太一の様子が妙なことに気づいていたのは空だった。

はしゃいでいたかと思えば、ふっと沈み込んで、誰かに話しかけられるとまた元通り笑い出す。

落ち着きがないどこか不安定な様子の太一が気になって、空はさりげなく太一に何かあったのか聞いてみた。

京都の夜の町並みを見下ろしながら、太一は気のない様子で望遠鏡の辺りをうろついていたが、空に声をかけられると、不思議そうな顔をした。

「別に、何もないぜ」

「そう?」

「ああ。――な、光子郎におみやげ買ったか?」

太一は強引に話題を変えようとした。

それに気づいて一度は聞き直そうとした空だったが、こんなときに聞きだそうとしても太一は絶対に話そうとはしないだろう。

それくらいは空にも分かる。

「――ううん。最後に買おうと思って。太一は買った?」

「いや、まだ。あいつって何買っていったら喜ぶかなあ?」

「うーん」

よくある観光みやげというのも芸のない話だ。ひとしきり話したが、結局最終日に一緒に考えて、買おうという結論に落ち着いた。

「ねえ、ヒカリちゃんのは買ったの?」

「まあ、一応……」

「何?」

「いいだろ」

太一の頬が少し赤くなった。この年頃の少年が買うには恥ずかしかったようなものなのかもしれない。それとも買うときに友人にからかわれたか。

一人っ子の空は兄弟がいる太一やヤマトがちょっと羨ましく思えた。

太一は空の顔をのぞき込んだ。

「空は?」

「え?」

「母さんになんか買ったか?」

「ううん、まだ」

そう言えば、家を出る前に少し恥ずかしげに母が、生八つ橋を買ってきてと言っていた。

「買わないのか」

「買うに決まってるじゃない」

帰って、生八つ橋をお茶請けにして母とお茶を飲むのだ。それを思って空はほほえんだ。

「なんだよ」

不思議そうに太一が空の笑顔を見つめる。

「あのね、うちのお母さん、生八つ橋が好きなんだって」

「へえ」

太一が笑った。

「じゃあ、買って帰らなきゃな。忘れるなよ」

「当たり前でしょ」

一瞬だけ感じた寂しさは消えて、空は窓からの夜景を眺めた。

「ヤマトは――」

「えっ?」

太一が漏らした言葉に空はまた太一へ目を向ける。

「……何でもない」

太一はあわてたようにごまかし、空から離れた。

太一の顔が見えなくなる前、目が夜景ではなくそれを見ている別の少年たちの方へ向けられたのに空は気づいた。

すぐにそらされた視線が、見つめたのは間違いなくヤマトだった。

(ヤマト?)

下の明かりを指して笑っているヤマトの横顔を見て、空は首を捻る。

(喧嘩でもしてるのかしら?)

太一の顔とヤマトの顔を思い浮かべながら、空はヤマトのもとへ向かおうとした。

しかし間の悪いことに、集合をかける教師の声がフロアに響く。移動し始める生徒たちの中にはヤマトもいた。

声をかけようと足を踏み出したところで、

「武ノ内さん、行こう」

同じ班の少女が目聡く、空を見つけ声をかけてきた。

「……うん」

しょうがなく、皆が集まる方向へ歩き出す。

振り返った先に、同じくこちらへ向かい出す太一の姿もあった。

距離はあったが、空には太一が漏らしたため息が聞こえた気がした。

「ヤマト」

聞き慣れた声にヤマトは振り返った。

「空、どうしたんだ」

確か空のクラスの風呂の順番は終わっているはずだ。なのに、どうしてここにいるのだろう。

ヤマトのまだ濡れた髪とは違って、空の髪はほとんど乾いている。

湿ったタオルを首にかけ、ヤマトはどぎまぎと手にした着替えを意味もなく、右手から左手に持ち替えた。

こうやって空に話しかけられると、なぜか緊張してしまう。

太一と一緒のときはそうでもないのだが、空と二人で話すのはヤマトにはめずらしいことだ。

横にいたヤマトの友人が先に行ってしまうと、空は声を潜めるようにして言った。

「ちょっと話があるんだけど、いい?」

「だったら場所変えようぜ」

横を風呂を終えたばかりの、クラスメイトが通り過ぎていく。男子の冷やかし混じり、女子の興味深げな視線にヤマトの頬が自然に赤くなった。

こそこそと場所を移す二人の姿を壁に隠れて見ていた少年に、同じクラブに所属する別の少年が声をかけた。

「何してんだよ、八神」

「別に」

じつにぶっきらぼうな声で太一は返事すると、早足で浴場の前から立ち去った。

 

あまり人目に付かない場所を選んで、ヤマトと空は向き直った。

「話って?」

「太一のことなんだけど」

「太一がどうかしたのか」

「喧嘩したのかと思ったんだけど、違う?」

ヤマトは目を丸くした。

「俺たち、喧嘩なんかしてないぜ」

ヤマトの様子は意地になったものではない。空の意外な言葉に驚いているようだ。

ごく自然なその態度に空は眉を寄せた。

ヤマトが逆に聞き返す。

「なんでそう思ったんだ?」

「太一、なんだか変だと思わない?」

問いに問いで返されて、ヤマトも眉を寄せた。

「変って言われてもな」

初日に三年坂の辺りで顔を合わせたくらいで、後はまったく喋っていない。

クラスも違うし、班も違うのだからしょうがないと言えばしょうがないが、そのことを空に責められている気がして、ヤマトの声は小さくなった。

「どこが変なんだ?」

空は自分が感じた太一に対する疑問を簡単にヤマトに話してやった。

「……そう言われると、そんな感じもするな」

こんな行事では真っ先にはしゃぎそうな太一なのに、普段の様子から考えれば驚くぐらいおとなしい気もする。

「何かあったのか?」

「私もそれが知りたいの」

空とヤマトは顔を見合わせ、ため息をついた。

ヤマトは重たい口調でつぶやく。

「こんなとき、光子郎や丈がいたらな」

「どうして?」

「あいつらだったら、太一も何か話す気がすると思ったんだ」

空は思わず吹き出してしまった。

「何がおかしいんだよ」

空は笑いをこらえながら、言った。

「丈先輩や光子郎に話すなら、私やヤマトにだって話すでしょ」

「そ、そうだよな」

どうしてそんなことを思ったのか――ヤマトも笑った。

「そうよ」

空は笑って、それからまた心配そうな顔になった。

「でも、どうしたんだろう……太一」

「本当だな」

――いつの間にかヤマトの髪も乾いていた。

それからもう少し太一のことを話して、空とヤマトはそれぞれの部屋へ戻って行った。

それは要するに、共通の友人を心配する二人の友人同士の会話に過ぎなかったのだが、そうは思わないのがこの年頃の少年、少女たちである。

「なあ、八神」

「なんだよ」

同室の友人がこっそり持ってきたゲームボーイの画面を見つめながら、太一は気のない返事を返した。

就寝の時間は三十分前だったが、ほとんどの部屋ではこんな風におしゃべりが交わされているだろう。

今日が最後の夜、明日には帰るのだから、それも当たり前だ。

残して置いたお菓子を布団の上に広げて、小さい声で笑っていた友人たちを尻目に、太一はかなり昔に発売されたゲームをやっていた。

教師に見つかれば、全部没収だろうが、そんなへまはしない。

布団の中に、部屋にあった懐中電灯を持ち込んで、太一はゲームに夢中になっている振りをした。

だが、友人はなんとか太一を話しに加えようと色々話しかけてくる。

適当に返事を返していた太一だったが、話の中に知っている名前が二人そろってあげられるのを聞いて、顔を上げた。

ゲームオーバーという文字も無視して、乱暴に電源を切ると太一は、ヤマトと空の名前を口にした少年をにらみつけた。

「何だって?」

「だから、女子が騒いでたんだって」

風呂上がりのヤマトを空が呼びだして、仲良くどこかへ歩いていったと言うのである。

「石田に告白したんじゃないかとか言って、すっげえ剣幕だった」

「……誰が誰に告白したって別にいいだろ」

太一の動揺したような声に友人達は次々と仕入れてきた情報を教え始めた。

「石田には抜け駆け禁止だったらしいぜ?」

「女って、怖いよなー」

「八神、武ノ内と仲いいのにいいのかよ」

けらけらと笑い声が起きる。太一の目が鋭くなったが、まだ誰も気づかない。

「でも、石田とも仲いいよな」

「お、ひょっとして三角関係?」

太一は何も言わなかった。言葉を発することなく、太一はバカなこと言った少年たちに均等に蹴りと拳をくれてやったのだ。

八つ当たりも含まれていたかもしれないが、それは太一にとっては問題ではなかった。

教師陣が、1003号室の男子が暴れてますと言う隣室の女子からの話を聞いて駆けつけたときには、騒ぎは収まっており、
太一は目に青あざを一つこしらえていた。

部屋の隅と隅に離れ、太一と他の少年達はそっぽを向き合っている。

手当もそこそこに怒られ始めた1003号室の男子たち――とくに先に手を出したせいもあり太一が一番怒られていた。

太一は言い訳もせずに、むっつりと黙って、下を向く。

その太一は全員にほぼ同じだけの数のたんこぶをこしらえさせたが、そのうちの一人だけ、たんこぶが他の少年たちに比べて一つ多かった。

彼がうわさ話を始めた少年であったことは太一しか知らない。

とにかく就寝後の私語は厳禁ときつく注意され、騒ぎの果てに見つかったゲームボーイもお菓子も没収され、教師の説教が終わった後、
ようやく布団を敷き直し、寝ることになった。

騒ぎのせいで他の部屋の生徒たちも、起きてはいるがかなり静かになったようだ。

1003号室では太一をのぞいて、まだこそこそと話が続いていたが、さすがに二時を過ぎ、三時近くになると、一人また一人と寝息が増えていく。

全員分の寝息が聞こえ始めると、太一は起きあがって、タオルを持つと静かに部屋を出た。

スリッパの音がなるべく廊下に響かないように、手洗いと隣接した洗面所まで歩いていく。

まだ話し声が聞こえる部屋もあったが、太一のスリッパの音が聞こえると途端に静かになる。

こんな時間にまで見回りはする訳ないはずだが、やはり多少は後ろめたいものらしい。

ドアを開け、洗面所のスリッパに履き替える。

常夜灯の明かりの下で見た右目は、思ったよりは腫れていなかった。

蛇口をひねり、水を出す。最初は少し温い水も、流れていくにつれ、冷たくなっていく。

太一は冷たくなった水で顔を洗った。冷たさに顔が突っ張るようになっても、止めずに何度も洗った。

肩が少し揺れて、太一は一度だけしゃっくりのような嗚咽を上げた。

水を止めないまま、乱暴に顔をこする。

せっかく冷やした目をこすったので、圧迫されるような痛みが目の回りに走った。

顔を拭いても、目から出てくる熱いもののせいで頬は乾かない。

どうして泣いているのか、理由も分からないまま太一は目をこすり続けた。

柔らかいタオルが水を吸い、湿っていく。

壁面を飾る薄緑のタイルに、流れっぱなしの水の音が反響していった。

空とヤマト、一体何を話したのか。それは自分は割り込めない話だったのか。

そこに感じたのはまぎれもない嫉妬だ。

空と親しげに去っていくヤマト。ヤマトと仲良く去っていく空。

――いつまでも仲のいい友人では、同じままではいられない。

空とヤマトがそんな仲になったからといって自分がどうこうできるわけがなかった。

冒険していた頃のようにはいかない。こちらの世界では時間は流れるのだ。

自分たちは成長する。気持ちだって変化する。

それを成長というのかどうかは分からないけれど、そんな想いに気づいたからには今まで通りではいられない。

少しずつ大人になって、どう願おうともかなわないことがあるのだと知っていく。

三人いて、二人が幸せになるのなら、一人は、そうはいかない。

空とヤマトが隣り合うなら、太一は二人から少し離れなければならないのだ。

たとえ相手が空でなくても、いつかはヤマトからは離れなければならない。

ヤマトの隣りに立つ誰かのために、その場所を空けるために距離を置くだろう。

太一は男で、ヤマトも男だ。同じ男同士だったから、親友になれた。

けれど、何気なく交わす会話にも、ふと見かける彼の仕草にも、何もかもに目を惹かれてしまうのは一体どういうことなのだろう。

ふざけてやる取っ組み合いで触れあったとき、どうしてこんなに緊張してしまうのだろう。

目が合うと胸が早くなる。今まで通りに話しかけられない。

全身の勇気を振り絞って、ヤマトと名前を呼ばなければ声がかけられない。

それなのに、振り向いて笑いかけてくれると、どうしようもなく嬉しくなってしまう。

いつから、そうなっていたのかわからなかった。

気がつけばヤマトをまともに見つめられない自分がそこにて、ヤマトのことしか考えていない自分になっていた。

どこをどう取っても、これはおかしい。友人に、親友に抱くような気持ちではない。

ヤマトが相手が誰であれ、他人と話しているところを見れば、相手を恨めしく思い、何を話しているのか知りたくてたまらなくなる。

ヤマトを目で追い求め、見るだけでなく、彼から見つめて欲しいとも思うときすらあった。

――これは、恋なのだろうか。そして恋だとすれば、これほど意味のない想いもめずらしい。

そんなむなしい恋をするとは――よりにもよって男、しかもヤマトを好きになるとは。

相手は友人、冒険を共にした仲間だ。そして今は、想いを捧げる相手になった。

 パジャマ代わりのズボンのポケットからデジヴァイスを取った。

デジモンたちを進化させてくれたように、今の太一の心を受けて、動いてくれないだろうか。

友情と思っていた想いが恋になったように、早くこの恋も思い切れるといい。

もう一度友情に戻ってくれればいい。この小さな機械がそんな風に気持ちまで進化させてくれれば、どれだけ嬉しいことだろうか。

冷たい感触にため息をついて、太一はデジヴァイスを再びポケットに仕舞った。

明日、ヤマトと空にどうして喧嘩したか理由を聞かれたとき、どう答えるか今から考えておかなければならない。

水を止めて、太一は洗面所から出ようとドアを開けた。

まさか、と思った。どうしてこんなにタイミングが良いのか……いや、悪いのか。

ドアを開けた先にはヤマトが立っていた。その手は今、ドアを開けようと伸ばされたばかりのようだ。

「太一?」

驚いたように自分の名を呼んだヤマトに太一はなんとも言えない目を向けた。