3
洗面所から出る太一のために脇によけて、ヤマトは笑った。
「お前が水使ってたのか」
「ああ」
太一は手にしていたタオルを首にかけた。ヤマトの顔が見えないように、少しうつむく。
「なんだ、びっくりしたぜ」
ヤマトは照れくさそうに続けた。
「トイレに来たら、隣から水が流れる音がするだろ? 一瞬、お化けかと思った」
「バカだな」
太一も少し笑って、タオルの両端を握った。
今、ヤマトの目が自分の目のあざに向けられたのに気づいたのだ。
次の質問は予想通りだった。
「――なあ、喧嘩したって?」
「まあな」
「なんでだ?」
すぐには答えず、太一はスリッパを履き替えて、足音がしないように歩き出した。
ヤマトが後から追ってくる。
ヤマトの部屋と太一の部屋への分かれ道までは、まだ遠い。
太一は言葉を考えながらゆっくり言った。
「お前、もてるだろ」
「はあ?」
突然の太一の言葉にヤマトは思い切り間抜けな声を出した。
自分の質問とそれがどう関係あるのだろうか。
「いいから、聞けよ」
太一はにこりともせず続けた。
「お前、女子に人気があるんだよ。だから……空と付き合うつもりだったら、ちゃんと空のこと守れよ。女子ってそういうところ怖いからな」
「おい、なんで俺と空が付き合うんだよ?」
「俺だって知らねえよ」
太一はタオルを握った手を離して、体の横で拳を作った。
「知らねえけど、そんな噂を聞いたんだよ。風呂上がりに仲良くどっかに行ったって」
「ああ……」
そういうことだったのか。
ヤマトは脱力しながらも、太一にそんな意味でどこかへ行った訳じゃないことを説明した。
「空が心配してたんだよ、太一が元気ないって。だから俺からも聞いてみてくれないかって……」
そこで不意にヤマトは口をつぐんだ。太一の喧嘩の原因が分かった気がしたのだ。
空とヤマトが二人で歩いていたという噂を聞いたと太一は言った。
それは事実だが、そこにつけ加えられたらしい感情はあくまでも噂だ。
だが、噂の主のヤマトと空は、二人とも太一と親しい。その辺から、何かあったのではないか。
とくに空を守れという言葉には、義侠心とはまた別の太一の心が込められているようにも聞こえる。
自分よりも、空との付き合いの方が太一には長い。そこに友情とは違う別の想いが芽生えることだって、考えられる。
ひやりと冷たいものを背中に感じて、ヤマトは立ち止まった。
太一は数歩先を行ってから止まり、振り向かずに声をかけた。
「どうしたんだよ」
別に、とごまかしかけるのを止めて、ヤマトは小声で言った。
「誤解するなよ」
太一が顔をこちらへ向けた。目が少し腫れ、右目に青あざがあるくらいで、他はいつも通りの太一だ。
六年生に進級したからといって、すぐに何もかも変わるわけではない。
身長や体重と違って、心の変化は表にはあらわせないし、数字にもできない。
だから、言葉や雰囲気で探らなければいけないのかもしれなかった。
太一は黙ったままのヤマトに向き直り、眉を寄せた。
「誤解って、何がだ?」
「空のことだよ」
「ああ。俺のこと話してただけなんだろ」
「そうだ。だから、その……空とは何でもないから」
「ああ?」
空のために言っているのか、自分のために言っているのか、ヤマトには分からなくなった。
ただ太一には変な風に誤解して欲しくない。
そんな思いに突き動かされ、ヤマトは言っていた。
「空は――あいつは、俺のことそういう風には思ってないと思うから安心してくれ」
ヤマトの言葉を聞いた太一の顔が歪む。
気にしていたことを突かれた表情と言うよりも、もっと悲しそうな顔だった。
その表情を見て、自分が口走ったことが、太一にも、そして空にも失礼な言葉だとヤマトは悟った。
同時に、こんな傲慢な言葉を言った自分をみっともなく思い、恥ずかしくなった。
自己嫌悪のあまり混乱しかけたが、ヤマトはかすれた声でまず太一に謝った。
「……悪い。その、ごめん……」
太一は足下の緑色のスリッパを見つめた。
聞こうか、聞くまいか迷ったが、結局聞いていた。
「ヤマト。お前、空のこと、好き……だったりするのか」
「違う」
ヤマトは首を振った。
その答えの早さに太一は怖くなった。自分の本当の気持ちを否定するのは、よくあることだ。
その通りだと答えられたら、自分はどんな態度を取ってしまうのか。
祝福など出来そうにない。耐えられそうにもなかった。
「別に嘘つかなくてもいいから言ってくれ」
けれど、嘘をつかれるのも嫌だ。
「違うって言ってるだろ」
「嘘つくなよ」
「ついてねえよ」
かっとしかけ、ヤマトは声を落とした。太一の弱々しい声が気になったが、はっきりと言う。
「本当だ」
太一がヤマトを見つめ、それからまたうつむいた。
「そうか……」
太一の声に深い安堵が混じるのに気づいて、ヤマトは少し動揺した。
誤解は解けたというのに、なぜこれほどに心が騒ぐのだろうか。
空が自分を思っていないからか。ならば、なぜ太一はそれに安心するというのだ。
その疑問から導き出された答えに、動揺を隠せないまま、ヤマトは聞いた。
「太一、空のこと好きなのか」
太一が息を呑んだ。手が震えて、目がまばたきを繰り返す。
「……なんでそんなこと言うんだ」
「いや、空のこと聞いてたみたいだったから……」
言葉を言えば言うほど、自己嫌悪の深みにはまっていく気がする。
ヤマトはいらいらと爪先を動かした。胸がもやもやする。
この胸のわだかまりは太一に問いを発するときだけ、消えるのだ。
太一を見つめて、太一に見つめられるときだけ、胸は少し軽くなる。
「……もし、太一が空のこと好きで、俺と空が一緒にいたこと誤解したんだったら、違うって言いたかっただけなんだ」
「誤解なんてしてねえよ」
太一が首を振り、濡れた髪の先からしずくが飛んだ。
こちらに飛んだら、文句を言おうと思っていたヤマトだったが、しずくは太一の足下に落ちただけだった。
寒そうに太一は体を震わせ、言った。
「ちょっと気になっただけなんだ。女子がなんか怒ってたらしいからさ」
「――太一、言ってくれよ」
太一に見つめられて、ヤマトの心が晴れていく。
そう、太一は意地っ張りだから、自分の気持ちを隠すときがある。
空のことが好きなら、はっきり言って欲しい。
言ってくれたら応援する。大切な友人の恋だから、何としても幸せになって欲しい。
隠さないで自分には教えて欲しい。
その瞬間、どうしてこんなに胸が重たいのか、ヤマトは分かった。
太一が自分に隠し事をしているから嫌なのだ。
それに気づき、ヤマトは柔らかい微笑を浮かべた。
太一を安心させるようにうなずきかける。
「本当のこと言ってくれよ。友達だろ。俺、応援するからさ――」
太一が打たれたように顔を上げた。
そこに見えた太一の目に、ヤマトの微笑が消える。
こんな苦しそうな目は初めて見た。目の前で大切な物を失いかけているような――たとえるのならそんな眼差しだった。
まぶたが引きつったように震えている。泣くのをこらえるように、太一は何度もまばたきをした。
「ヤマト」
太一の唇は何とか笑おうとして、への字になった。
「お前、俺のこと鈍いとか言ってるけど、お前の方が絶対、鈍いぜ」
目だけでなく、体中が痛い。
あざのせいで痛いのか、溜めてきた想いを口にすることが痛いのか、分からないまま太一は続けた。
「俺、お前が好きなんだよ」
太一は息を吐いて、少し笑った。
強張っているヤマトの顔ではなく、窓の向こうの暗闇を見つめた。
「意味分かるよな?」
「ああ……」
呆然とヤマトはうなずいた。分かる。それくらい分かる。
ヤマトだって、太一と同じ年なのだから、その言葉の意味も、その心も理解できた。
理解できた。太一が自分のことを――。
ヤマトの心を追うように太一はまた言った。
「好きなんだよ」
太一の涙は頬からは落ちず、そのまま乾くくらいの少ない涙だった。
それきり涙はこぼれず、太一はまた笑った。
笑うしかないと言うくらいに、明るい笑顔だったが、まだ目は潤んでいた。
「あーあ、言っちゃったよ」
何をどういえばいいのかわからず、ヤマトは視線をあちこちに彷徨わせた。
「俺は、その……」
男だ。太一と同じ男。太一の友達だ。そう言うと太一はうなずいた。
「知ってるよ」
目を伏せ、太一はすぐに顔を上げた。目を逸らしたのはヤマトの方だった。
「だから、俺……ダメだ」
勝手に言葉が出ていく。もっとちゃんとしたことを言いたいのに、ありきたりな言葉しか言えなかった。
「俺、お前のこと……友達だと思ってるから、ダメだ」
「――ああ。あのさ、ヤマト」
急にこんなこと言って悪い、と太一は低い声でつぶやいた。
語尾が少し震えたのが、ヤマトには忘れられなかった。
「空のこと好きかとか聞くから、かあっときてさ――でも言えたから、もういいや」
太一は笑顔の底にあるような長いため息をついた。また目が潤み出しかけていた。
泣かないでくれと、ヤマトは心の隅で祈った。太一の泣いたところは見たくない。
太一は泣かなかった。代わりに泣き顔よりもヤマトの胸を痛ませる笑みを見せた。
「それにさ、俺――」
――別にすぐに答えがほしい訳じゃないから、のんびり待ってる。
それだけを口早に言うと、太一はさっと背を向け、走り出した。
ペタペタというスリッパの音が廊下にこだまして、ヤマトの耳からいつまでも離れなかった。
馬鹿みたいにそのまま突っ立っていたヤマトは、やがて廊下に落ちていたタオルを拾い上げた。
わずかに湿っていた太一のタオルを握り、ヤマトは太一よりは小さな、それでも同じくらい重い足取りで部屋に戻っていった。