洗面所から出る太一のために脇によけて、ヤマトは笑った。

「お前が水使ってたのか」

「ああ」

太一は手にしていたタオルを首にかけた。ヤマトの顔が見えないように、少しうつむく。

「なんだ、びっくりしたぜ」

ヤマトは照れくさそうに続けた。

「トイレに来たら、隣から水が流れる音がするだろ? 一瞬、お化けかと思った」

「バカだな」

太一も少し笑って、タオルの両端を握った。

今、ヤマトの目が自分の目のあざに向けられたのに気づいたのだ。

次の質問は予想通りだった。

「――なあ、喧嘩したって?」

「まあな」

「なんでだ?」

すぐには答えず、太一はスリッパを履き替えて、足音がしないように歩き出した。

ヤマトが後から追ってくる。

ヤマトの部屋と太一の部屋への分かれ道までは、まだ遠い。

太一は言葉を考えながらゆっくり言った。

「お前、もてるだろ」

「はあ?」

突然の太一の言葉にヤマトは思い切り間抜けな声を出した。

自分の質問とそれがどう関係あるのだろうか。

「いいから、聞けよ」

太一はにこりともせず続けた。

「お前、女子に人気があるんだよ。だから……空と付き合うつもりだったら、ちゃんと空のこと守れよ。女子ってそういうところ怖いからな」

「おい、なんで俺と空が付き合うんだよ?」

「俺だって知らねえよ」

太一はタオルを握った手を離して、体の横で拳を作った。

「知らねえけど、そんな噂を聞いたんだよ。風呂上がりに仲良くどっかに行ったって」

「ああ……」

そういうことだったのか。

ヤマトは脱力しながらも、太一にそんな意味でどこかへ行った訳じゃないことを説明した。

「空が心配してたんだよ、太一が元気ないって。だから俺からも聞いてみてくれないかって……」

そこで不意にヤマトは口をつぐんだ。太一の喧嘩の原因が分かった気がしたのだ。

空とヤマトが二人で歩いていたという噂を聞いたと太一は言った。

それは事実だが、そこにつけ加えられたらしい感情はあくまでも噂だ。

だが、噂の主のヤマトと空は、二人とも太一と親しい。その辺から、何かあったのではないか。

とくに空を守れという言葉には、義侠心とはまた別の太一の心が込められているようにも聞こえる。

自分よりも、空との付き合いの方が太一には長い。そこに友情とは違う別の想いが芽生えることだって、考えられる。

ひやりと冷たいものを背中に感じて、ヤマトは立ち止まった。

太一は数歩先を行ってから止まり、振り向かずに声をかけた。

「どうしたんだよ」

別に、とごまかしかけるのを止めて、ヤマトは小声で言った。

「誤解するなよ」

太一が顔をこちらへ向けた。目が少し腫れ、右目に青あざがあるくらいで、他はいつも通りの太一だ。

六年生に進級したからといって、すぐに何もかも変わるわけではない。

身長や体重と違って、心の変化は表にはあらわせないし、数字にもできない。

だから、言葉や雰囲気で探らなければいけないのかもしれなかった。

太一は黙ったままのヤマトに向き直り、眉を寄せた。

「誤解って、何がだ?」

「空のことだよ」

「ああ。俺のこと話してただけなんだろ」

「そうだ。だから、その……空とは何でもないから」

「ああ?」

空のために言っているのか、自分のために言っているのか、ヤマトには分からなくなった。

ただ太一には変な風に誤解して欲しくない。

そんな思いに突き動かされ、ヤマトは言っていた。

「空は――あいつは、俺のことそういう風には思ってないと思うから安心してくれ」

ヤマトの言葉を聞いた太一の顔が歪む。

気にしていたことを突かれた表情と言うよりも、もっと悲しそうな顔だった。

その表情を見て、自分が口走ったことが、太一にも、そして空にも失礼な言葉だとヤマトは悟った。

同時に、こんな傲慢な言葉を言った自分をみっともなく思い、恥ずかしくなった。

自己嫌悪のあまり混乱しかけたが、ヤマトはかすれた声でまず太一に謝った。

「……悪い。その、ごめん……」

太一は足下の緑色のスリッパを見つめた。

聞こうか、聞くまいか迷ったが、結局聞いていた。

「ヤマト。お前、空のこと、好き……だったりするのか」

「違う」

ヤマトは首を振った。

その答えの早さに太一は怖くなった。自分の本当の気持ちを否定するのは、よくあることだ。

その通りだと答えられたら、自分はどんな態度を取ってしまうのか。

祝福など出来そうにない。耐えられそうにもなかった。

「別に嘘つかなくてもいいから言ってくれ」

けれど、嘘をつかれるのも嫌だ。

「違うって言ってるだろ」

「嘘つくなよ」

「ついてねえよ」

かっとしかけ、ヤマトは声を落とした。太一の弱々しい声が気になったが、はっきりと言う。

「本当だ」

太一がヤマトを見つめ、それからまたうつむいた。

「そうか……」

太一の声に深い安堵が混じるのに気づいて、ヤマトは少し動揺した。

誤解は解けたというのに、なぜこれほどに心が騒ぐのだろうか。

空が自分を思っていないからか。ならば、なぜ太一はそれに安心するというのだ。

その疑問から導き出された答えに、動揺を隠せないまま、ヤマトは聞いた。

「太一、空のこと好きなのか」

太一が息を呑んだ。手が震えて、目がまばたきを繰り返す。

「……なんでそんなこと言うんだ」

「いや、空のこと聞いてたみたいだったから……」

言葉を言えば言うほど、自己嫌悪の深みにはまっていく気がする。

ヤマトはいらいらと爪先を動かした。胸がもやもやする。

この胸のわだかまりは太一に問いを発するときだけ、消えるのだ。

太一を見つめて、太一に見つめられるときだけ、胸は少し軽くなる。

「……もし、太一が空のこと好きで、俺と空が一緒にいたこと誤解したんだったら、違うって言いたかっただけなんだ」

「誤解なんてしてねえよ」

太一が首を振り、濡れた髪の先からしずくが飛んだ。

こちらに飛んだら、文句を言おうと思っていたヤマトだったが、しずくは太一の足下に落ちただけだった。

寒そうに太一は体を震わせ、言った。

「ちょっと気になっただけなんだ。女子がなんか怒ってたらしいからさ」

「――太一、言ってくれよ」

太一に見つめられて、ヤマトの心が晴れていく。

そう、太一は意地っ張りだから、自分の気持ちを隠すときがある。

空のことが好きなら、はっきり言って欲しい。

言ってくれたら応援する。大切な友人の恋だから、何としても幸せになって欲しい。

隠さないで自分には教えて欲しい。

その瞬間、どうしてこんなに胸が重たいのか、ヤマトは分かった。

太一が自分に隠し事をしているから嫌なのだ。

それに気づき、ヤマトは柔らかい微笑を浮かべた。

太一を安心させるようにうなずきかける。

「本当のこと言ってくれよ。友達だろ。俺、応援するからさ――」

太一が打たれたように顔を上げた。

そこに見えた太一の目に、ヤマトの微笑が消える。

こんな苦しそうな目は初めて見た。目の前で大切な物を失いかけているような――たとえるのならそんな眼差しだった。

まぶたが引きつったように震えている。泣くのをこらえるように、太一は何度もまばたきをした。

「ヤマト」

太一の唇は何とか笑おうとして、への字になった。

「お前、俺のこと鈍いとか言ってるけど、お前の方が絶対、鈍いぜ」

目だけでなく、体中が痛い。

あざのせいで痛いのか、溜めてきた想いを口にすることが痛いのか、分からないまま太一は続けた。

「俺、お前が好きなんだよ」

太一は息を吐いて、少し笑った。

強張っているヤマトの顔ではなく、窓の向こうの暗闇を見つめた。

「意味分かるよな?」

「ああ……」

呆然とヤマトはうなずいた。分かる。それくらい分かる。

ヤマトだって、太一と同じ年なのだから、その言葉の意味も、その心も理解できた。

理解できた。太一が自分のことを――。

ヤマトの心を追うように太一はまた言った。

「好きなんだよ」

太一の涙は頬からは落ちず、そのまま乾くくらいの少ない涙だった。

それきり涙はこぼれず、太一はまた笑った。

笑うしかないと言うくらいに、明るい笑顔だったが、まだ目は潤んでいた。

「あーあ、言っちゃったよ」

何をどういえばいいのかわからず、ヤマトは視線をあちこちに彷徨わせた。

「俺は、その……」

男だ。太一と同じ男。太一の友達だ。そう言うと太一はうなずいた。

「知ってるよ」

目を伏せ、太一はすぐに顔を上げた。目を逸らしたのはヤマトの方だった。

「だから、俺……ダメだ」

勝手に言葉が出ていく。もっとちゃんとしたことを言いたいのに、ありきたりな言葉しか言えなかった。

「俺、お前のこと……友達だと思ってるから、ダメだ」

「――ああ。あのさ、ヤマト」

急にこんなこと言って悪い、と太一は低い声でつぶやいた。

語尾が少し震えたのが、ヤマトには忘れられなかった。

「空のこと好きかとか聞くから、かあっときてさ――でも言えたから、もういいや」

太一は笑顔の底にあるような長いため息をついた。また目が潤み出しかけていた。

泣かないでくれと、ヤマトは心の隅で祈った。太一の泣いたところは見たくない。

太一は泣かなかった。代わりに泣き顔よりもヤマトの胸を痛ませる笑みを見せた。

「それにさ、俺――」

――別にすぐに答えがほしい訳じゃないから、のんびり待ってる。

それだけを口早に言うと、太一はさっと背を向け、走り出した。

ペタペタというスリッパの音が廊下にこだまして、ヤマトの耳からいつまでも離れなかった。

馬鹿みたいにそのまま突っ立っていたヤマトは、やがて廊下に落ちていたタオルを拾い上げた。

わずかに湿っていた太一のタオルを握り、ヤマトは太一よりは小さな、それでも同じくらい重い足取りで部屋に戻っていった。