つめているだけだなんて嫌だ。

太一の教室をのぞいたが、数人の少女以外誰もいない。

男子は体育館でバスケットをしているらしいと聞いて、ヤマトは登ってきた階段を降りて、体育館まで向かった。

ドアを開けっ放しにしているので、体育館の中の声が辺りに響いている。ドアからのぞき込んだヤマトの目に太一の姿がまず飛び込んできた。

クラスメイトたちとゲームの真っ最中らしい。

ボールをドリブルしながら、太一は味方らしい少年にパスをした。

ゴールに向かって駆けていく太一は、隠れるようにして自分を見つめるヤマトにはまったく気がついていないようだ。

シュートが外れ、落ちてきたボールを受け止めると、太一はチャンスとばかりにふたたびゴールに向かってボールを投げようと、腕を伸ばした。

ジャンプした太一をブロックしようと少年が二人、飛び上がる。

その手にはじかれてボールが転がり、少年たちがまた走る。 どの少年も笑っていた。

昼休みに友人と遊ぶ、ただ楽しむためのバスケットのゲーム――。

太一も例外ではない。楽しそうに笑っている。

太一のパスを受けて、少年がボールを投げた。

それは見事にゴールに決まり、太一はシュートが決まった味方に手を挙げる。

少年が笑顔で、太一に手を伸ばし、手を打ち合わせた。その乾いた音と太一の声が体育館中に響いた。

「――今のスリーポイントだろ!」

走ったせいで太一の頬は赤い。乱れた呼吸の音が届くような気がし、ヤマトは太一の横顔をじっと見つめた。

眩しいくらいに開けっぴろげに笑っている。 ヤマトではなく他の少年に向けて、笑っている。

見たかったはずの笑顔なのに、なぜかヤマトはそれ以上見つめられなくなった。

ふたたび始まろうとしたゲームに背を向け教室へ戻ろうとしたとき、ボールの取り合いで太一を下にして二人ほど、体育館の床に倒れた。

もつれ合うようにして倒れた太一と少年を見て、ヤマトは今まで感じたことがない衝撃を受けた。

飛び出しかけた足が止まったのは、起き上がった少年の声が聞こえたからだ。

「太一、大丈夫か」

太一を呼び捨てにした少年に太一はうなずいた。額を抑えてはいるが、まだ笑っている。

しょうがねえなあとでも言っているのだろうか。立ち上がった太一は少しよろけ、隣の少年の肩に掴まった。

それを見てヤマトは叫ぼうとし、喉を押さえた。苦しげな息だけが洩れて、ヤマトは太一と彼を囲む少年たちを見つめた。

名前で呼び合うほど、彼らは親しい。彼らに囲まれて、太一は笑っている。

自分だけでなく、他の人々、親しい友人たちには皆、あんな笑顔を向けるのだ。

体中が熱くなった。怒りとも、悲しみともつかない、不思議な想いだった。

その瞬間、ヤマトは飛び出していって、太一が笑顔を向ける少年たちの間から太一を連れ出したいと思った。

誰も太一に触れることができないよう、太一を連れて行きたかった。

その思いはすぐに消えたが、灼けつくような胸の熱さは消えなかった。

逆に太一が笑うたびに胸は締めつけられ、熱くなっていく。

拳を固め、ヤマトは太一たちに背を向けた。

教室へ戻ろうと歩いていくヤマトの横顔には、紛れもない嫉妬の表情が浮かんでいた。