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翌日、修学旅行の最終日には、今までの様子とはうって変わって太一は明るかった。
昨日喧嘩した友人たちともいつの間にか仲直りしており、写真を撮ったり、おみやげの品定めをしている。
教師にうるさいぞと言われても、太一の明るい声はよく通っていた。
それにほっとしながらも、逆にヤマトがどこか沈んだように見えるのが空には不思議だった。
昨日まではいつものヤマトだったというのに、あの静かさは何なのだろう。
ぼうっとしているヤマトは集合写真でもそんな顔のまま、写っていた。
少女たちが隠し撮った写真や、頼み込んで一緒に摂った写真も、同行したカメラマンのカメラにもヤマトの強張ったような表情が写っていたのだ。
ずっと後、それこそ何年か後に、太一はその修学旅行の写真を見て、よく笑っていた。
ヤマトの仏頂面も構うことなく、どこか別の世界でも見てるみたいな顔をしていると言って、何度見ても笑っていた。
今のヤマトが、未来の太一の言葉を知るわけがないが、それでもまさしくその通りだった。
別の世界を見た気がしていた。何もかも初めて見るような気がしたのだ。
こう言うと何だが、告白は何度か受けていた。手紙でも、電話でも、あるいは呼び出しをかけられて、想いを伝えられたことはある。
だが、どの少女の想いも、いくらかの罪悪感と後ろめたさを伴いながらも、断っていた。
まだ好きだの嫌いだのというのは、どこかうっとうしいものもあったし、面倒くさくもあった。
太一が彼女を作るまでは、自分もそんな相手は作らないだろうと、勝手に思っていたのだ。
太一に冷やかされるのが嫌なのが、一番大きな理由だったかもしれない。
一度、太一と一緒に帰ったとき、昇降口で待っていた少女に呼び出されたことがある。 隣のクラスの、ショートカットの女の子だった。
校舎裏でため息をつきながら、少女にごめんと言って戻ってくると、待っていた太一は色男はつらいねと、にやにや笑った。
あの夏休みが終わってしばらく経っていた秋の話、もう一年ほど前の話だ。
そんなことがあるたびに、太一はよく自分をからかっていた。
ヤマトをからかうことにかけては呆れるほどのボキャブラリーを太一は持っている。
それらが、そのまま友人達がヤマトを冷やかす言葉になっていったことに気づいているのだろうか。
とにかく、からかわれるのがイヤで、太一が先に彼女などを作ったら、今度は逆に、思い切りからかってやろうと決めていたのだ。
色男だのお台場の女泣かせだのと、太一が言ったそんな言葉以上に、もっと太一を憤慨させるような、からかいの言葉を考えて
それで祝福するつもりだった。
――一体、いつから太一は、自分を好きでいてくれたのだろう。
まるで自分だけ取り残された気がした。
太一は、相手はヤマト自身であったが、人を好きになっている。
……恋をしたということなのだ。
小学生同士の恋だからと、醒めた風に思おうとしても無理なくらい太一の目は真摯だった。
ほのかな憧れ、恋に恋しているように思えた今までの少女たちの目とは違った。
初めて、想いを告げてきてくれた相手の目を見た気がする。
泣きそうな顔、それでも笑っていた。諦め半分の、ため息が出そうな笑顔だった。
自分がなんと言って断ったのかも、覚えていない。
確かダメだと言った。
友達だからと、男同士だからと――男同士、その通りだ。だから、こんなにひっかかっているのだろうか。
ただ、ずっと友人だった。大切な友人の一人だった。
これからは、どう接すればいいのだろうか。
最後に廻った観光先で父や母、弟へのおみやげを選びながらヤマトは太一の姿を探した。
空と何か話している。あそこは京菓子を売っている辺りだ。
二人は並んだ箱を品定めしていた。太一が試食用の品物が入ったプラスティックのケースを開けて、空に何か言っている。
空がうなずいて手を伸ばしたところで、ヤマトは横からこづかれた。
「石田、お前そんなの誰にやるんだよ」
はっと友人の声に手元を見ると、かなり渋い色合いの西陣織の財布を手に取っていた。
タケルへの土産をさがしていたのに、どうしてこんなものを手に取っていたのだ。
「ワサビ漬け、母さんが買ってこいってうるさいんだよな」
ヤマトは我に返って、友人の顔を見る。
「俺も親父に言われた」
「なんかいっぱい種類があってわかんねえのに」
漬け物が並べてある棚へ移動しながら、ヤマトはまた太一の方を見た。
彼も、ちょうど顔を上げてヤマトを見ていたところだったので、距離を置いて二人の視線があった。
ほとんど同時に目を逸らして、太一は空と、ヤマトは友人とふたたびおみやげを選び始めたのだった。
※
旅行の日程は、木、金、土の二泊三日だったので、当然のことながら、旅行の後は太一に会えなかった。
やきもきするような休日は、母と弟のもとへおみやげを持っていくだけで終わってしまった。
外食するかという父の誘いを断って、夕食を作りながら、現像に出した写真の受け取り日がいつなのか聞いていないことを思い出し、
ヤマトは思わず舌打ちをしていた。
「なんだ、どうした?」
ヤマトの土産のワサビ漬けをつまみにビールを飲んでいた父は、キッチンに響いた苛立ったような舌打ちにぎょっとした。
「失敗したのか」
「違う」
ぶっきらぼうに返事し、ヤマトはフライパンの野菜を無茶苦茶に掻き回した。
まずタマネギが、次はピーマンがフライパンの外へ飛んでいく。
幾つか野菜をとばした後、手に油が跳ねたので、ヤマトは黙って火を止めた。 皿を出して、中身を盛る。
父親の前へそれを置いて、そのままキッチンへ戻った。
「ヤマト、これはなんだ」
よく言えば歯ごたえのある、悪く言えば半生の野菜を一口食べて父は聞いた。
「野菜炒め」
「お前、味付けたか」
よく噛んでも、野菜の微かな苦みしか味はしない。
そう言うと、ヤマトはキッチンから醤油と塩とこしょうを持ってきた。
「おい」
並べられた小瓶に呆れ顔を見せた父だが、ヤマトが野菜に調味料をかけ、皿の上で混ぜ合わせ始めたのを見ると、黙り込んだ。
「……どうかしたのか」
とりあえずは食べられるようになった野菜炒めにふたたび箸を伸ばし、父は聞いた。
「旅行ぼけか、ヤマト」
「ああ、たぶん」
「そんなに楽しかったのか」
「……ああ」
「写真見せろよ」
「ああ」
ヤマトは機械的に夕食を口に運び、さっさと箸を置いた。
「ごちそうさま」
「もういいのか」
そう言う父の箸も、ワサビ漬けとみそ汁、白飯の間しか行っていない。
野菜炒めはほとんど手を付けられないまま、冷めていきそうだ。
ヤマトは流しに食器を置いて、洗い出した。
「明日、学校なんだ」
「そうか」
だいぶ疲れているようだと息子の背中を見ながら父は思った。
「先に風呂に入ったらどうだ。洗い物は俺がやっておくから」
「悪い、親父」
後かたづけは父に任せて、浴室へ行きながら、ヤマトは心の中でつぶやいた。
明日は太一に会える。話すことはできなくても、姿を目にすることはできる。
それが嬉しいのか、それとも怖いのか、どちらなのだろう。ヤマトは考えながらため息をついた。
※
太一のクラスの教室の前を通り過ぎるだけで、緊張したヤマトと違って、遠目に見る太一は普段通りに見えた。
朝には遅刻しかけ、廊下を走っていた。ランドセルをカタカタ鳴らし、その足下にはサッカーボールがある。
休み時間に校庭を見下ろせば、サッカーゴール近くでボールを蹴飛ばす太一がいた。
給食時間に手を洗いに行けば、友人と笑い合っている太一がいる。
放課後、教室を出かけたヤマトの目の前を太一と何人かの少年が、サッカーボールを蹴飛ばしながら走っていった。
――太一はとくに変わったようには見えなかった。
ヤマトに話しかけてこず、廊下で会ってもただすれ違うだけで、前のように軽口を叩かなくなったことをのぞけば、太一は何も変わらなかった。
ただ、ヤマトと、視線が交わりそうになれば自然に目を伏せる。
廊下でヤマトの横をすり抜けるとき、隣の友人にプロレスもどきの技をかけて目を逸らす。
通り過ぎていく太一の笑い声に振り返ったヤマトと違って、太一は振り向かない。
まるであの日の言葉を嘘にするように、太一はヤマトを振り向かず、見ようとはしなかった。
そのままあっさりと日は過ぎていく。
心はどうあれ、太一を見つめているのは、今はヤマトの方だった。
写真を現像に出して三日ほど経った頃、店から電話がかかってきた。
取りに来てくれと、言われて、夕食の買い出しついでにヤマトは写真屋に寄った。
思った以上に写真の枚数はある。さきほど買った品物の中に生鮮食品がほとんどないのを確かめてから、ヤマトは写真を袋から取り出した。
三日目の写真はそれほどなかった。多いのは、やはり初日と二日目だ。
気のないように、ぼんやりと流し見しながら、何か足りないと感じた。
まわった観光先ではほとんど写真を撮っている。
写っている自分は間抜けなほど明るい顔でこちらを向いていたが、一つ足りない。いや、一人、足りない。
「太一」
また写真を見てみた。どこを見ても、どんなに目を凝らしても太一とは写っていなかった。
友達なのに、一緒に写真も撮らなかった。
(友達?)
少なくとも、修学旅行の前まではそうだった。
深夜にホテルで太一の心を知るまでは、友達だった。
そして太一の心を知った後――こんなことがあった後、平気な顔をして友達付き合いなど続けられる奴がいたら、
そいつはよほどのバカか、鈍い奴だろう。
そう思い、同時に太一に鈍いと言われたこともヤマトは思いだした。
もっと鈍い、面の皮の厚い自分だったら、太一に話しかけて、そのまま友達でいられただろうか。
秋も深まりつつあるので、日が落ちるのも早い。写真を乱暴にしまい、ヤマトはだいぶ薄暗くなった家までの道を歩き出した。