グラウンドがオレンジ色に染まっていく。

窓際の椅子に座り、机の上には日直用の日誌が開かれている。

シャープペンの芯を出したり、また引っ込めたりしながらヤマトはグラウンドを見下ろしていた。それはここ二、三日の習慣だ。

何も書かれていない日誌の頁にはヤマトが芯を出し入れしたために、小さな円の跡が散らばっている。

すでに部屋の戸締まりをしているため、ガラス越しでしかグラウンドは見ることができない。

射し込む夕日の光の中、埃が舞っている。

太一はもう帰ったのだろうか。

教室にカチカチとシャープペンを押す音がうるさいくらいに響き、それ以外は何も聞こえなかった。

時計を見上げ、もうそろそろ完全下校の放送がかかる時間帯にさしかかっているのを知ると、ヤマトは急いで日誌を書き始めた。

今日の反省、とかかれた欄でペンを動かす手が止まる。ヤマトは少し迷った後、やりたいことをやれなかったと殴り書きし、日誌を閉じた。

荷物を持って、職員室へと向かう。

階段を二段ほど降りたところで、カシーンと堅い音が足下から聞こえた。

「あっ」

あわててそれを拾い上げ、ふたたび腰に付けようとした。

だがその手は止まり、ヤマトは手の中の小さな白い機械をじっと見つめた。

八人の子供の宝物。あの夏、彼らが手に入れた思い出と冒険の証。

そのデジヴァイスは、今はひやりと冷たい。

八人全員が持っているデジヴァイス。もちろん太一も。

いくらか静まっていた胸が騒ぎ出した。

たった四日だ。自分にそう言い聞かせようとした。

今までだって会えないことはよくあった。だいたい、いつもべったりくっついているわけではない。

太一には太一の、ヤマトにはヤマトの生活があり、お互いに知らない友人もいる。重ならない時間だってあるのだ。

少し寂しくもあるけれど、かといってそれをどうこうできるわけではない。

必要なときは太一は側にいてくれるだろうし、自分だってその側にいるのだから――適当な距離を置けるのも、友達同士ゆえだ。

(友達?)

信頼しあえる大事な、大切なたった一人の親友――違う、親友ではない。

太一をもう友達とは思えなかった。太一の涙を見た瞬間から、その想いを知った瞬間から、自分たちは友達同士でいられなくなった。

だったら、今の関係は何なのだろう。

友人でもない。もちろん、恋人同士でもない。ただの他人になりつつあるのかもしれない。

思い出を一時、共有しただけで終わる子供の頃の友人だ。

そうしないためにはどうすればいいのだろうか。太一が離れていくのは嫌だ。

けれど、想う対象として見つめることができるとは思えなかった。

同じ男同士だ。同性同士でも想い合うことができることは知っている。

けれど、それはあくまでも頭の中でだけ、知識として知っているだけだ。

太一を嫌悪するわけではない、けれど、どうしてもそれが頭から抜けない。

男同士だ。友達だった。友達として好きなのだ。

ふっと埒もない考えが浮かんだ。

もし、太一が女だったら、もし、空やミミのような少女だったら、自分はどうしていただろう。

きっと、とまどったはずだ。けれど……喜んだのかもしれない。

そこに浮かんだ答えにヤマトはデジヴァイスを握る手を震わせた。

太一が女だったら良かったのか。それならば、受け入れることができたのだろうか。

握りしめているのに、デジヴァイスはちっとも暖かくはならない。

冷たいままの機械の表面に、微かに自分の顔が写って見えた。

デジヴァイスは何も教えてくれない。

太一の居場所も、自分の心も、何一つとして教えてはくれない。

あの冒険の間中、あれほどヤマトを、子供たちを助けてくれたデジヴァイスはこちらの世界では動かなかった。

去年の夏に比べたら、少しは成長したかと思っていたが、こうやって思い悩むところはちっとも変わっていないようだ。

(太一……)

彼も悩んだのだろうか。

何か考えたのかとたまに言いたくなるくらい、すぐ決断する彼もこんな風にデジヴァイスを握り、悩んだのだろうか。

同じ男で友達のはずの自分を好きだと認めること、想いを告げることにどれだけの勇気が必要だったのか、ヤマトには考えもつかなかった。

それなのに、自分ときたらあんな情けない答えしか返せなかった。

あのような笑い顔を見るくらいなら、涙を見た方がずっとましだというくらいの笑顔しか浮かべさせることができなかったのだ。

体育館での笑顔にはほど遠いあの顔が、自分に向けられた最後の笑顔だった。

だが、太一の友人は見ている。ヤマト以外の誰もは太一の普段通りの明るい顔を見ているのだ。

自分以外には、太一はいつもの表情を向けている。 自分だけが遠くから、それを見ているのだ。

見つめるだけなのだから、話すこともしていない。

――太一と話したかった。

話したいことがあるという訳ではなく、ただ顔を合わせて言葉を交わしたい。

冗談を言い合っていた一週間前が、遠い昔のような気がする。

声を遠くから耳に入れるのではなくて、自分に向けられた言葉を聞きたかった。

笑顔を遠くから見るだけでなく、自分を見て笑って欲しかった。

これほどに自分は太一だけを見ているのに、太一は自分を見ていない。

そう思うと、すさまじい怒りがこみあげてきた。

太一の隣にいるのは、自分のはずだ。

自分だけを見て欲しい。他の誰かと話しているなど、許せない。

太一が他の誰かに笑いかけて、触れあっているなど、嫌だ。

嫉妬している。太一に触れあう、太一が付き合う誰もに、ヤマトは今、嫉妬していた。

太一と普通に話していた一週間前の自分にさえ、ヤマトは嫉妬し、顔を歪めた。

太一が他の友人と一緒にいるところなど、今までイヤと言うほど見てきたというのに、なぜこんなに苛立っているのだろう。

この心の狭さは一体、どういうことか。

(太一)

彼を思い、名を呟くときだけ、心が晴れていく気がした。

好きだと言ってくれた。こんな独占欲に満ちた、狭量な心を持った自分のことを好きだと言ってくれた。

太一は男だ。自分も男。それでも太一はヤマトを好きだと言ってくれた。

あんな情けない返事しかできなかった自分を、まだ好きでいてくれるのだろうか。

(太一)

想像していたその想いはもっと、優しいものであるはずだ。

幸せな、あたたかい――握りしめているデジヴァイスのようにあたたかい想いのはずだった。

そこでデジヴァイスの変化に気づき、ヤマトは声を上げた。

冷たかったはずのデジヴァイスは、いつの間にかあたたかくなっていた。

ヤマトの手で温もったのではなく、それ自体が熱を発してるようにあたたかい。

「どうして――」

ヤマトのとまどいにも構わず、デジヴァイスは熱くなっていく。

持っていると火傷をするのではと思うくらいに熱く、しかしその熱さは心地よい。

なぜ、こんなに熱くなるのか。思いついた考えに、ヤマトは恐る恐る呟いてみた。

「太一?」

ポツンと小さな光が浮かんで、すぐに消えた。返事するように、ここにいるよと言うように、小さいがはっきりした光だった。

握りしめ、ヤマトは周りを眺めた。

誰もいない。放課後の静かな校内、階段にはヤマトしかいなかった。

(太一)

思うたび、呟くたびに、光は瞬き、デジヴァイスは熱くなった。

ヤマトは目を閉じた。

――太一は男だ。自分も男。太一はそれでもヤマトを好きだと言ってくれた。

まだ、待っていてくれるだろうか。

きっと、人に言えない恋になる。知られたら、どんなことになるかも想像がつかない。

けれど、そんな見えない未来よりも、太一が自分の隣にいないことの方が嫌だ。

太一と離れたままになるなど嫌だ。

あの夜の笑顔が自分に向けられた最後の笑顔になるのは、嫌だった。

たった四日、それが、どれだけ長い四日間だったか、自分は知ってしまった。

太一のことしか考えていなかった四日間。明日もそうだ。

明後日も、その次の日も、一週間先も、一ヶ月先も、一年先も。これから先の日々、太一を思って過ごしていくだろう。

これが、恋ということなのだろうか。

それはまだわからない。けれど、一つだけはっきりしていた。

たとえ恋になっても、恋にならなくても、太一を失うことだけは絶対に嫌だ。

デジヴァイスを腰に戻した。

ここまで導いてくれたのだ。もう頼ってはいけない。

自分の目と足で、太一を見つけたかった。

これから自分たちはどんな関係になっていくのだろうか。

それを考えるのは、まず太一の笑顔を見てからだ。

ヤマトは走り出した。

踊り場の、廊下は静かに歩きましょうという注意書きを横目で眺め、ますます足を早め、校舎内に足音を響かせた。

駆けていくヤマトの腰で、一度強くデジヴァイスが光ったが、ヤマトは気づかなかった。

ただ励ますようなその暖かさだけを感じるだけだった。

いつもは雑然と物が置いてある机だったが、今日は整理され、座りやすい。

薄暗くなっていく部屋の中、小さく光るそれに触れて、すぐに前足を引っ込めた。

それはあまりに熱かった。熱いものは苦手なこともあるし、この妙な見慣れないものに関わるとあまりいいことがないのだが、
机の上で光るそれに好奇心が湧いたのはしかたい。

もう一度、今度は爪を出して、それに触れる。カチンと堅い感触がして、それが少し揺れた。

そのまま何度もひっかくようにして、じゃれつき、そのたびに揺れるそれで遊んだ。

「――ミーコ?」

隙間からの光が大きくなる。子供部屋に入ってきたヒカリは、太一の机の上にしゃがんでいる猫に目を見張る。

「何してるの?」

甘えるように鳴いた猫の足下に、デジヴァイスが揺れている。

ヒカリはあわてて机に近づき、ミーコを抱き上げた。

「それにいたずらしちゃダメ」

不満そうにミーコはヒカリの腕の中で暴れ、床に降り立った。

「ご飯あげるから、こっちにおいで」

ミーコを部屋から出しながら、ヒカリは振り返り、太一の机に置いてあるデジヴァイスを見やった。

ポケットに入れてある自分のデジヴァイスは別に何の変化もない。

光っていたように見えたのは自分の気のせいかと首を傾げ、ヒカリは部屋のドアを閉めた。

ドアが閉まり、しばらくすると机の上のデジヴァイスはふたたび小さな光を見せたが、今度は誰も――猫でさえもその光を目にすることはなかった。

大丈夫だった。今日も平気な顔ができた。

体育館裏口の階段にしゃがみこみ、太一はサッカーボールを手で転がしていた。

どんな一日になるかと思ったが、いつも通りの一日だった。

たとえ気持ちが、地の底を這うような最低なものであっても、一日は始まるし、終わる。

(俺、けっこう強いな)

もうダメだと思ったのに、平気な顔をして四日目を過ごせたのだ。

この分だとヤマトを思い切れるかなと太一は思い、膝の間に顔を埋めた。

乱暴な勢いで手を離されたサッカーボールが階段を落ちて、どこかへ転がっていくが、追いかけるより、しゃがんでいたかった。

もう少し、しゃがんで、泣いてからボールを追いかけよう。

こうして一日のうちのいくらかをめそめそと過ごすと、なんとか普段は涙を見せずにすむ。

一日中ヤマトのことを考えているが、泣けるのはこんな風に一人でいるときだけだ。

――ヤマトは今日も元気そうだった。

少し寒かったからだろうか、いつもよりは厚着して学校へ来ていた。

靴箱に手紙は入っていなかったようだ。昇降口でヤマトと話していた友人は、別に彼をからかう様子を見せていなかったから、太一はほっとした。

いつかヤマトが誰かと付き合うことになっても、良かったなと言えるようになりたい。

軽く彼を殴って、適当にからかって、祝福できるようになりたい。

今はまだ無理だが、いつかはそうできればいい。そうすれば、また友達に戻れるだろうか。

ヤマトの彼女の隣には立てるくらいの仲に戻れるだろうか。

昼休みに体育館で見かけたヤマトの怒ったような表情を思い出して、太一は肩を震わせた。

今日はもう少し、泣いていこう。

涙を流した分、ヤマトを忘れられるかもしれないというむなしい思いが、小さくなるまで、もう少ししゃがんでいよう。

夕飯に間に合うぎりぎりの時間までここにいると、帰り道は走ることになるが、そうすればヤマトのことを考えなくてもすむ時間が少しはできる。

太一はしゃがんだまま動かず、足下の地面を濡らし続けた。

 

日が半分ほど西へ沈んだころ、長く伸びた影が、壁にぶつかって転がったままのサッカーボールをすくい上げた。

壁にこだまする小さな嗚咽に唇をかみしめながら、彼は近づいていく。

日誌を持ったままの手にサッカーボールを持ちながら、太一に近づいていく。

肩を震わせ、涙をこぼす太一は気づかない。

その人影が今まで見つめ続けていた彼であることに気づかない。

落ち葉を踏みしめる足音に、彼の緊張した息づかいにまだ気づかない。

近づく彼も知らなかった。

ほんの十秒後、自分が太一にどんなことを告げるのか知らず、そこから二分も過ぎれば、太一の涙が乾くことも知らない。

ただ、ゆっくりと彼は近づいていく。その未来に近づいていく。

涙の変わりに太一が笑い、その笑顔にヤマトが顔を赤くすることも、二人は知らない。

だが、それはほんの少し後のこと、ヤマトが太一の名を呼び、太一が顔を上げたときから、始まることだった。

――乾いた音を立てた落ち葉に、太一はふと息を止めた。

自分の影と太一の影が、一つに重なるのを見て、ヤマトは小さく息を吸った。

「太一」

始まりのその一声は、少しかすれている。

星が光る頃、二人並んで家まで歩くことも、ヤマトと太一はまだ知らなかった。